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「あらあらまあまあ、大きなトカゲさんですねえ! ほら、コタロウくん見てご覧なさい。羽根も生えていますよ!」
ばあちゃんのテンションが最高潮に達した。あまりに興奮しすぎて、頭の血管が切れないことを祈る。
同じ日の昼下がりのことだった。ついにアヴァリュートは、再び翼を解き放った。俺とガークを背に乗せて洞穴を飛び出し、こもれびの杜が建っているところまでやって来たのだ。
「ほら、どうってことなかっただろ!」
しばらくぶりの陽光を浴びて、アヴァリュートは随分と気持ちよさそうだった。
『いまはなにもかもが順調に思えるが、いざとなれば頼んだぞ』
「今のは誰の声ですか! ねえコタロウくん!」
ばあちゃんはきょろきょろと辺りを見渡す。アヴァリュートの声は、脳に直接語りかけてきているような感覚だから、鮮明に声が聞こえてくるのだろう。今まで聞いたこともない荘厳な低音ボイスだから、きっとばあちゃんもびっくりしたに違いない。まさか「大きなトカゲさん」が人語を操るとも想像がつかないだろう。
「アヴァリュートさん、どうだ? 太陽は気持ちいいだろう」
『うむ』
アヴァリュートは頷いた。ガークも心なしか嬉しそうに表情を緩ませている。
「じゃあまずは、アヴァリュートさんが普通の生活に戻れるように、俺たちがみんなでサポートするから」
アヴァリュートがおかしくなったところを、俺はまだ見ていない。本当にこの人……じゃなくて竜は認知症なのだろうかと首をかしげたくなる。
認知症になった人間を相手にしているときと同じだ。その場では会話も成立しているし、彼らは自分の記憶がないという事実をごまかすことが得意だから、健常者と変わらないしゃべりをすることが多い。それに比べると、アヴァリュートの言動はなにも問題がないように感じられるが、それは俺が彼のことをまだよく知らないからだろう。
そのとき。ぐうううううっとガークの腹が盛大に鳴った。
「あらあら、おにいちゃん、お腹が空いちゃったんですか?」
その音にすかさず反応したのは、ばあちゃんだった。ガークは頬を赤らめて「いや、これは……オレのことは気にするなっ……」とあたふたしている。
「そういえば、朝からなにも食ってなかったな。筒原さん、ばあちゃん、俺たちも食事にしませんか? ガークも食ってけよ。テイトウイモのお返しだ」
俺の提案に、ガークはああと頷いた。「オマエたちがどんなものを食しているのか、非常に興味がある」
そんなに対したものじゃないと、俺は謙遜した。昨日、ホライゾンで注文した食料は、たんまりとこもれびの杜の中に置いてあるが、いずれもインスタントのものばかりだからだ。
「じゃあ、準備するよ」
筒原さんたちに、外で待っているように伝えてこもれびの杜に入ろうとすると、ガークがとことこと後ろから着いてくる気配がした。
「竜族はふだん、なにを食ってるんだ?」
「食料は畑で作物を育てたり、狩りをしたりして確保している」
他の種族と戦うとか、魔法で(そんなものがこの世界に存在しているのかどうかはわからないが)食料を召喚するなどといった突拍子な方法で食べ物を確保しているわけではなさそうだ。
俺はホライゾンの段ボールから、パックのご飯と牛丼の素を人数分用意する。いずれも湯煎や電子レンジで温められるタイプのものだ。
「アヴァリュートさんには、俺たちが食うよりも多い量を用意してやらないとな」
「かたじけない」
ガークが再び、頭を下げる。古い言葉を使うと、「ごめん」というよりも礼節を重んじているように感じるから不思議だ。
俺はスマホで、ホライゾンにアクセスして、パックご飯と牛丼の素を大量に注文した。その数おおよそ三十人分。あとはそれを一気に温められる大きさの寸胴鍋と、電気で動くクッキングヒーター。異世界にきても、元いた世界の文明の利器を使えるのは最高だ。
購入ボタンを押すと、デスクの上にドドドドッと段ボールが降り注いでくる。その衝撃でミシミシと机が軋んだが、加重にはなんとか耐えられたようだ。
「ガーク、手伝ってくれ」
その様子をぽかんとした表情で見つめていたガークは、俺の呼びかけに一拍遅れて反応した。
「あっ、な、なにをすればいいんだ?」
「この段ボールから、品物を全部出しておいてくれ」
俺はガークにそう言い残して、給湯室に入り、寸胴鍋に水をたっぷりと入れた。事務所に戻ると、梱包を解き、クッキングヒーターをコンセントに繋いだ。
「さっきからなにをやってるんだ、コタロー。オマエ、魔術師だったのか?」
ガークの声が、ヒーターの電源が入る電子音に混じって聞こえてきた。顔を上げると、彼は驚愕の表情を隠そうともせず、俺のことを見ていた。たしかに、俺がスマホを操作して、その直後に何もない空間から段ボールが降ってきたら、誰だって驚くだろう。この不思議な現象に慣れないといけないと自分に言い聞かせている俺も、なにがなんだか分かっていない。
元いた世界でも、インターネット然り、日常に溢れている色んな機械然り、原理のわからないまま使っていたものなんてごまんとあった。それと同じだ。よく分からないけど、便利なモノを使わない選択はない——と、俺は考察をすでに放棄していた。
やがて湯が沸騰してきたので、パックご飯と牛丼の素を鍋の中にぶち込んだ。かさが増して中の湯が幾分か鍋の外に溢れ出る。
「その台に鍋を置くと、水が沸き上がるのか?」
「ああ、そうだよ。俺たちの世界では、いろんな便利な機械がある。俺は魔術師じゃないけど、たしかにびっくりするよな」
竜族の暮らしは、俺たちが築き上げていた文明に比べると、幾分原始的なものなのだと推察する。一方で、ガークの口から『魔術』という言葉が出たということは、ベリュージオンにはそれを扱うことのできる者が存在しているのだろう。
「やはりコタロー、オマエは魔術師だ」
おいおい断言するな。俺は苦笑する。俺たちが当たり前のように使っていた道具も、とらえようによってはそう解釈されるんだろう。たとえば、明治時代や江戸時代からタイムスリップしてきた人が現代の生活を目の当たりにしたら、腰を抜かして驚くにちがいない。
レトルトが温まる前に、食器を準備する。俺たちの分は普通の丼鉢で大丈夫だろうが、アヴァリュートが食べる分はどうやって盛ろうか。少し考えたところで、俺は給湯室の奥から巨大なたらいを引っ張り出してきた。
食材がほどよく温まったところで鍋から取り出し、ガークと手分けをして食器に盛り付けた。
「ガーク、これは牛丼っていう料理なんだ」
「ギュウドン……」
ほら、お前の分だと手渡した器を、ガークは両手で大事そうに抱えながら、すんすんと香りを嗅いでみせる。
「なんだこの美味そうな匂いは!」
「肉と玉ねぎを甘辛く煮込んで、米にぶっかけるんだ。うまいぞ~。さあ、みんなで食おうぜ」
外に出ると、筒原さん、ばあちゃん、アヴァリュートの二人と一匹は、輪になってなにやら談笑をしているようだった。それにしても二人は状況を受け入れるのが早いな。ばあちゃんはきっと、よく分かっていないんだろうけど。
「おまたせしました。みんなで食えるように、牛丼を用意しましたよ。つっても、レトルトっすけど」
俺は筒原さんとばあちゃんに、スプーンと牛丼を手渡した。
「ありがとう、空野くん」「コタロウくんは優しいねえ」
見ると、二人は切り株の上に腰掛けていた。いったいどこからそんなものを用意したのかと疑問に思っていると、「アヴァリュートさんが、近くの木を切り倒して、椅子を用意してくれたのよ」と筒原さんが説明してくれた。
「ほら、これはじいちゃんの分だ」
ガークが大きなたらいを頭の上に持ち上げ、事務所の中から運び出してくれていた。結構重いはずだけど、たぶん竜族の若者にはたいした重量ではないんだろう。
「アヴァリュートさん、これは俺たちの世界で、牛丼と呼ばれている料理だ。米という穀物の上に、甘辛く煮た肉と根菜をのせてある。口に合うか分からないけど、食ってみてよ」
『ふむ。有り難く頂戴しよう』
ガークは待ちきれなかったようで、凄い勢いで事務所に戻って、自分の分の料理をもってくると、地面に胡座をかき、いただきますと口にした瞬間にかぽりと一口、食塊を頬張った。
「どうだ? 美味いか?」
俺たちが普通に食べていたものは、果たしてこっちの世界の人たちにも受け入れてもらえるのか。緊張の一瞬。俺はごくりと生唾を飲み込む。そのとき。
「なんだこれ! すんげえ美味い!」
ガークが目を見張って、驚嘆の声を出した。俺は安堵する。
「そんなに美味いか?」
「ああ! いままでこんなもん、食ったこともない!」
ガークはどんぶりに顔を突っ込んでがつがつと牛丼をかきこんだ。
「まあまあ、おにいさんは食いしん坊さんですねえ」
そんな彼を見て、ばあちゃんは目を細めた。「若い人は、たっくさん食べて、大きくならないとね」
アヴァリュートは、まるで犬がそうするかのように、たらいの中の食事を食べていた。何も言わない。だから、美味いのか不味いのか、確認することはできなかった。
「なあ、アヴァリュートさん、口に合うか?」
だから俺は尋ねた。アヴァリュートは、たらいの中から顔をあげ、俺をじっと見つめた。口の周りに、食べカスがついている。ちょっとだけ笑いそうになった。
『我もこのような馳走は口にしたことはない。素材の旨みが凝縮されていて、非常に美味であるな』
「そうかそうか、良かった」
俺も自分の分を食べる。可もなく不可もなく……食べ慣れた味だ。筒原さんとばあちゃんも、文句も言わずに咀嚼していた。
アヴァリュートが洞穴を出てから初めての食事の席は、特に大きなアクシデントもなく、普通に終わった。筒原さんがみんなが食べたあとの食器を集めて、事務所の中に引っ込んでいった。
「ご馳走様でした」
『馳走になった』
「はい、お粗末さま」
ガークはしっかりと顔の前で合掌してそう言った。きちんと躾けられていたのだろう。ガークと交流する時間が増えていくにつれて、彼への印象がどんどん良くなっていく。生きてきた時間は、ガークのほうが俺の何十倍も長いだろうが、感覚的には弟のような存在になりつつあった。
異変が起きたのは、その日の夜のことだった。寝床についていた(といっても、こもれびの杜の事務所の床に布団を敷いただけだ)俺は、物音がしたような気がして、目が覚めた。むくりと上半身を起こして確認すると、やっぱり外でごとごととなにかを揺らすような音がしている。立ち上がり、戸口に手をかける。
——夜襲か? と、元いた世界で平凡に暮らしていたら、到底思い浮かばない展開を想像する。
こもれびの杜に、危険が及ぶかもしれないという予感など、頭からすっぽり抜けていて、飛び出すようにして外の様子を確認しにいく。
「おい! なにやってんだよ!」
目の前に飛び込んできた光景に、俺は思わず大きく叫んでいた。
『誰だ貴様は! なんだこの建造物は! 我々竜族の領地に無断でこのような建物を建てるなど……』
アヴァリュートの巨体がこもれびの杜に覆い被さり、建物を根こそぎ破壊しようとしていた。
「やめろっ! おい!」
俺はアヴァリュートの尾の先にしがみついて、制止しようとした。もしもこのまま建物が崩れるなんてことになれば、筒原さんとばあちゃんにも危険が及んでしまう。最悪の事態になる前に、なんとかしないと。
アヴァリュートは俺を見るなり、『誰だ貴様は』と言った。つまり、いま彼の記憶の中では俺の存在を忘れてしまっているということだ。
俺がアヴァリュートの尾に密着したところで、彼の暴走を止められるわけはない。ガークは「オレも今宵はここにとどまるぞ」と言ってくれてはいたが、そんな必要はないといって、集落に帰してしまった。数時間前の自分に、心の中で恨み節を唱えながら、どうしたものかと思案する。
人間が暴れているだけだったら、最悪、羽交い締めにして制止すればなんとかなるかもしれないが、相手は竜だ。いままで架空のいきものだと思っていた存在が実体となって目の前にいるのだ。初めての経験に、心がすくむ。介護の知識はあっても、実際の現場でそれを活かせるかどうかは別だ。予想もしていなかったことが起こるのは茶飯事だけれど、そのことにいちいち狼狽えるのもまた、おなじだった。
——どうする、俺……。
真夜中。ベリュージオンの上空は、地球のそれと同じくらいに星が瞬いている。青色の月が——ここでは月と呼ぶのかはわからないが、色は違っていても形はよく似ている——、雲の隙間から少しだけ顔を覗かせている。時折そよぐ風は、昼間とはちがってひんやりと涼しい。
「アヴァリュートさん、あぶないっすよ!」
俺は尻尾から離れて、アヴァリュートに呼びかけた。「そんなことをしたら、ガークくんに怒られますよ!」
『貴様、ガークを知っているのか?』
アヴァリュートの動きが止まる。俺を見る。『ガーク』という、アヴァリュートにとって聞き覚えのある名前に、脳が反応したのだろう。
『それに儂の名も……ロイメン、貴様は我々の顔見知りであったか?』
「やだなあ、アヴァリュートさん、俺ですよ、お・れ!」
『ふむ』
アヴァリュートは思案する。おれおれと連呼してしまっては、高齢者を狙って頻発した詐欺の常套句みたいだと、心の中で苦笑した。
「ガークの友人か」
ほんとうにガークに、そういう存在がいるのかはわからない。アヴァリュートの頭の中で、脳が勝手に判断して作り話をしているだけかもしれない。現実にありもしないことを本人がそうだと思い込んでいる可能性がある。
ガークの口からは、一度も「ロイメンの友人がいる」という話が出たことはないからだ。認知症の人が作話をするときは大体、「今さっきわたしの娘がもってきた百万円を知らない? あなた、持って帰ろうとしてるんじゃないでしょうね」などといった突拍子もないことをいわれて困るのだけれど、今回ばかりは俺の都合のいいように解釈してくれたみたいだ。助かった。
「そうです、俺はガークくんの友達の虎太朗といいます。実は、ここからずっと遠い場所で暮らしていたんですけど、住む場所を追いやられてしまって、ガークくんに相談したら、ちょっとくらいならこの森に住んでいいっていわれたので、場所を借りています」
まるで値踏みするかのような視線を浴びて、俺の体は硬直する。あまりにも下手な作り話だったかと冷や汗をかいたが、アヴァリュートはやがて『そうか』と頷いてみせた。
友達のことはさておき、じゃあこの建物はどこから湧いてきたんだとか、そういう返答に困るようなことを継ぎ足しで問われたらどうしようかとひやりとしたけれど、今のところ大丈夫そうだ。
「それよりアヴァリュートさんこそ、こんな夜にどうしたんですか?」
話題を変える。目下の脅威を取り除くために、アヴァリュートが今やろうとしたことを「忘れさせる」必要がある。
『うーむ』
アヴァリュートが短く唸った。ぐわりと巨軀を動かして、地面に降り立つ。地面から上空に向けて風が舞い上がり、俺のシャツがふわりとはためいた。
『儂は……儂はなにを……』
てめえはこもれびの杜の建物に覆い被さって、破壊しようとしてたんだろうが……とは言えなかった。
「アヴァリュートさんは、ガークくんに頼まれて、俺たちの寝床の警護をしてくれていたんですよねっ! でも、俺が邪魔しちゃったみたいで、すみません」
『ああ……かまわぬ。案ずるな』
アヴァリュートはなにかまだ腑に落ちていないような声色のまま、穏やかにそう言った。急に変な回路にスイッチが入らない限りは、また暴れ出すこともなさそうだ。
『朝までここで、見張りをしていればいいんだったな』
「そうっすね。お願いしますよ、長老さん!」
認知症の人は、自分がもの忘れをすることを誤魔化すことがうまい。虚勢を張るためなのか、自分の記憶がないことを認めたくないからなのか、とにかくその場しのぎのように周りの人の言うことを鵜呑みにして、話を合わせようとすることがあるのだ。……たまに「そんなはずはない!」といって逆上する人もいるけれど、アヴァリュートはそういうタイプではなさそうだ。
かつては竜族の戦士として一族を守るために、自身も集落の警護についたことがあるかもしれない。『長老』という立場にある者が、一族のなかでどういう役割を担っているのかはわからない。ただ、病気を患った年寄りは、過去の自分の立場に固執している場合が多い。自分が一番活躍していた時代。それは人生の中で、最も充実していたときであっただろう。
『あいわかった。この場所の警護は、儂に任せろ』
アヴァリュートは、心なしか得意げにそう言ったように聞こえた。自分がいま何をすればいいのか不安なとき、誰かに役割を与えられたら、自分の存在意義が認められたようで嬉しくなる。それは年齢に関係なく、みんなそうだよな。
じゃあよろしくと言って、俺は事務所の中に戻った。扉を閉めて、窓の隙間から外の様子を観察する。アヴァリュートはおとなしくなって、事務所の入口の近くで丸くなっていた。
——今夜は夜通し観察だな……。
これは夜勤とおなじだ。一人の要介護者を夜通し見守ること。
ばあちゃんのいびきが微かに聞こえてくる。今夜もちゃんと寝てくれているようだ。最近のばあちゃんは夜中に起きて、動き出してしまうということはあんまりないけれど、昼夜逆転といって、昼間に眠りこけて、夜になると目が冴えて活動的になってしまう人もいる。そうすると、周りの介護者はたまったもんじゃない。基本的に社会生活において、人間は、昼に活動して夜は寝るというサイクルが定着しているからな。
これ以上なにもおこしてくれるなよ……という俺の願いが、ベリュージオンを統率する神様(そんなもん、いるのかどうかはしらないけど)に届いたのだろうか、アヴァリュートは朝まで落ち着いていた。ちなみに、俺が頼んだことはやがて忘れていったのか、彼はしばらくすると気持ちよさそうに眠っていた。
「あれ? 空野くん、寝てないの」
日が昇ると、一番に起きてきたのは筒原さんだった。さすがに連日俺やばあちゃんと一緒の空間に眠るのは気が引けたのか、更衣室に布団を敷いて寝るようにしたのだ。
「ええ、ちょっと……」
俺はそう言って、真夜中にこの事務所が崩壊の危機を迎えたことの始終を話して聞かせた。
「まあ、そんなわけで、俺が夜通しアヴァリュートを見張っていたわけです」
「空野くん、そこは見張るじゃなくて、『見守っていた』でしょ」
「……そうっすね」
そうだ、これも介護の仕事をしているようなもんだ。
「一度落ち着いたあとはずっと寝てくれていたから、助かりました」
「うーん、あんなに大きなドラゴンが暴れ回って、手がつけられなくなっちゃったら、私たちどうしたらいいのかしら。空野くんが勇み足で事を進めちゃったもんだから、竜族のみなさんにはいまの状況を受け入れてもらってないんでしょう?」
「ええ、まあ……」
「幸いなことに、ガークくんからは受け入れてもらったようだけど。まあ、アヴァリュートさんの唯一の家族が貴方の行動を支持してくれてるんなら、よかったじゃない」
「筒原さん」
「なあに?」
「筒原さんはどうして、今の状況を冷静に受け止めているんですか?」
俺は話題を変えた。自分の勇み足に関しては、あまり突っ込まれたくない。
「私はね、貴方のこれまでの人生よりも長い時間を、この仕事につぎ込んできたの。数えきれないほどの訳のわからないこともたくさん経験してきたわ。そうすると、段々と、突拍子のないことに直面しても、『ああ、そんなことか』って思ってしまうようになったの。今回の件も、こうなっちゃったもんはしょうがないじゃない。目の前で起きていることは、どんなものであっても、受け入れるしかないのよ」
赤いちゃんちゃんこを贈られるような年齢に達すると、人生を達観できるようになるのだろうか。俺にはまだわからない。
「じゃあ、この世界で最初の利用者さんの様子を見にいってみましょうか」
俺はやはり、いい上司をもったようだ。介護の世界はどういうわけか、職場の人間関係が原因で職を転々としている人も多いらしい。その点では俺の社会人としてのデビューは恵まれていたといえるだろう。……今となってはもう、元の世界のどこにも転職をする手立てはないんだろうけど。
「おはようございます、アヴァリュートさん」と、事務所の扉を開けて、筒原さんはアヴァリュートに声をかけた。
『うむ』
「夜はよく眠れましたか」
『ああ、目覚めは良い。だが、なぜ儂はここにいるのだろうか』
「久しぶりに月明かりの下で眠りたいって言ってたじゃないっすか」
俺はすかさず口を挟む。ううむとアヴァリュートが唸って、『そうだったか』と呟いた。
アヴァリュートは、昨晩の記憶がすっぽりと抜けているのだ。
「筒原さん、俺の見立てですけど……」
そう言って、小声で話す。「アヴァリュートは、昼間はまだしっかりしているけれど、夜になると症状があらわれやすいんじゃないかって……」
「そうね、まだ閉じ込められていた洞穴から出てきてすぐだから、結論を急ぐのは早いけど、充分に考えられる可能性ね」
そうだ。介護は、ひとつのことに固執して決めつけてはいけない。
「じゃあ、今日も、アヴァリュートさんのそばについて、彼のことについていろいろ知っていきましょう」
おお。筒原さんはやる気満々だ。やっぱり介護という仕事が好きなんだな。
朝の日差しが高くなってきた頃、ガークはこもれびの杜にやって来た。一緒にサティーもいる。
「おはよう!」
俺の挨拶に、ふたりはぺこりと頭を下げてみせた。
「……じいちゃんは、大丈夫だったか?」
「ああ、心配すんな」
大丈夫じゃなかったけどな。「夜はだいたい、静かに寝ていたよ」
それだけ言えば、ガークは安心してくれるだろう。
「じいちゃんおはよう。よく眠れたか?」
『ガーク、貴様、儂を年寄り扱いしおって』
「扱いじゃなくて、年寄りなんだから仕方ねえだろ」
軽口を叩くガーク。それを微笑ましげにみているサティー。俺……どころか、筒原さんやばあちゃんが生きてきた以上に長い時間を幼馴染みとして過ごしてきた彼らの親密な関係性が垣間見える。
「コタロー、なんだか眠そうだが、寝ていないのか?」
俺が朝陽に目を瞬かせているのを、ガークは目ざとく見ていたらしい。俺のほうへ近づいてきた。
「ああ、でも、気にすんな」
「もしかして、じいちゃんのせいか?」
「俺が好きでやったことさ」
「そうか、すまなかった」
ガークは察しがいいから、俺が誤魔化してもすぐに真実を見抜くだろう。だったら、最初から正直に言っておいたほうがよさそうだ。
「コタロー、オレからも報告がある」
ガークがそう言ったときだった。
「あんれえ!?」
俺の背後、つまり、こもれびの杜の事務所の中から、ばあちゃんの素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「ばあちゃんっ!」
急いで中に入って様子を確認する。ばあちゃんは、自分が夜に寝ていた布団の上に立ち、きょとんとした表情で俺の方を振り返った。
「ああ、コタロウくん、よかったよかった。良かったですよお」
「突然大きな声を出してどうしたんだよ。外にまで聞こえてきたぞ」
「ごめんねえ、ばあちゃん、頭が耄碌していますからね、まーた夜にほっつき歩いて、一人で、全然知らないところまで来ちゃったのかと思ったんですよ。コタロウくんがいるなら、大丈夫ね」
「ああ、ばあちゃん、なにも心配しなくていいよ」
ガークやアヴァリュートに関する記憶もなくなっていたとしたら、また騒いだりしないかと心配になる。
「だけど、ここはいったいどこなんだい?」
「家じゃないことだけは確かだな」
俺の返事に、ばあちゃんはそうだねえと呟いた。
俺はばあちゃんと一緒に、再び外に出た。ガークやアヴァリュートの姿を見た途端、案の定ばあちゃんは「ひょおおお」と奇声をあげて驚いた。なんて声を出してんだと、心の中で盛大にツッコミを入れる。
「キョウコさん、おはよう。今日も世話になるぞ」
ガークがトコトコとこちらに近寄ってきて、ばあちゃんに向かって微笑んだ。
「あれあれまあまあ、色男さん、そんな格好でこんな老いぼれを誘惑しても、出涸らししか出ませんよお」
「ガーク、ばあちゃんのことは気にしなくていいから。アヴァリュートさんと一緒なんだ」
それだけ言うと、ガークは理解してくれたようだ。いくらなんでも、本人の前で「ばあちゃんは認知症だから、ガークのことを忘れてる」とは言えない。
「これがオレの衣装なんだ」
「どこかの民族さんですかねえ。大きなトカゲさんをペットに遊牧でもしているんですか? それにしても、本当に大きなトカゲさん。いったい、コタロウくんの何倍あるんでしょうねえ」
「ガーク、さっきなにを言いかけたんだ」
ばあちゃんの会話に付き合っていたら、今日一日が終わってしまいそうだったので、俺は話題を変えた。
ああ、とガークは頷く。
「昨夜、サティーにも協力してもらって、集落のみんなにじいちゃんのことを受け入れてもらおうと思って、改めて説得を試みたんだ」
ガークの表情は晴れない。やはり、彼らの考えを変えることは無理だったか。
「あたし、ガークにちょっとだけ入れ知恵をしたの」
サティーがガークの隣に立つ。手入れの行き届いた艶やかな髪がふわりと揺れる。何か、いたずらが成功したときに子供がするような、得意げな笑みをみせてきた。
「そうだ。サティーからの助言を受け、オレは新たな提案を行なった。そもそも、今回の件は集落に危険が及ぶかもしれないからといって決まったことだ。だったら、じいちゃんを集落に入れなければいい。たとえばここで、環境を整えて、じいちゃんの家を作るのはどうかと」
「あたしはそこまで言ってないけどね。長老の家を作るっていうのは、ガークのアイデアだよ」
「オレたちに同情してくれている民たちは、賛成してくれた。オレのことをあまりよく思っていない者たちは、肯定も否定もしなかった。だからオレは、それを逆手にとって、好きにやることにした。……コタロー、責任はオレが持つ。だから、手伝ってもらえないだろうか」
ガークはそう言って、静かに頭を下げた。こいつはもともと姿勢がいいから、なにをやってもさまになるなと思う。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。わかった。俺にも手伝わせてくれよ。どうせやることもないし、ちょっと困ってたんだ」
「なんだか、楽しくなってきたわね」と、筒原さん。好奇心は、いくつになっても持ち合わせておくものだ。そうすれば、いつまでも元気でいられるかもしれないからな。
ガークの提案のおかげで、この世界に送られてきて、なにをして生きていけばいいかわからずに途方に暮れていた俺たちの、とりあえずの指針が見つかったような気がした。
「アヴァリュートさんが入れるような家を造るとなると、結構な材料が必要になるんじゃないか?」
俺には建築の知識がないから、そんな大雑把なことしか言えない。
「木なら、この森にいくらでもある」
「村おこしでもするんですか?」
ばあちゃんがよたよたと近寄ってきて、ガークに聞いた。
「キョウコさん、なにかこうして欲しいという希望はあるか?」
「うーん、そうだねえ。ばあちゃん、コタロウくんに言われて、こんな山奥に引っ越してきてしまったみたいだからねえ。畑でもあったほうが助かるねえ。この老いぼればあさんが小さい頃は、家族総出で畑仕事をしたもんですからね」
「畑かあ」
自分たちで食料を調達しなければ、この世界では食っていけない。ホライゾンを使えばなんとかなりそうだけど、それもいつまで使えるかは分からないし、ばあちゃんの認知症の進行を抑えるためにも、そして俺たちのこの世界における役割を見い出すためにも、畑はあったほうがいい。
「そうね、田舎生活だと考えればいいのね」
筒原さんも賛成のようだ。
「ガーク、この土地に俺たちが住む環境を整えてもいいか?」
「ああ構わない。オレたちも協力する」
決まりだな。俺たちは利害が一致した同士のように、互いに拳を突き合わせた。
俺たちが話し合っていた隙に、サティーが集落に戻って、仲間を呼んできてくれた。アヴァリュートが外に出て暮らすことを賛成してくれた者たちのことだ。
アヴァリュートは、俺たちのやりとりを静観していた。話をしながらも、俺は彼の状態を気にかけていたが、やはり陽があるうちは認知症の症状が抑えられているように感じる。今の彼は、孫たちの動向を優しげに見守る好々爺といったところだろうか。
サティーが連れてきたのは、ジュヴァロンとザンドラを含む、五人の竜族だった。ザンドラは、俺の姿を見るなり、足早にこちらに駆け寄ってきた。
「すまねえ!」
開口一番にそう言われたものだから、俺は面食らった。
「昨日、お前に失礼な態度をとっちまった。冷静になって考えて、お前は長老やオレたちのことを思って色々やってくれたんだって気付いた。だから詫びというわけじゃないが、お前に協力させてくれねえか」
猪突猛進な性格は、こういうときにも発揮されるんだなと思った。おそらくザンドラは自分の感情がするりと言葉になって出てきてしまうタイプだ。だとすると、これまでも結構、大変な目に遭ったんだろうなと推察した。
「ありがとう、ザンドラさん。そう言ってくれて嬉しいよ。竜族の中にも味方ができたみたいで、正直すげえ助かる」
味方が少なくて、八方塞がりになりかけていた状態に、光明が差したような心地になる。
ザンドラはたぶん、見た目から判断すると、ガークの親くらいの年齢だろう。そうすると、千年近く生きているのかもしれない。アヴァリュートがまだまともだった頃のことも知っているだろう。事態が落ち着けば、昔の話を聞くのもいいな。
とはいえ、俺の目標は、ここに住む竜族全員に、アヴァリュートのことを認めてもらうことだ。
「まずはなにをしたらいいんだ?」
ザンドラに問われて、俺はガークと顔を見合わせた。そうだなあと、腕組みをする。
「アヴァリュートさんがここで暮らせるように、住居を作りたいんだ。あと、畑も」
「なんだそれ、おもしろそうじゃねえか!」
ザンドラの顔がぱあっと輝く。「おい、ジュヴァロン! 俺たちの出番だぜ!」
ジュヴァロンも嬉しそうに頷いた。彼は、頭が竜の形をしているから、人型の竜人よりも表情筋があまり動いていないようにみえる。
「コタロー、ザンドラとジュヴァロンは、オレたちの集落の建築を一手に担っている。だからきっと、役に立ってくれるはずだ」
そこからの展開は早かった。ガークが言ったように、まずは建物を建てるための木材を調達するために、森の中の木を切り倒して加工する作業だ。ザンドラが大工道具を集落まで取りに行っているあいだに、ガークとジュヴァロンが木に拳を撃ち込んでいく。衝撃で幹が折れ、倒された木は、アヴァリュートが整理をして一カ所に積み上げられていく。ガークもジュヴァロンも、動きに無駄がない。手慣れているんだなと、感心するほかなかった。
木材を加工したのは集落から戻ってきたザンドラだ。彼は様々な形の木を組み合わせて、釘や金具などの道具を使いながら器用に建物を組み立てていく。
手持ち無沙汰にしているのは俺だけだった。こんな森の中で建築作業なんてしたこともないし、手伝っても足手まといになるだけだろう。
俺は筒原さんとばあちゃんとサティーをつれて、畑を耕すことにした。鍬を使って土を掘り起こす作業は重労働だったが、こっち側の男手は俺だけだったので、汗をかきかき畝を作り上げていった。
「コタロウくんは、なんでもできますねえ、さすがアタシの孫です」
ばあちゃんはえらく得意げだが、おれがやったことといえば、森の土を混ぜ返して畑っぽく硬めただけだ。なにも大したことはしていない。
『ロイメン、これでどうだ』
一息ついて鍬を地面に突き刺し、シャツの袖をまくり上げていたときだった。不意に頭に響いてくるアヴァリュートの声はびっくりする。声の方をみて、俺はもっと驚愕した。
すでに建物の骨組みが出来ていたのだ。
だが、自分が過ごす空間になる場所だというのに、アヴァリュートは俺に意見を求めてくるのはどうしてだろう。
骨組みは、高さも幅も、こもれびの杜よりも二倍ほど広いものだった。流石に形は無骨だったが、短時間でここまで出来上がっているのは凄い。竜族と分類されているいきものたちの膂力が、ここまでの技を可能にしているんだろうなと思った。
竜族は、建物に対して、防音や通気性は重視していなさそうだから、このまま板を貼り合わせていけば、建物は完成するだろう。アヴァリュートがここで寛ぎ、寝起きを行う、彼専用の家がいよいよ建てられるのだ。
「大丈夫そう。あとは壁をつくるだけか?」
「コタローが土を耕しているあいだに、こちらも土を掘り、地盤を補強した。切り倒した木材を加工し、梁や柱を立てたんだ」
ガークはさらりと言ったが、人間がこれを作るとなると、何ヶ月もかかるはずだ。
「とはいえ、本格的な建築じゃねえぞ。早急に長老が雨風を凌げる場所が必要だったんだろ。まあ、簡素な掘っ立て小屋みたいなもんさ」
ガークの後ろからひょっこりと顔を出して、ザンドラが言った。それでも、あの湿っぽくて暗い洞穴よりはましなはずだ。
『なんだ、これは儂のための建造物なのか』
おいおい、今更かよ! とツッコミたくなったが、作業の合間に記憶が忘却の彼方にとんでいってしまったのかもしれない。自分がなにをしているのかは分からないけれど、とりあえず周りに合わせて自分も建築を手伝った……という感じだろう。
「そうだよ、じいちゃん。もう、あんな陰気くさいところで過ごさなくていいんだ」
ガークの声は優しい。自分の思い通りに事が進んでいるいまの状況に、安心しているようにみえた。
「懐かしいですねえ。土いじりは若い頃から好きでしたよ。コタロウくん、耕してくれてありがとうねえ」
ばあちゃんは、畑の畝の一角にしゃがみ込んで、素手で土をいじくっている。俺には建築の知識も農業の知識もないけれど、形だけでも畑のようになっただろうか。
自分の身長くらいの長さの畝を四つ作って、俺の体力は尽きた。木々の隙間をぬってそよいでくる風が、汗ばんだ肌を撫でていく。ここにはエアコンも扇風機もないけれど、充分涼しかった。
「コタローさん、集落に保存してあった苗をお裾分けさせてね」
いつの間にか姿を消していたと思っていたが、サティーが両手に取手のついた麻袋を提げて戻ってきた。
「アカメトゥとムラプラっていう野菜の苗だよ」
テイトウイモがジャガイモそのものだったことからすれば、おそらくこれも見慣れた野菜がなるんだろうけど、名前をきいただけでは見当もつかなかった。
「あら、これはトマトとナスの苗ですね、お嬢ちゃん」
ばあちゃんが俺の傍から顔を出して、麻袋の中をのぞき込んだ。
「おばあちゃん、あなた達のいた世界では、そう呼んでたのね」
「そうですよお。それ以外になんの呼び名があるというんですか」
年寄りは新しい言葉を受け付けないのか、そもそもばあちゃんがサティーの言葉を聞いていなかったのか……。
「じゃあ、植えていきましょうねえ」
ばあちゃんは手慣れた様子で麻袋を持ち上げ、よっこらせ、よいしょよいしょと呟きながら、畑に戻っていった。
「コタロー、こっちはいいから、おばあさんを手伝ってあげてくれ」
ガークに言われなくとも、建築に関して俺が手伝えることはなにもない。ばあちゃんはいつもより足腰の調子がよさそうだ。昔の勘を取り戻しているのだろうか。俺は筒原さんとともに、ばあちゃんのあとについた。
「シャベルはありますか、コタロウくん」
「事務所にあるわよ、とってくるわね」
返答に困った俺のかわりに、筒原さんが答えた。そういえば、元の世界では、建物の周りに花を植えていたから、そういう用具もあるんだろう。
事務所の中に入っていった筒原さんは、シャベルと軍手を三つずつ持って戻ってきた。
「あらあら、お嬢ちゃんにばっかり面倒をかけさせて、あいすみません」
ばあちゃんはそう言って、いそいそと軍手をはめて土いじりをはじめた。
俺がまだ学生だった頃、ばあちゃんは家の庭で花や野菜をたくさん育てていた。
「あんなにいっぱい育てて、めんどくさくないのかよ」と聞いた俺に、「そうねえ、コタロウくんとちがって、ばあちゃんは一日が暇でしょうがないからねえ。ボケ防止にもなるし、野菜も獲れて節約にもなるし、面倒だと思ったことはないねえ」と、獲れたてのぐにゃぐにゃのキュウリを愛おしそうに撫でながら言っていたっけ。
とてもスーパーの商品棚には並びそうもないいびつな形のキュウリだったが、冷やして浅漬けにすると美味かった。トマトやナスも育てていたっけ。俺が学校に行っているあいだに、ばあちゃんは馴染みの園芸店に顔を出し、季節ごとに花や野菜をせっせと買い込んでは畑に植えていた。
俺が中学三年のときに、その園芸店は店主が高齢だったことと、売り上げが低迷していたことを理由に商いをたたんでしまった。俺たちなら、じゃあホームセンターとかで買えばいいという考えに至るけれど、ばあちゃんたちの年代の人たちは、「これはここで買うものだ」と決めてしまい、他の選択肢をなくしてしまうことがある。ばあちゃんも例に漏れず、園芸店が店をたたんだのをきっかけに、土いじりはやめてしまった。今となって思えば、それも認知症を加速させてしまった原因のひとつなのかもしれない。
たとえば俺が代わりにホームセンターに行って苗や種を買ってくるとか「やろうぜ」と誘ってみるとかしていたら、ばあちゃんは今も趣味を続けていたのだろうか。
だめだ、だめだ。過去のことを思い返してあれこれ考えてもなにも変わらない。心に湧いた小さな後悔を拾わないことにする。負の感情は溜め込むとよくないからな。
「空野くん、まためそめそと考えてたでしょ」
「えっ!? ああ、いや……まあ、そうっすね」
「恭子さんのことで悩んでたのなら、この世界で貴方の思うように、残された時間を一緒に過ごしてあげなさい。それでも最期のときが訪れたときは、もっとああしてやればよかったとか、こうしていればよかったとか、絶対に思うの。正解なんてないものごとには、私たちがどんな対応をしたとしても、後悔はつきものよ。でもね、恭子さんと一緒に過ごせるいま、あれこれと悩んだ挙げ句に怖じ気づいてなにも出来なかった未来より、貴方ができることをやったうえでの後悔なら、貴方もいずれ納得するでしょう」
——後悔はあしたの自分に任せて、貴方が正しいと思ったいまを歩いていきなさい。
筒原さんが言ったことは、いままでに彼女が読んできた本からの受け売りかもしれない。そうであったとしても、俺の心には、尊敬する上司の言葉として残った。
「わかりました! いやー、筒原さんの教えはやっぱ、ひと味ちがうっすね。なんかスカッとしました。これが年の功ってやつかな」
「人を年寄り扱いしないの」
筒原さんはそう言って苦笑した。「さあ空野くん、私たちも畑を作るわよ」
「はいっ!」
俺はこくりと頷くと、背中を丸めてシャベルを土にさしているばあちゃんのもとに駆け寄って、三人で一緒に次々と苗を植えていったのだった。
「あらあらまあまあ、大きなトカゲさんですねえ! ほら、コタロウくん見てご覧なさい。羽根も生えていますよ!」
ばあちゃんのテンションが最高潮に達した。あまりに興奮しすぎて、頭の血管が切れないことを祈る。
同じ日の昼下がりのことだった。ついにアヴァリュートは、再び翼を解き放った。俺とガークを背に乗せて洞穴を飛び出し、こもれびの杜が建っているところまでやって来たのだ。
「ほら、どうってことなかっただろ!」
しばらくぶりの陽光を浴びて、アヴァリュートは随分と気持ちよさそうだった。
『いまはなにもかもが順調に思えるが、いざとなれば頼んだぞ』
「今のは誰の声ですか! ねえコタロウくん!」
ばあちゃんはきょろきょろと辺りを見渡す。アヴァリュートの声は、脳に直接語りかけてきているような感覚だから、鮮明に声が聞こえてくるのだろう。今まで聞いたこともない荘厳な低音ボイスだから、きっとばあちゃんもびっくりしたに違いない。まさか「大きなトカゲさん」が人語を操るとも想像がつかないだろう。
「アヴァリュートさん、どうだ? 太陽は気持ちいいだろう」
『うむ』
アヴァリュートは頷いた。ガークも心なしか嬉しそうに表情を緩ませている。
「じゃあまずは、アヴァリュートさんが普通の生活に戻れるように、俺たちがみんなでサポートするから」
アヴァリュートがおかしくなったところを、俺はまだ見ていない。本当にこの人……じゃなくて竜は認知症なのだろうかと首をかしげたくなる。
認知症になった人間を相手にしているときと同じだ。その場では会話も成立しているし、彼らは自分の記憶がないという事実をごまかすことが得意だから、健常者と変わらないしゃべりをすることが多い。それに比べると、アヴァリュートの言動はなにも問題がないように感じられるが、それは俺が彼のことをまだよく知らないからだろう。
そのとき。ぐうううううっとガークの腹が盛大に鳴った。
「あらあら、おにいちゃん、お腹が空いちゃったんですか?」
その音にすかさず反応したのは、ばあちゃんだった。ガークは頬を赤らめて「いや、これは……オレのことは気にするなっ……」とあたふたしている。
「そういえば、朝からなにも食ってなかったな。筒原さん、ばあちゃん、俺たちも食事にしませんか? ガークも食ってけよ。テイトウイモのお返しだ」
俺の提案に、ガークはああと頷いた。「オマエたちがどんなものを食しているのか、非常に興味がある」
そんなに対したものじゃないと、俺は謙遜した。昨日、ホライゾンで注文した食料は、たんまりとこもれびの杜の中に置いてあるが、いずれもインスタントのものばかりだからだ。
「じゃあ、準備するよ」
筒原さんたちに、外で待っているように伝えてこもれびの杜に入ろうとすると、ガークがとことこと後ろから着いてくる気配がした。
「竜族はふだん、なにを食ってるんだ?」
「食料は畑で作物を育てたり、狩りをしたりして確保している」
他の種族と戦うとか、魔法で(そんなものがこの世界に存在しているのかどうかはわからないが)食料を召喚するなどといった突拍子な方法で食べ物を確保しているわけではなさそうだ。
俺はホライゾンの段ボールから、パックのご飯と牛丼の素を人数分用意する。いずれも湯煎や電子レンジで温められるタイプのものだ。
「アヴァリュートさんには、俺たちが食うよりも多い量を用意してやらないとな」
「かたじけない」
ガークが再び、頭を下げる。古い言葉を使うと、「ごめん」というよりも礼節を重んじているように感じるから不思議だ。
俺はスマホで、ホライゾンにアクセスして、パックご飯と牛丼の素を大量に注文した。その数おおよそ三十人分。あとはそれを一気に温められる大きさの寸胴鍋と、電気で動くクッキングヒーター。異世界にきても、元いた世界の文明の利器を使えるのは最高だ。
購入ボタンを押すと、デスクの上にドドドドッと段ボールが降り注いでくる。その衝撃でミシミシと机が軋んだが、加重にはなんとか耐えられたようだ。
「ガーク、手伝ってくれ」
その様子をぽかんとした表情で見つめていたガークは、俺の呼びかけに一拍遅れて反応した。
「あっ、な、なにをすればいいんだ?」
「この段ボールから、品物を全部出しておいてくれ」
俺はガークにそう言い残して、給湯室に入り、寸胴鍋に水をたっぷりと入れた。事務所に戻ると、梱包を解き、クッキングヒーターをコンセントに繋いだ。
「さっきからなにをやってるんだ、コタロー。オマエ、魔術師だったのか?」
ガークの声が、ヒーターの電源が入る電子音に混じって聞こえてきた。顔を上げると、彼は驚愕の表情を隠そうともせず、俺のことを見ていた。たしかに、俺がスマホを操作して、その直後に何もない空間から段ボールが降ってきたら、誰だって驚くだろう。この不思議な現象に慣れないといけないと自分に言い聞かせている俺も、なにがなんだか分かっていない。
元いた世界でも、インターネット然り、日常に溢れている色んな機械然り、原理のわからないまま使っていたものなんてごまんとあった。それと同じだ。よく分からないけど、便利なモノを使わない選択はない——と、俺は考察をすでに放棄していた。
やがて湯が沸騰してきたので、パックご飯と牛丼の素を鍋の中にぶち込んだ。かさが増して中の湯が幾分か鍋の外に溢れ出る。
「その台に鍋を置くと、水が沸き上がるのか?」
「ああ、そうだよ。俺たちの世界では、いろんな便利な機械がある。俺は魔術師じゃないけど、たしかにびっくりするよな」
竜族の暮らしは、俺たちが築き上げていた文明に比べると、幾分原始的なものなのだと推察する。一方で、ガークの口から『魔術』という言葉が出たということは、ベリュージオンにはそれを扱うことのできる者が存在しているのだろう。
「やはりコタロー、オマエは魔術師だ」
おいおい断言するな。俺は苦笑する。俺たちが当たり前のように使っていた道具も、とらえようによってはそう解釈されるんだろう。たとえば、明治時代や江戸時代からタイムスリップしてきた人が現代の生活を目の当たりにしたら、腰を抜かして驚くにちがいない。
レトルトが温まる前に、食器を準備する。俺たちの分は普通の丼鉢で大丈夫だろうが、アヴァリュートが食べる分はどうやって盛ろうか。少し考えたところで、俺は給湯室の奥から巨大なたらいを引っ張り出してきた。
食材がほどよく温まったところで鍋から取り出し、ガークと手分けをして食器に盛り付けた。
「ガーク、これは牛丼っていう料理なんだ」
「ギュウドン……」
ほら、お前の分だと手渡した器を、ガークは両手で大事そうに抱えながら、すんすんと香りを嗅いでみせる。
「なんだこの美味そうな匂いは!」
「肉と玉ねぎを甘辛く煮込んで、米にぶっかけるんだ。うまいぞ~。さあ、みんなで食おうぜ」
外に出ると、筒原さん、ばあちゃん、アヴァリュートの二人と一匹は、輪になってなにやら談笑をしているようだった。それにしても二人は状況を受け入れるのが早いな。ばあちゃんはきっと、よく分かっていないんだろうけど。
「おまたせしました。みんなで食えるように、牛丼を用意しましたよ。つっても、レトルトっすけど」
俺は筒原さんとばあちゃんに、スプーンと牛丼を手渡した。
「ありがとう、空野くん」「コタロウくんは優しいねえ」
見ると、二人は切り株の上に腰掛けていた。いったいどこからそんなものを用意したのかと疑問に思っていると、「アヴァリュートさんが、近くの木を切り倒して、椅子を用意してくれたのよ」と筒原さんが説明してくれた。
「ほら、これはじいちゃんの分だ」
ガークが大きなたらいを頭の上に持ち上げ、事務所の中から運び出してくれていた。結構重いはずだけど、たぶん竜族の若者にはたいした重量ではないんだろう。
「アヴァリュートさん、これは俺たちの世界で、牛丼と呼ばれている料理だ。米という穀物の上に、甘辛く煮た肉と根菜をのせてある。口に合うか分からないけど、食ってみてよ」
『ふむ。有り難く頂戴しよう』
ガークは待ちきれなかったようで、凄い勢いで事務所に戻って、自分の分の料理をもってくると、地面に胡座をかき、いただきますと口にした瞬間にかぽりと一口、食塊を頬張った。
「どうだ? 美味いか?」
俺たちが普通に食べていたものは、果たしてこっちの世界の人たちにも受け入れてもらえるのか。緊張の一瞬。俺はごくりと生唾を飲み込む。そのとき。
「なんだこれ! すんげえ美味い!」
ガークが目を見張って、驚嘆の声を出した。俺は安堵する。
「そんなに美味いか?」
「ああ! いままでこんなもん、食ったこともない!」
ガークはどんぶりに顔を突っ込んでがつがつと牛丼をかきこんだ。
「まあまあ、おにいさんは食いしん坊さんですねえ」
そんな彼を見て、ばあちゃんは目を細めた。「若い人は、たっくさん食べて、大きくならないとね」
アヴァリュートは、まるで犬がそうするかのように、たらいの中の食事を食べていた。何も言わない。だから、美味いのか不味いのか、確認することはできなかった。
「なあ、アヴァリュートさん、口に合うか?」
だから俺は尋ねた。アヴァリュートは、たらいの中から顔をあげ、俺をじっと見つめた。口の周りに、食べカスがついている。ちょっとだけ笑いそうになった。
『我もこのような馳走は口にしたことはない。素材の旨みが凝縮されていて、非常に美味であるな』
「そうかそうか、良かった」
俺も自分の分を食べる。可もなく不可もなく……食べ慣れた味だ。筒原さんとばあちゃんも、文句も言わずに咀嚼していた。
アヴァリュートが洞穴を出てから初めての食事の席は、特に大きなアクシデントもなく、普通に終わった。筒原さんがみんなが食べたあとの食器を集めて、事務所の中に引っ込んでいった。
「ご馳走様でした」
『馳走になった』
「はい、お粗末さま」
ガークはしっかりと顔の前で合掌してそう言った。きちんと躾けられていたのだろう。ガークと交流する時間が増えていくにつれて、彼への印象がどんどん良くなっていく。生きてきた時間は、ガークのほうが俺の何十倍も長いだろうが、感覚的には弟のような存在になりつつあった。
異変が起きたのは、その日の夜のことだった。寝床についていた(といっても、こもれびの杜の事務所の床に布団を敷いただけだ)俺は、物音がしたような気がして、目が覚めた。むくりと上半身を起こして確認すると、やっぱり外でごとごととなにかを揺らすような音がしている。立ち上がり、戸口に手をかける。
——夜襲か? と、元いた世界で平凡に暮らしていたら、到底思い浮かばない展開を想像する。
こもれびの杜に、危険が及ぶかもしれないという予感など、頭からすっぽり抜けていて、飛び出すようにして外の様子を確認しにいく。
「おい! なにやってんだよ!」
目の前に飛び込んできた光景に、俺は思わず大きく叫んでいた。
『誰だ貴様は! なんだこの建造物は! 我々竜族の領地に無断でこのような建物を建てるなど……』
アヴァリュートの巨体がこもれびの杜に覆い被さり、建物を根こそぎ破壊しようとしていた。
「やめろっ! おい!」
俺はアヴァリュートの尾の先にしがみついて、制止しようとした。もしもこのまま建物が崩れるなんてことになれば、筒原さんとばあちゃんにも危険が及んでしまう。最悪の事態になる前に、なんとかしないと。
アヴァリュートは俺を見るなり、『誰だ貴様は』と言った。つまり、いま彼の記憶の中では俺の存在を忘れてしまっているということだ。
俺がアヴァリュートの尾に密着したところで、彼の暴走を止められるわけはない。ガークは「オレも今宵はここにとどまるぞ」と言ってくれてはいたが、そんな必要はないといって、集落に帰してしまった。数時間前の自分に、心の中で恨み節を唱えながら、どうしたものかと思案する。
人間が暴れているだけだったら、最悪、羽交い締めにして制止すればなんとかなるかもしれないが、相手は竜だ。いままで架空のいきものだと思っていた存在が実体となって目の前にいるのだ。初めての経験に、心がすくむ。介護の知識はあっても、実際の現場でそれを活かせるかどうかは別だ。予想もしていなかったことが起こるのは茶飯事だけれど、そのことにいちいち狼狽えるのもまた、おなじだった。
——どうする、俺……。
真夜中。ベリュージオンの上空は、地球のそれと同じくらいに星が瞬いている。青色の月が——ここでは月と呼ぶのかはわからないが、色は違っていても形はよく似ている——、雲の隙間から少しだけ顔を覗かせている。時折そよぐ風は、昼間とはちがってひんやりと涼しい。
「アヴァリュートさん、あぶないっすよ!」
俺は尻尾から離れて、アヴァリュートに呼びかけた。「そんなことをしたら、ガークくんに怒られますよ!」
『貴様、ガークを知っているのか?』
アヴァリュートの動きが止まる。俺を見る。『ガーク』という、アヴァリュートにとって聞き覚えのある名前に、脳が反応したのだろう。
『それに儂の名も……ロイメン、貴様は我々の顔見知りであったか?』
「やだなあ、アヴァリュートさん、俺ですよ、お・れ!」
『ふむ』
アヴァリュートは思案する。おれおれと連呼してしまっては、高齢者を狙って頻発した詐欺の常套句みたいだと、心の中で苦笑した。
「ガークの友人か」
ほんとうにガークに、そういう存在がいるのかはわからない。アヴァリュートの頭の中で、脳が勝手に判断して作り話をしているだけかもしれない。現実にありもしないことを本人がそうだと思い込んでいる可能性がある。
ガークの口からは、一度も「ロイメンの友人がいる」という話が出たことはないからだ。認知症の人が作話をするときは大体、「今さっきわたしの娘がもってきた百万円を知らない? あなた、持って帰ろうとしてるんじゃないでしょうね」などといった突拍子もないことをいわれて困るのだけれど、今回ばかりは俺の都合のいいように解釈してくれたみたいだ。助かった。
「そうです、俺はガークくんの友達の虎太朗といいます。実は、ここからずっと遠い場所で暮らしていたんですけど、住む場所を追いやられてしまって、ガークくんに相談したら、ちょっとくらいならこの森に住んでいいっていわれたので、場所を借りています」
まるで値踏みするかのような視線を浴びて、俺の体は硬直する。あまりにも下手な作り話だったかと冷や汗をかいたが、アヴァリュートはやがて『そうか』と頷いてみせた。
友達のことはさておき、じゃあこの建物はどこから湧いてきたんだとか、そういう返答に困るようなことを継ぎ足しで問われたらどうしようかとひやりとしたけれど、今のところ大丈夫そうだ。
「それよりアヴァリュートさんこそ、こんな夜にどうしたんですか?」
話題を変える。目下の脅威を取り除くために、アヴァリュートが今やろうとしたことを「忘れさせる」必要がある。
『うーむ』
アヴァリュートが短く唸った。ぐわりと巨軀を動かして、地面に降り立つ。地面から上空に向けて風が舞い上がり、俺のシャツがふわりとはためいた。
『儂は……儂はなにを……』
てめえはこもれびの杜の建物に覆い被さって、破壊しようとしてたんだろうが……とは言えなかった。
「アヴァリュートさんは、ガークくんに頼まれて、俺たちの寝床の警護をしてくれていたんですよねっ! でも、俺が邪魔しちゃったみたいで、すみません」
『ああ……かまわぬ。案ずるな』
アヴァリュートはなにかまだ腑に落ちていないような声色のまま、穏やかにそう言った。急に変な回路にスイッチが入らない限りは、また暴れ出すこともなさそうだ。
『朝までここで、見張りをしていればいいんだったな』
「そうっすね。お願いしますよ、長老さん!」
認知症の人は、自分がもの忘れをすることを誤魔化すことがうまい。虚勢を張るためなのか、自分の記憶がないことを認めたくないからなのか、とにかくその場しのぎのように周りの人の言うことを鵜呑みにして、話を合わせようとすることがあるのだ。……たまに「そんなはずはない!」といって逆上する人もいるけれど、アヴァリュートはそういうタイプではなさそうだ。
かつては竜族の戦士として一族を守るために、自身も集落の警護についたことがあるかもしれない。『長老』という立場にある者が、一族のなかでどういう役割を担っているのかはわからない。ただ、病気を患った年寄りは、過去の自分の立場に固執している場合が多い。自分が一番活躍していた時代。それは人生の中で、最も充実していたときであっただろう。
『あいわかった。この場所の警護は、儂に任せろ』
アヴァリュートは、心なしか得意げにそう言ったように聞こえた。自分がいま何をすればいいのか不安なとき、誰かに役割を与えられたら、自分の存在意義が認められたようで嬉しくなる。それは年齢に関係なく、みんなそうだよな。
じゃあよろしくと言って、俺は事務所の中に戻った。扉を閉めて、窓の隙間から外の様子を観察する。アヴァリュートはおとなしくなって、事務所の入口の近くで丸くなっていた。
——今夜は夜通し観察だな……。
これは夜勤とおなじだ。一人の要介護者を夜通し見守ること。
ばあちゃんのいびきが微かに聞こえてくる。今夜もちゃんと寝てくれているようだ。最近のばあちゃんは夜中に起きて、動き出してしまうということはあんまりないけれど、昼夜逆転といって、昼間に眠りこけて、夜になると目が冴えて活動的になってしまう人もいる。そうすると、周りの介護者はたまったもんじゃない。基本的に社会生活において、人間は、昼に活動して夜は寝るというサイクルが定着しているからな。
これ以上なにもおこしてくれるなよ……という俺の願いが、ベリュージオンを統率する神様(そんなもん、いるのかどうかはしらないけど)に届いたのだろうか、アヴァリュートは朝まで落ち着いていた。ちなみに、俺が頼んだことはやがて忘れていったのか、彼はしばらくすると気持ちよさそうに眠っていた。
「あれ? 空野くん、寝てないの」
日が昇ると、一番に起きてきたのは筒原さんだった。さすがに連日俺やばあちゃんと一緒の空間に眠るのは気が引けたのか、更衣室に布団を敷いて寝るようにしたのだ。
「ええ、ちょっと……」
俺はそう言って、真夜中にこの事務所が崩壊の危機を迎えたことの始終を話して聞かせた。
「まあ、そんなわけで、俺が夜通しアヴァリュートを見張っていたわけです」
「空野くん、そこは見張るじゃなくて、『見守っていた』でしょ」
「……そうっすね」
そうだ、これも介護の仕事をしているようなもんだ。
「一度落ち着いたあとはずっと寝てくれていたから、助かりました」
「うーん、あんなに大きなドラゴンが暴れ回って、手がつけられなくなっちゃったら、私たちどうしたらいいのかしら。空野くんが勇み足で事を進めちゃったもんだから、竜族のみなさんにはいまの状況を受け入れてもらってないんでしょう?」
「ええ、まあ……」
「幸いなことに、ガークくんからは受け入れてもらったようだけど。まあ、アヴァリュートさんの唯一の家族が貴方の行動を支持してくれてるんなら、よかったじゃない」
「筒原さん」
「なあに?」
「筒原さんはどうして、今の状況を冷静に受け止めているんですか?」
俺は話題を変えた。自分の勇み足に関しては、あまり突っ込まれたくない。
「私はね、貴方のこれまでの人生よりも長い時間を、この仕事につぎ込んできたの。数えきれないほどの訳のわからないこともたくさん経験してきたわ。そうすると、段々と、突拍子のないことに直面しても、『ああ、そんなことか』って思ってしまうようになったの。今回の件も、こうなっちゃったもんはしょうがないじゃない。目の前で起きていることは、どんなものであっても、受け入れるしかないのよ」
赤いちゃんちゃんこを贈られるような年齢に達すると、人生を達観できるようになるのだろうか。俺にはまだわからない。
「じゃあ、この世界で最初の利用者さんの様子を見にいってみましょうか」
俺はやはり、いい上司をもったようだ。介護の世界はどういうわけか、職場の人間関係が原因で職を転々としている人も多いらしい。その点では俺の社会人としてのデビューは恵まれていたといえるだろう。……今となってはもう、元の世界のどこにも転職をする手立てはないんだろうけど。
「おはようございます、アヴァリュートさん」と、事務所の扉を開けて、筒原さんはアヴァリュートに声をかけた。
『うむ』
「夜はよく眠れましたか」
『ああ、目覚めは良い。だが、なぜ儂はここにいるのだろうか』
「久しぶりに月明かりの下で眠りたいって言ってたじゃないっすか」
俺はすかさず口を挟む。ううむとアヴァリュートが唸って、『そうだったか』と呟いた。
アヴァリュートは、昨晩の記憶がすっぽりと抜けているのだ。
「筒原さん、俺の見立てですけど……」
そう言って、小声で話す。「アヴァリュートは、昼間はまだしっかりしているけれど、夜になると症状があらわれやすいんじゃないかって……」
「そうね、まだ閉じ込められていた洞穴から出てきてすぐだから、結論を急ぐのは早いけど、充分に考えられる可能性ね」
そうだ。介護は、ひとつのことに固執して決めつけてはいけない。
「じゃあ、今日も、アヴァリュートさんのそばについて、彼のことについていろいろ知っていきましょう」
おお。筒原さんはやる気満々だ。やっぱり介護という仕事が好きなんだな。
朝の日差しが高くなってきた頃、ガークはこもれびの杜にやって来た。一緒にサティーもいる。
「おはよう!」
俺の挨拶に、ふたりはぺこりと頭を下げてみせた。
「……じいちゃんは、大丈夫だったか?」
「ああ、心配すんな」
大丈夫じゃなかったけどな。「夜はだいたい、静かに寝ていたよ」
それだけ言えば、ガークは安心してくれるだろう。
「じいちゃんおはよう。よく眠れたか?」
『ガーク、貴様、儂を年寄り扱いしおって』
「扱いじゃなくて、年寄りなんだから仕方ねえだろ」
軽口を叩くガーク。それを微笑ましげにみているサティー。俺……どころか、筒原さんやばあちゃんが生きてきた以上に長い時間を幼馴染みとして過ごしてきた彼らの親密な関係性が垣間見える。
「コタロー、なんだか眠そうだが、寝ていないのか?」
俺が朝陽に目を瞬かせているのを、ガークは目ざとく見ていたらしい。俺のほうへ近づいてきた。
「ああ、でも、気にすんな」
「もしかして、じいちゃんのせいか?」
「俺が好きでやったことさ」
「そうか、すまなかった」
ガークは察しがいいから、俺が誤魔化してもすぐに真実を見抜くだろう。だったら、最初から正直に言っておいたほうがよさそうだ。
「コタロー、オレからも報告がある」
ガークがそう言ったときだった。
「あんれえ!?」
俺の背後、つまり、こもれびの杜の事務所の中から、ばあちゃんの素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「ばあちゃんっ!」
急いで中に入って様子を確認する。ばあちゃんは、自分が夜に寝ていた布団の上に立ち、きょとんとした表情で俺の方を振り返った。
「ああ、コタロウくん、よかったよかった。良かったですよお」
「突然大きな声を出してどうしたんだよ。外にまで聞こえてきたぞ」
「ごめんねえ、ばあちゃん、頭が耄碌していますからね、まーた夜にほっつき歩いて、一人で、全然知らないところまで来ちゃったのかと思ったんですよ。コタロウくんがいるなら、大丈夫ね」
「ああ、ばあちゃん、なにも心配しなくていいよ」
ガークやアヴァリュートに関する記憶もなくなっていたとしたら、また騒いだりしないかと心配になる。
「だけど、ここはいったいどこなんだい?」
「家じゃないことだけは確かだな」
俺の返事に、ばあちゃんはそうだねえと呟いた。
俺はばあちゃんと一緒に、再び外に出た。ガークやアヴァリュートの姿を見た途端、案の定ばあちゃんは「ひょおおお」と奇声をあげて驚いた。なんて声を出してんだと、心の中で盛大にツッコミを入れる。
「キョウコさん、おはよう。今日も世話になるぞ」
ガークがトコトコとこちらに近寄ってきて、ばあちゃんに向かって微笑んだ。
「あれあれまあまあ、色男さん、そんな格好でこんな老いぼれを誘惑しても、出涸らししか出ませんよお」
「ガーク、ばあちゃんのことは気にしなくていいから。アヴァリュートさんと一緒なんだ」
それだけ言うと、ガークは理解してくれたようだ。いくらなんでも、本人の前で「ばあちゃんは認知症だから、ガークのことを忘れてる」とは言えない。
「これがオレの衣装なんだ」
「どこかの民族さんですかねえ。大きなトカゲさんをペットに遊牧でもしているんですか? それにしても、本当に大きなトカゲさん。いったい、コタロウくんの何倍あるんでしょうねえ」
「ガーク、さっきなにを言いかけたんだ」
ばあちゃんの会話に付き合っていたら、今日一日が終わってしまいそうだったので、俺は話題を変えた。
ああ、とガークは頷く。
「昨夜、サティーにも協力してもらって、集落のみんなにじいちゃんのことを受け入れてもらおうと思って、改めて説得を試みたんだ」
ガークの表情は晴れない。やはり、彼らの考えを変えることは無理だったか。
「あたし、ガークにちょっとだけ入れ知恵をしたの」
サティーがガークの隣に立つ。手入れの行き届いた艶やかな髪がふわりと揺れる。何か、いたずらが成功したときに子供がするような、得意げな笑みをみせてきた。
「そうだ。サティーからの助言を受け、オレは新たな提案を行なった。そもそも、今回の件は集落に危険が及ぶかもしれないからといって決まったことだ。だったら、じいちゃんを集落に入れなければいい。たとえばここで、環境を整えて、じいちゃんの家を作るのはどうかと」
「あたしはそこまで言ってないけどね。長老の家を作るっていうのは、ガークのアイデアだよ」
「オレたちに同情してくれている民たちは、賛成してくれた。オレのことをあまりよく思っていない者たちは、肯定も否定もしなかった。だからオレは、それを逆手にとって、好きにやることにした。……コタロー、責任はオレが持つ。だから、手伝ってもらえないだろうか」
ガークはそう言って、静かに頭を下げた。こいつはもともと姿勢がいいから、なにをやってもさまになるなと思う。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。わかった。俺にも手伝わせてくれよ。どうせやることもないし、ちょっと困ってたんだ」
「なんだか、楽しくなってきたわね」と、筒原さん。好奇心は、いくつになっても持ち合わせておくものだ。そうすれば、いつまでも元気でいられるかもしれないからな。
ガークの提案のおかげで、この世界に送られてきて、なにをして生きていけばいいかわからずに途方に暮れていた俺たちの、とりあえずの指針が見つかったような気がした。
「アヴァリュートさんが入れるような家を造るとなると、結構な材料が必要になるんじゃないか?」
俺には建築の知識がないから、そんな大雑把なことしか言えない。
「木なら、この森にいくらでもある」
「村おこしでもするんですか?」
ばあちゃんがよたよたと近寄ってきて、ガークに聞いた。
「キョウコさん、なにかこうして欲しいという希望はあるか?」
「うーん、そうだねえ。ばあちゃん、コタロウくんに言われて、こんな山奥に引っ越してきてしまったみたいだからねえ。畑でもあったほうが助かるねえ。この老いぼればあさんが小さい頃は、家族総出で畑仕事をしたもんですからね」
「畑かあ」
自分たちで食料を調達しなければ、この世界では食っていけない。ホライゾンを使えばなんとかなりそうだけど、それもいつまで使えるかは分からないし、ばあちゃんの認知症の進行を抑えるためにも、そして俺たちのこの世界における役割を見い出すためにも、畑はあったほうがいい。
「そうね、田舎生活だと考えればいいのね」
筒原さんも賛成のようだ。
「ガーク、この土地に俺たちが住む環境を整えてもいいか?」
「ああ構わない。オレたちも協力する」
決まりだな。俺たちは利害が一致した同士のように、互いに拳を突き合わせた。
俺たちが話し合っていた隙に、サティーが集落に戻って、仲間を呼んできてくれた。アヴァリュートが外に出て暮らすことを賛成してくれた者たちのことだ。
アヴァリュートは、俺たちのやりとりを静観していた。話をしながらも、俺は彼の状態を気にかけていたが、やはり陽があるうちは認知症の症状が抑えられているように感じる。今の彼は、孫たちの動向を優しげに見守る好々爺といったところだろうか。
サティーが連れてきたのは、ジュヴァロンとザンドラを含む、五人の竜族だった。ザンドラは、俺の姿を見るなり、足早にこちらに駆け寄ってきた。
「すまねえ!」
開口一番にそう言われたものだから、俺は面食らった。
「昨日、お前に失礼な態度をとっちまった。冷静になって考えて、お前は長老やオレたちのことを思って色々やってくれたんだって気付いた。だから詫びというわけじゃないが、お前に協力させてくれねえか」
猪突猛進な性格は、こういうときにも発揮されるんだなと思った。おそらくザンドラは自分の感情がするりと言葉になって出てきてしまうタイプだ。だとすると、これまでも結構、大変な目に遭ったんだろうなと推察した。
「ありがとう、ザンドラさん。そう言ってくれて嬉しいよ。竜族の中にも味方ができたみたいで、正直すげえ助かる」
味方が少なくて、八方塞がりになりかけていた状態に、光明が差したような心地になる。
ザンドラはたぶん、見た目から判断すると、ガークの親くらいの年齢だろう。そうすると、千年近く生きているのかもしれない。アヴァリュートがまだまともだった頃のことも知っているだろう。事態が落ち着けば、昔の話を聞くのもいいな。
とはいえ、俺の目標は、ここに住む竜族全員に、アヴァリュートのことを認めてもらうことだ。
「まずはなにをしたらいいんだ?」
ザンドラに問われて、俺はガークと顔を見合わせた。そうだなあと、腕組みをする。
「アヴァリュートさんがここで暮らせるように、住居を作りたいんだ。あと、畑も」
「なんだそれ、おもしろそうじゃねえか!」
ザンドラの顔がぱあっと輝く。「おい、ジュヴァロン! 俺たちの出番だぜ!」
ジュヴァロンも嬉しそうに頷いた。彼は、頭が竜の形をしているから、人型の竜人よりも表情筋があまり動いていないようにみえる。
「コタロー、ザンドラとジュヴァロンは、オレたちの集落の建築を一手に担っている。だからきっと、役に立ってくれるはずだ」
そこからの展開は早かった。ガークが言ったように、まずは建物を建てるための木材を調達するために、森の中の木を切り倒して加工する作業だ。ザンドラが大工道具を集落まで取りに行っているあいだに、ガークとジュヴァロンが木に拳を撃ち込んでいく。衝撃で幹が折れ、倒された木は、アヴァリュートが整理をして一カ所に積み上げられていく。ガークもジュヴァロンも、動きに無駄がない。手慣れているんだなと、感心するほかなかった。
木材を加工したのは集落から戻ってきたザンドラだ。彼は様々な形の木を組み合わせて、釘や金具などの道具を使いながら器用に建物を組み立てていく。
手持ち無沙汰にしているのは俺だけだった。こんな森の中で建築作業なんてしたこともないし、手伝っても足手まといになるだけだろう。
俺は筒原さんとばあちゃんとサティーをつれて、畑を耕すことにした。鍬を使って土を掘り起こす作業は重労働だったが、こっち側の男手は俺だけだったので、汗をかきかき畝を作り上げていった。
「コタロウくんは、なんでもできますねえ、さすがアタシの孫です」
ばあちゃんはえらく得意げだが、おれがやったことといえば、森の土を混ぜ返して畑っぽく硬めただけだ。なにも大したことはしていない。
『ロイメン、これでどうだ』
一息ついて鍬を地面に突き刺し、シャツの袖をまくり上げていたときだった。不意に頭に響いてくるアヴァリュートの声はびっくりする。声の方をみて、俺はもっと驚愕した。
すでに建物の骨組みが出来ていたのだ。
だが、自分が過ごす空間になる場所だというのに、アヴァリュートは俺に意見を求めてくるのはどうしてだろう。
骨組みは、高さも幅も、こもれびの杜よりも二倍ほど広いものだった。流石に形は無骨だったが、短時間でここまで出来上がっているのは凄い。竜族と分類されているいきものたちの膂力が、ここまでの技を可能にしているんだろうなと思った。
竜族は、建物に対して、防音や通気性は重視していなさそうだから、このまま板を貼り合わせていけば、建物は完成するだろう。アヴァリュートがここで寛ぎ、寝起きを行う、彼専用の家がいよいよ建てられるのだ。
「大丈夫そう。あとは壁をつくるだけか?」
「コタローが土を耕しているあいだに、こちらも土を掘り、地盤を補強した。切り倒した木材を加工し、梁や柱を立てたんだ」
ガークはさらりと言ったが、人間がこれを作るとなると、何ヶ月もかかるはずだ。
「とはいえ、本格的な建築じゃねえぞ。早急に長老が雨風を凌げる場所が必要だったんだろ。まあ、簡素な掘っ立て小屋みたいなもんさ」
ガークの後ろからひょっこりと顔を出して、ザンドラが言った。それでも、あの湿っぽくて暗い洞穴よりはましなはずだ。
『なんだ、これは儂のための建造物なのか』
おいおい、今更かよ! とツッコミたくなったが、作業の合間に記憶が忘却の彼方にとんでいってしまったのかもしれない。自分がなにをしているのかは分からないけれど、とりあえず周りに合わせて自分も建築を手伝った……という感じだろう。
「そうだよ、じいちゃん。もう、あんな陰気くさいところで過ごさなくていいんだ」
ガークの声は優しい。自分の思い通りに事が進んでいるいまの状況に、安心しているようにみえた。
「懐かしいですねえ。土いじりは若い頃から好きでしたよ。コタロウくん、耕してくれてありがとうねえ」
ばあちゃんは、畑の畝の一角にしゃがみ込んで、素手で土をいじくっている。俺には建築の知識も農業の知識もないけれど、形だけでも畑のようになっただろうか。
自分の身長くらいの長さの畝を四つ作って、俺の体力は尽きた。木々の隙間をぬってそよいでくる風が、汗ばんだ肌を撫でていく。ここにはエアコンも扇風機もないけれど、充分涼しかった。
「コタローさん、集落に保存してあった苗をお裾分けさせてね」
いつの間にか姿を消していたと思っていたが、サティーが両手に取手のついた麻袋を提げて戻ってきた。
「アカメトゥとムラプラっていう野菜の苗だよ」
テイトウイモがジャガイモそのものだったことからすれば、おそらくこれも見慣れた野菜がなるんだろうけど、名前をきいただけでは見当もつかなかった。
「あら、これはトマトとナスの苗ですね、お嬢ちゃん」
ばあちゃんが俺の傍から顔を出して、麻袋の中をのぞき込んだ。
「おばあちゃん、あなた達のいた世界では、そう呼んでたのね」
「そうですよお。それ以外になんの呼び名があるというんですか」
年寄りは新しい言葉を受け付けないのか、そもそもばあちゃんがサティーの言葉を聞いていなかったのか……。
「じゃあ、植えていきましょうねえ」
ばあちゃんは手慣れた様子で麻袋を持ち上げ、よっこらせ、よいしょよいしょと呟きながら、畑に戻っていった。
「コタロー、こっちはいいから、おばあさんを手伝ってあげてくれ」
ガークに言われなくとも、建築に関して俺が手伝えることはなにもない。ばあちゃんはいつもより足腰の調子がよさそうだ。昔の勘を取り戻しているのだろうか。俺は筒原さんとともに、ばあちゃんのあとについた。
「シャベルはありますか、コタロウくん」
「事務所にあるわよ、とってくるわね」
返答に困った俺のかわりに、筒原さんが答えた。そういえば、元の世界では、建物の周りに花を植えていたから、そういう用具もあるんだろう。
事務所の中に入っていった筒原さんは、シャベルと軍手を三つずつ持って戻ってきた。
「あらあら、お嬢ちゃんにばっかり面倒をかけさせて、あいすみません」
ばあちゃんはそう言って、いそいそと軍手をはめて土いじりをはじめた。
俺がまだ学生だった頃、ばあちゃんは家の庭で花や野菜をたくさん育てていた。
「あんなにいっぱい育てて、めんどくさくないのかよ」と聞いた俺に、「そうねえ、コタロウくんとちがって、ばあちゃんは一日が暇でしょうがないからねえ。ボケ防止にもなるし、野菜も獲れて節約にもなるし、面倒だと思ったことはないねえ」と、獲れたてのぐにゃぐにゃのキュウリを愛おしそうに撫でながら言っていたっけ。
とてもスーパーの商品棚には並びそうもないいびつな形のキュウリだったが、冷やして浅漬けにすると美味かった。トマトやナスも育てていたっけ。俺が学校に行っているあいだに、ばあちゃんは馴染みの園芸店に顔を出し、季節ごとに花や野菜をせっせと買い込んでは畑に植えていた。
俺が中学三年のときに、その園芸店は店主が高齢だったことと、売り上げが低迷していたことを理由に商いをたたんでしまった。俺たちなら、じゃあホームセンターとかで買えばいいという考えに至るけれど、ばあちゃんたちの年代の人たちは、「これはここで買うものだ」と決めてしまい、他の選択肢をなくしてしまうことがある。ばあちゃんも例に漏れず、園芸店が店をたたんだのをきっかけに、土いじりはやめてしまった。今となって思えば、それも認知症を加速させてしまった原因のひとつなのかもしれない。
たとえば俺が代わりにホームセンターに行って苗や種を買ってくるとか「やろうぜ」と誘ってみるとかしていたら、ばあちゃんは今も趣味を続けていたのだろうか。
だめだ、だめだ。過去のことを思い返してあれこれ考えてもなにも変わらない。心に湧いた小さな後悔を拾わないことにする。負の感情は溜め込むとよくないからな。
「空野くん、まためそめそと考えてたでしょ」
「えっ!? ああ、いや……まあ、そうっすね」
「恭子さんのことで悩んでたのなら、この世界で貴方の思うように、残された時間を一緒に過ごしてあげなさい。それでも最期のときが訪れたときは、もっとああしてやればよかったとか、こうしていればよかったとか、絶対に思うの。正解なんてないものごとには、私たちがどんな対応をしたとしても、後悔はつきものよ。でもね、恭子さんと一緒に過ごせるいま、あれこれと悩んだ挙げ句に怖じ気づいてなにも出来なかった未来より、貴方ができることをやったうえでの後悔なら、貴方もいずれ納得するでしょう」
——後悔はあしたの自分に任せて、貴方が正しいと思ったいまを歩いていきなさい。
筒原さんが言ったことは、いままでに彼女が読んできた本からの受け売りかもしれない。そうであったとしても、俺の心には、尊敬する上司の言葉として残った。
「わかりました! いやー、筒原さんの教えはやっぱ、ひと味ちがうっすね。なんかスカッとしました。これが年の功ってやつかな」
「人を年寄り扱いしないの」
筒原さんはそう言って苦笑した。「さあ空野くん、私たちも畑を作るわよ」
「はいっ!」
俺はこくりと頷くと、背中を丸めてシャベルを土にさしているばあちゃんのもとに駆け寄って、三人で一緒に次々と苗を植えていったのだった。


