「ちょっと、おにいちゃん、さっき、わたしのお父さんがここにきませんでしたか?」
うえっ……またボケてやがる……。
俺は心の中で思う。しかしそんなことはおくびにも出さず、目の前に現れた婆ちゃんに笑顔を向ける。
「キョウコさんの旦那さんなら、さっきお仕事にいきましたよ。一緒に見送ったじゃないっすか!」
「はあはあ、そうでしたかねえ、こりゃあ、あいすみません、耄碌厄介ばばあはこれだから困りますねえ」
「キョウコさんは、いまからお風呂に入りますよ! そのために俺が来たんスから」
「あらやだ、おにいちゃん、こんなしわくちゃの老いぼれを捕まえて、何を言ってるの? 恥ずかしいわよ」
ちげーよ、俺はアンタの孫だよ。いまからアンタを風呂に入れるんだよ。
「俺は旦那さんに頼まれてやって来た、三助っす!さあさあ、行きましょ 」
「粋なことをしてくれるもんだねえ、あの人も。もったいないもったいない。でも、折角だし、お言葉に甘えさせていただきますから、背中を流してくださいな」
「お安い御用っす。 さ、風呂にいきますよ」
俺は心の中でガッツポーズをしながら、ばあちゃんの後ろについて浴室まで誘導する。築六十年の一軒家は、すっかり老朽化してしまっていて、俺たちが床を踏みしめると所々でギシギシと不安になるような音がする。老朽化するのは、家だけじゃなく、人間のからだもなんだなよなあと思いながら、居間を横切る。
線香の匂いがする。ばあちゃんは毎朝、じいちゃんの遺影が置かれている仏壇に、線香とご飯を供えるのを日課にしている。今日も朝起きて、米を器によそい、線香に火をつけたのだろう。丸みを帯びて脚が高くなっているその器を、仏飯器というらしい。むかし、ばあちゃんが教えてくれた豆知識だ。
「そういえばおにいちゃん、前にも会ったような気がするけど、あなたのお名前は?」
居間から廊下に出たとき、ばあちゃんは急に立ち止まって俺のほうを振り返った。
「俺っすか? 俺はソラノコタローっていいます。ソラノは青空の空に野原の野、虎に太いと朗らかと書いて、コタローって読みます」
「コタロウくんね。なんだかお侍さんみたいな名前ねえ」
「そうっすかね」
 ばあちゃん、目の前にいるのが、自分の孫だということはすっかり忘れてしまっているらしい。ばあちゃんの中で、今の俺はじいちゃんがどこからか寄越した三助なのだ。だから、俺もそれに合わせる。

 俺の祖母、空野恭子のもの忘れが激しくなったのは、今から四年ほど前の夏だった。俺がそれに気づいたきっかけは、当時まだ高校生だった俺のスマホに警察から電話がかかってきたことだった。
「空野恭子さんのお孫さんですか?」と、電話口に問われたものだから、俺ははい、そうですと答えるしかない。電話の向こうの男は、警察官を名乗っている。俺とばあちゃんが住んでいる家の近くの警察署に所属しているらしく、スマホのディスプレイに表示されている番号の末尾は一、一、〇だから、怪しい電話ではなさそうだった。
「空野恭子さんが、スーパーで万引きをしました。申し訳ないですが、お孫さん、今からこちらに来ることは出来ますか」
 血の気が引いた。背中の下から上に電流が走ったかのような感覚に襲われた。人間、テンパると、息の仕方すらも忘れてしまうようだ。
「わわわわかりましたっ、す、すぐ行きますっ!」
 そのとき、俺は部活帰りで、仲間たちとコンビニで買い食いをしていた。家に帰ったら、また辛気臭い煮物や魚を食わなきゃいけないから、せめてそれまでに自分の好きなジャンクフードで腹を満たしたいと思っていたのだ。
 俺はコンビニのチキンを口に押し込んで、仲間たちへの挨拶もそこそこに、自転車をすっ飛ばしていった。
 ばあちゃんが未清算の商品を自分のバッグに入れてしまったのは、俺もよく知っている家の近所のスーパーだった。買い物に来る用事以外で立ち寄ったことのない俺は、何をどうしたらいいのか分からず、とりあえずレジに立っていた店員のおばちゃんに事情を説明して、事務所に通してもらった。まだ心臓がバクバクしていて、周りに配慮する余裕のなかった俺は、いろんなものに体や鞄をぶつけながら、おばちゃんの後についていった。
 促されて、事務所に入った俺の視界に飛び込んできたのは、長机を挟んで向かい合う男の店員と、ばあちゃん、その傍に立っている二人の警察官だった。
 気が動転していたせいか、詳しいやりとりは覚えていないが、俺はひたすら店員と警察官に頭を下げたことだけは記憶にある。そのあいだ、ばあちゃんは「コタロウ、何をしているんだい? アタシに濡れ衣を着せてきた連中に頭を下げる必要なんかないよ」と目を三角にして捲し立てていた。

 思えばあれが、俺の進路を決めるきっかけとなった出来事だったのかもしれない。ばあちゃんがボケた。これがよく聞く認知症ってやつなんだ。まだ十代の半ばを過ぎたばかりの俺にその現実は、あまりにも衝撃的だった。
 そんなこともあって、高校を卒業した俺は、家の近所の介護事業所に就職した。この先、何があっても困らないように、いや、困ることはいっぱいあるだろうけど、その度合いが最小限で済むように、少しでも知識をつけていたいと思ったのだ。あとは家の近所だと、万が一ばあちゃんに何かあっても、すぐに駆けつけられるから。それが何よりも優先すべき理由だった。
 業界全体が人手不足なこともあってか、俺の就活は何の苦労もなくトントン拍子に進んだ。ただひとつネックだったのは、現場に出て実際に仕事をするには、介護の資格が必要だったこと。だから俺は、内定をもらってすぐに、資格を取得できる学校に通った。平日は学校で、休日も学校。二足の草鞋を履く俺は、当時、大学に進むために切磋している他の受験生たちと同じくらい、大変だったかもしれない。
 高校卒業と同時に介護の資格を取得出来た俺は、晴れて内定が決まっていた事業所に入社することができた。そこから三年、右往左往しながら地道に勤め上げ、今年の春に介護福祉士の国家資格を取得した。空野虎太朗、二十一歳。職業介護福祉士。それが今の俺のステータスだ。
「おにいちゃん、本当にいいんですか? わたしなんかがこんないい気分になっちゃって」
 ばあちゃんは、自分の家の風呂場の脱衣所で、まだ入浴を躊躇っていた。
「いいっすいいっす。さ、もうちょっとしたらお客さんがドーンとやってくるかもしれませんから、そうならんうちに早く済ませちゃいましょ」
 俺はそう言いながら、自分のシャツを脱ぐ。下は、あらかじめ海パンに着替えておいたから、このままでいい。仕事で、人様の家にお邪魔して入浴介助をするときは、流石に裸にはならないけれど、何てったってここは俺の家でもあり、相手は身内だ。気を遣うこともない。
 三助という職業は、ばあちゃんが話していたから知った。おそらく、こんな仕事でもしていないと、知ることのなかった職業だろう。本当の三助は、ふんどしでも着けてやるのだろうかと考えながら、俺はばあちゃんを浴室に誘導したのだった。

「あら、コタロウくん、いつ帰ってたの?」
 風呂から上がって、ばあちゃんにお茶が入ったグラスを出したとき、きょとんとした表情で俺の顔を見つめてきた。TPOはともかく、少なくとも俺が孫のコタローだと認識したようだ。「いくら家の中だからって、そんな海に来たみたいな格好をするんじゃありませんよ」と、小言まで付け加える始末だ。
「ばあちゃん、俺、着替えてくるから、昼飯と晩飯を買いに行こうぜ」
「ありゃ、コタロウくんのごはん、用意してなかったかねえ。ほんと、耄碌しちゃって。コタロウくんに飲み物まで用意させるなんて、だらしないだらしない」
ばあちゃんが認知症になってから、俺は冷蔵庫に食料をあまり置かなくなった。夜中に起き出してきて、手当たり次第に食べてしまうからだ。だから、飯は食べるその日にスーパーやコンビニで調達するといった寸法。急に食べたくなったものがでてきたときはちょっと困るけど、続けていると案外慣れてくるものだ。
 シャツを着て、財布とエコバッグをショルダーバッグに入れる。ばあちゃんがお茶を飲み切ったことを確認して、リビングのテーブルに置いてあるノートに、『11時 お茶 200ml』と記入する。ばあちゃんが食べた飯の量や、飲んだ水分量を記録するのは、職業柄癖になっていた。別に家族のことなんだから、そこまでのことをする必要がないんだろうけど、ばあちゃんに何かあった時に、医者や看護師に伝えられるようにという備忘録だ。
 家からスーパーまでは歩いて行く。歩ける距離にある唯一のスーパーは、四年前にばあちゃんが万引き騒動を起こした場所だった。
 ばあちゃんがボケていると分かってから、スーパーの対応はがらりと変わった。俺に随分同情してくれたし、仕方のないことだ、今回はばあちゃんみたいな人がこれからどんどん増えてくるかもしれないから、対策を考える良いきっかけになったと、笑顔をみせてくれたくらいだ。それでも俺は、自責の念が拭えなかった。なぜ今まで気づかなかった。なぜこんなことになるまで……。
 小学生の時に両親が死んで、母親の母親であるばあちゃんに引き取られて以来、文句のひとつも言わずに俺を育ててくれた。そんなばあちゃんに限って、まさかボケるはずがない。そう過信していた部分が、俺にはあったのだ。

 家を出る直前になって、俺は職場に用事があったことを思い出した。明日の仕事で使う制服を職場に置いてきてしまっていたのだ。洗濯物を怠けていたから、替えの制服が家に無い。スーパーに行く前に、事業所に寄ろう。
「コタロウくん、準備できたよ」
 玄関先で待っていた俺の背中に、ばあちゃんの言葉がぶつかってくる。あれこれ考えていたから、ほんの少しだけ反応が鈍った。
 振り返ると、ばあちゃんが立っていた。いつも被っている白い帽子を被り、花柄の薄いカーディガンを羽織っている。藍色の綿のズボンは裾がきゅっと萎んでいる。ばあちゃんは昔から身なりにはとても気を遣う性格をしている。認知症になっても、その習性は残っているようだ。
 俺たちは、いそいそと靴を履き、家を出た。
「ああ、コタロウくん、ガスはしめたかしらねえ」
「大丈夫だよ、ばあちゃん」
 ちょっと出かけるだけだから、本当は何もしていないけれど、ばあちゃんが安心できるように方便を言う。
 ばあちゃんは、昔から体を動かすことが好きだったようで、脳は萎縮しても、足腰は丈夫だ。杖も、シルバーカーも無しで歩ける。ちなみに、この状態のことを独歩という。昔の小説家にそんな名前の人がいた。教科書に載っていたその人は、自分が孤独でも強く歩んでいこう、という決意を込めて、ペンネームにしたらしい。
 孤独。人間は一人では生きられないと、そんなような言葉は世界に溢れかえっているけれど、果たして本当にひとりぼっちの人は、この世に存在するのだろうか。
「ばあちゃん、スーパーに行く前に、ちょっと俺の職場に寄ってもいいかな」
「いいよぉ、コタロウくんも大変だねえ、こんな老いぼれの相手をしながら、お仕事をしなきゃいけないなんてねえ、ごめんねえ」
 ゆっくりと言葉を紡ぐばあちゃんは、謝罪の言葉はあれど、全然申し訳ないと思っているようには感じられなかった。これはばあちゃんに限らず、俺が関わるじいちゃんばあちゃんは、会話の端々に詫びの言葉を挟んでくるのだが、その実、全く何も思っていないだろうと突っ込みたくなる場面が多い。日本人は、礼節を大事にする民族だから、とりあえず相手を敬う習性が染み付いているのかもしれない。
 ばあちゃんの歩幅に合わせると、俺一人で歩く道も時間がかかる。だがこれは、時間の限られている業務ではない。あと何分しかないと焦らなくてもいいのだ。
 
 そんなこんなで俺はようやく職場に到着した。
『ケアセンター こもれびの杜』
 道路に面して建てられた平屋建ての建物は、薄い緑色の壁に、濃い茶色の屋根をかぶっている。たしか、事業所名にあやかって、木をイメージしたデザインにしたらしい。
 引き戸を開けると、俺が見慣れた光景が飛び込んできた。ここは二十畳ほどの空間を事務所として使っており、部屋の真ん中に、オフィス用のデスクが四つ並んでいる。パソコンや書類の束、事務用品が置かれているものの、とっ散らかっている印象は少ない。
 入口から向かって右側には、パーテーションで仕切られた来客用のテーブルと椅子が置いてある。介護に関する相談事や、スタッフ同士のミーティングを行う場所として活用しているスペースだ。部屋の奥には給湯室とトイレがあり、壁に沿ってたくさんの書棚が並んでいる。そこには利用者の情報ファイルや、介護の勉強をするための書籍などが置かれている。
「あら、空野くん、今日は休みじゃなかったっけ」
 給湯室から顔を覗かせたのは、俺の直属の上司であり、事業所の責任者の筒原冬美さんだった。筒原さんは、俺が生まれるよりも前に介護の仕事に就いた、この道一筋の大ベテランだ。今年還暦を迎えるとのことで、俺が冗談めかして「じゃあ、赤いちゃんちゃんこを送りますね」と茶化したら、「どうせならブランド物のアウターにして頂戴」とわりと本気で言ってきたのは、つい先週のことだ。
「ちょっと忘れ物をしちゃって」
 制服を……とは言わないでおいた。「あらあ!」と、声色が変わった筒原さんの興味が、ばあちゃんに移ったからだ。
「こんにちは、恭子さん。久しぶりねえ」
「あらあらどうも、ご無沙汰しております」
 俺の後ろに立っていたばあちゃんは、丁寧にお辞儀をしてみせたが、多分、相手が誰だか分かっていないはずだ。視線は筒原さんの方へ向けてはいるものの、どこかぼんやりとしている表情をしていた。この人は自分の名前を知っている。それならば、見覚えはないけれど、何処かで顔を合わせたことがあるのだろうと、結論づけたようだ。
「じゃあばあちゃん、すぐ済ませるから、椅子に座って待っててよ」
「あいすみません。では、そうさせていただきますね」
 ばあちゃんはペコペコと頭を下げながら、俺が引いた椅子に腰掛けようとした。その時だった。
 事務所にけたたましい音量で、サイレンが鳴った。音を出しているのは、俺のスマホと、筒原さんのスマホ。不気味な音がふたつ折り重なって、わんわんと鳴っている。それも微妙に音がずれているから余計に不快感を逆撫でさせてくる。
———地震だ!
 俺は咄嗟に体が動いて、ばあちゃんをテーブルの下に押し込んだ。介助をするときの安全な体の触れ方なんてものは、すっかり頭から抜けていた。「やだ、痛いですよ、おとうさん!」と、ばあちゃんが素っ頓狂な声をあげた。直後、地面が微かに震えた。その揺れは初めはささやかで、大したことはないかもしれないと思ったのも束の間、壁の書棚が微かに揺れているのが見えた。壁に掛けられた時計がカチカチと不規則に動いている。
「地震!!」
 そこでようやく、筒原さんは事態を理解したようだった。揺れは次第に激しさを増し、建物全体が唸りを上げるような音を立てた。俺は床に膝をつき、両手でテーブルの脚をしっかりと掴んだ。脇腹がばあちゃんの背中に当たる。パソコンや書類、筒原さんが飲んでいたコーヒーのマグカップが宙を舞い、耳をつんざくような音を立てて地面に落ちていくのが見えた。
「筒原さん! あぶなっ!!!」
 地震が起きていることは理解しているのに、あまりにも突然のことだったからか、筒原さんはその場に棒立ちになっていた。彼女の背後にある書棚が、ガタンゴトンと大きく揺れている。施錠していない引違いのガラス扉が開いたり閉じたりを繰り返していて、ガシャガシャけたたましい音を立てている。このままだと、筒原さんは書棚の下敷きになってしまう!
 俺は、筒原さんを助けようと、筒原さんのもとへ駆け出した。地面が根っこから揺れているから、足取りがおぼつかない。バランスを崩し、前に転びそうになりながらそれでも足を前に突き出す。彼女は俺の顔を驚いたように目を見開いて凝視している。この間、ほんの数秒だというのに、随分と長い時間のように感じられた。
 そのとき、ちょうど筒原さんの背後にある書棚が、大きく傾き始めた。俺はなんとか駆け寄り、彼女を引き倒すようにして書棚の下から引き離した。
「大丈夫ですか、筒原さん!」
筒原さんは驚愕した顔で頷いた。言葉が出てこないようだ。口許がわなわなと震え、ただ俺の顔から視線が外せないようであった。
「あれ?……え?」
あれだけの揺れが起こったのだ。室内のものは全て倒れ、書類の山が崩れ、足の踏み場がなくなっていてもおかしくない……はずだった。
「ばあちゃんっ!?」
ばあちゃんは俺が押し込んだままの格好で、机の下で丸まっている。「ばあちゃん、大丈夫かっ!?」
「あれまあ、わたし、どうしてまあ、こんなことになってるのでしょう。いててて、腰が……」
「あっ、ばあちゃん!」
俺は慌てて机の下に潜り込み、ばあちゃんを助け起こした。
「コタロウくん、いたの? ごめんねえ、またばあちゃん、頭がおかしくなったみたいだねえ」
「大丈夫だよ、それより、腰は?」
「年寄りはねえ、常に腰なんて痛いもんですよ。さあさあ、どうしたものかねえ」
絶好調だ。ばあちゃんは、自分の腰をトントンとたたきながら、よろよろと立ち上がった。
よろよろと、とはいえ、ばあちゃん、足腰は丈夫なのだ。俺の助けを借りずとも、床から立ち上がることは出来る。
「虎太朗くん、大丈夫だった?」
書類の山の向こうから、ひょっこり顔を出す筒原さん。どうやら彼女も、無事なようだ。でも、なぜなんだろう。今までに経験したことのないほどの凄まじい揺れだったのに、そう、あれは体感的には震度七くらいの地震だったのに、この事務所内は何も起こっていないかのように、ただいつもの光景が広がっていた。
「筒原さんこそ、なんともなかったっすか? その、怪我とか」
「見ての通り、ピンピンしてるわよ」
「良かった。筒原さんが怪我なんかして就業不能になったら、事務所回りませんからね」
「それは心配ないわよ。虎太朗くんがいるから」
 こんな時に褒めてくれなくてもと思うが、口には出さなかった。そんなことより、なにが起こったのか、状況を把握することが先決だ。

なんだかよくわからない。仮にこもれびの杜の建物の耐震構造が凄まじく優秀にできていたとしても、事務所の中が全く荒れていないことなんてあるのだろうか。
 俺は、目の前の光景が信じられなかった。
「今、めちゃくちゃ揺れましたよね?」
「うん、揺れた」
 きょとんとしているのは、筒原さんも同じだった。大きな揺れがあったことは間違いないようで、やっぱり俺の気のせいではなかったようだ。
「俺、ちょっと外の様子を見てきます。ばあちゃんを見ててもらえますか?」
「うん、わかった」
 事務所が平気なら、外も大丈夫かもしれない。きっとこの近くで、何かが爆発したとか、地割れが起きたとか、それくらいの規模の災難だったのだろう。
 俺はそう思って、軽い足取りで事務所の出入口を出た。

「はあっ!?」

 思考が止まる。一旦扉を閉めて、また開ける。さっき見た光景がやっぱり目の前に広がって、俺の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「筒原さん……」
「なあに?」
「ちょっとこっち来てもらっていいっすか……」
 ばあちゃんを見てろと言ったり、こっちに来いと言ったり、人遣いの荒いやつだと思われたかもしれない。筒原さんはよっこいしょと言って立ち上がり、ペンギンのような歩き方で俺の元へと歩いてきた。
「あれま!」
 筒原さんはそれだけ言うと、事務所の外に出た。「あっ、危ないかもっすよ!」
「これが噂の、異世界転生ってやつ?」