「あの……あなたは、ナギサさんじゃないって……」
「うん。私は『ナギサ』じゃないけど、半分くらいは正解」
「半分……? って、どういう……?」

 彼女の答えを待つ間、思わずごくりと喉が鳴った。
 あれだけうるさかった河川敷の虫の声も、高架下の風の音も、遠くの喧騒も聞こえないくらいの一瞬の重たい静寂の後、彼女は僕の緊張を笑い飛ばす。

「ふふっ、私『三上汀』の孫の『渉里灯』っていうの」
「……えっ」
「ね、文字の半分くらい同じでしょ。三とさんずいの辺りとか……上と渉の止部分も惜しいし、名前は右側の丁とか……」
「え、は……!? いや、漢字はあれだけど……孫!? あなたが、ナギサさんの!?」
「そう。だから、同じ写真うちにもあってね。懐かしいなーって」

 何でもないことのように笑う彼女は、嘘をついているようには見えない。
 しかし、そんな偶然あるのだろうか。いっそ日記に引き寄せられて幽霊が出てきたと言われた方が納得できるタイミングとその正体に、僕は困惑する。

「……私はね、この町に住んでるの。夏休みに遊びに来たナギサおばあちゃんと、ここに住んでたきみのおじいさん……ふふ、私たちと立場が逆だね」
「え、っと……」

 そんな出来すぎた状況に、暑さに茹だった頭が追い付かない。
 それでも、次がれた言葉にすべて納得した。

「実はさ、きみのお母さんに頼まれたんだよね。『波音が片付け放っぽり出して家の自転車乗ってどっか行っちゃったから、灯ちゃん探してきてくれない?』って」
「げっ……。というか、うちの母と知り合いなんですね……?」
「そうだよ。寧ろ……きみとも昔、遊んだことあるんだけどな? 『なっちゃん』?」
「えっ」

 それは、僕の小さい頃のあだ名だ。驚く僕に対して、彼女は悪戯な笑みを浮かべながら、手元のノートを指差す。

「それこそ、夏休みのナギサたちみたいに……」

 そう言われて、幼い頃の記憶が少し甦った。
 小学生の頃か、もっと前。夏休みに遊びに来た祖父の家は退屈で、近所のお姉さんによく遊んで貰った。
 もうほとんど顔も覚えていない、遠く淡い初恋の記憶。

「あ……」
「思い出した?」
「……まじか……」

 初恋の彼女が目の前に居る現実。偶然にしては出来すぎた、運命の悪戯とでも言える再会。様々な出来事に、情緒が追い付かない。

 こうなると、もしかすると僕の昔の日記も祖父の家のどこかに隠してあるかもしれないと思い当たり、母にそれが見つかる前にと、僕は慌てて祖父の家へと戻ることにする。

「あ、そろそろ帰る?……昔みたく手でも繋ごっか?」
「繋ぎません!」
「あー、自転車あるもんねぇ。片手は難しいか」
「そういうことじゃなく……」

 人懐っこくて、マイペースな彼女。ナギサと居た祖父も、こんな気持ちだったのだろうか。

「ねえねえ、夏休みはまだあるよね。明日は一緒に、スイカ食べよっか」
「……種は飲み込まないように気を付けてくださいね……灯さん」
「ふふ、芽が生えたら大変だもんね」

 自転車を押しながら彼女と並んで歩く、夏の田舎道。暑い日差しも、揺らめく陽炎も、深い空の色も、やけに鮮やかに見える。

 祖父の日記の続きは、鞄に詰め込み読むのをやめた。結局、祖父とナギサは結ばれることはなかったのだ。その結果、僕と彼女がここに居る。

 いくら出来すぎた偶然でも、同じ運命を辿ってしまわないように。
 再び訪れた初恋の君との夏の温度を確かめるように、僕は隣を歩く彼女の手を、そっと握った。