「——冒険譚、か」
翌朝、目を覚ましてすぐに天啓のようにその単語が頭に浮かんだ。夢の中で頭の整理が出来たのかもしれない。だがそんな経緯なんてどうでもいい。
とにかく志木さんらしさもあって、読書経験が少なくても楽しめて、漫画に通じるものもある。これ以上ないアイデアに思えた。持っている本の中にも丁度良いものがあったはずだ。
そうと決まればと部屋の本棚を一通り見るが思い浮かべている作品の背表紙がどこにも見当たらない。時間をかけて一冊一冊取り出してみても、無い。
「あ、納戸にやったか」
いよいよ焦り始めた頃、ようやく二週間前の記憶が蘇ってきた。志木さんが来るからと一時的に納戸へ避難させた本達の中に確かにあったはずだ。
行方に目途がついて気が抜けたそのとき、思い出したかのように腹が鳴った。
今日は志木さんの最終日で、丁度宿泊客も予約もないということで『みかみ』は休業だ。だからこうして時間を取れたが、おかげでエネルギー不足だ。
既に外の熱気が充満している廊下を早足に抜け、居間に入ると寝間着姿の志木さんが食卓に着いていた。
「あ、おはよう佳樹くん! お仕事ないとお互い寝坊助だね」
「おはようございます。反動でいっぱい寝ちゃうんですよね——あれ、母さんは」
「漁港の方に行くって。今晩は私のお別れ会でお刺身パーチーらしいよ! 朝は食卓にあるの適当に食べてーって」
「あはは、パーチ―……母さん張り切ってるだろうなぁ」
食卓の上には魚の煮付やおひたしなんかが並んでいる。キッチンにはご飯と味噌汁も完備している。いつもより少し豪華なのは普段お客さんに出しているのがそのまま僕らに回ってきているからだろう。
自分のご飯と味噌汁をよそい、朝の情報番組を眺めながら志木さんと緩やかな時間を過ごした。
二人とも微妙な順位だった占いが終わって、食器を片付ける空気が流れたと同時に志木さんが拳を突き出した。いつからか定番になった食器洗いを賭けたじゃんけんの合図だ。
「有終の美を飾るぞ! 最初はグーじゃんけんぽい! ——やったー!」
「花を持たせてあげたんですよ」
「可愛い負け惜しみですこと。あー……荷造りとか部屋の片づけ面倒だなー。あ、そうそう。昨日言った通りお昼はまたあの中華屋さんだからね!」
自分の言いたいことを全部言い切ると、彼女は嵐のように去っていった。僕は起きている彼女が一分だって停止しているところを見たことがない。
二人分の茶碗を洗いながら先ほどのやりとりを思い出して、つい考えてしまった。
「一緒の朝食、最後だったのか」
いつもより時間が掛かってしまったが洗い物を済ませ、目当ての本を求めて廊下の突き当りにある納戸へ向かった。途中志木さんの部屋の前を通るとき、ちょうどキャリーケースのジッパーを閉めるような音と「収まったー」という安堵の声が聞こえた。片付けは順調なようだ。
納戸のドアを開け、入ってすぐの脚立の横に十冊ほどの本を縛り束ねたものが二つ——。
「え、は?」
無い。目に付く範囲どこにも、どこかの裏にあるのかとアレコレひっくり返しても、無い。
一瞬思考が停止しかけたが、なんとかスマホを取り出して母に電話を掛ける。背中には冷たい汗が滲んでいるのに、頭だけがぼうっと熱を持っている感じがする。
数コールの後、母が電話に出た。
「あっ母さん! 納戸に置いてた本知らない!?」
『本ー? あー、今日資源回収だったから出しちゃったわよー。どうしたのそんなに慌てて』
「はっ……え、い、いやなんでもない……急にかけてごめん」
切る直前、母はまだ何か言っていたが、腕から力が抜けて降ろしてしまったからよく分からなかった。さっきまで強張っていた全身が脱力して立ち尽くしてしまう。
資源回収、要するにゴミとして出してしまったのだ。
でも母は悪くない。自分が伝達を怠っただけ、八つ当たりも出来ない程度に僕の落ち度だ。
行方がハッキリしたことでかえって冷静さが取り戻せたのか、自分でも驚くほど頭が沈静化している。いや、ただそう思いたいだけかもしれない。さっきとは逆に顔から熱が引きすぎている気もする。
「大丈夫? 本がどうかしたの?」
電話の声が自分が思っていたよりも大きかったらしく、部屋から顔を覗かせた志木さんが声を掛けてくれた。その心配そうな目と声色が、自分が正常な状態でないことの証左のように思えた。
「えっと、だ、大丈夫です。ちょっと手違いと言うか。とにかく大丈夫なので——」
彼女に説明するというよりも自分に言い聞かせているようだ。
そう自嘲しながらなんとか場を取り繕おうと適した言葉を探していると、突然両肩を掴まれて体が跳ねた。
「ゆっくりでいいから、何があったのかちゃんと話して」
それは今までにないくらい真剣な声だった。
恥ずかしくて、情けなくて彼女の顔を見ることはできなかった。僕はただ徐々にぼんやりと滲んでいく床を見ながら事のあらましを話した。
僕の覚束ない話を最後まで聞いた志木さんはスマホを取り出して何かを打ち込み始める。
志木さんはそれからすぐに、この町の公式サイトから資源回収について書かれた画面を見せてくれた。
「処分する前に集積所に集めるみたいだから、そこに行って事情を話せばなんとかなるかも。行ってみよう!」
「でも、僕のだって証明するのも難しいですし、徒労になるかも——えっ」
僕の弱気を最後まで聞くことなく、志木さんは僕の右手首を引っ張って玄関に向かって大股で歩き出した。力の抜けた僕の身体はそれに追従するしかない。
「大事な本なんでしょ! だからそんなに落ち込んでるんでしょ? じゃあ何もせず後悔するくらいなら動こう!」
背中越しに彼女が張り上げたその声は叱るようで、応援するようでもあり、そして何故か今にも泣き出してしまいそうなものだった。
「きっと大丈夫だよ!」
「——はい!」
ああ、この人が言うと本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
僕は自分の中の弱気を追い出すように両頬を叩いてから自転車に跨った。目の前には無限に広がるような夏空と、入道雲のように大きな背中だけがあった。