釣り人の二組が去った後、客は一人旅の外国人だけになり、また『みかみ』に平穏と暇が戻ってきた。

 その客はディランという二十代のカナダ人で、暇している僕や志木さんにカタコトの日本語で話しかけてくれた。
 曰く、彼は世界中を旅しているがその目的の大部分は現地人との交流なのだという。気づかなかったが、昨日のバカ騒ぎしていた釣り人達にも後から少し混ざっていたらしい。

『オシャベリハ、ドコデモタノシイデス!』

 ——と満面の笑顔で宣言するディランからは子どものような無邪気さと同時に、あらゆる面での強さを見せつけられた感じがした。

 彼も、先日のバックパッカーも世界中を旅する中で、その土地の文化や人を通して自分や人間について見つめ直すのだろう。もしかしたら志木さんもそうだ。“自分探し”といえば安っぽく聞こえるが、僕は彼らの勇気と行動力を尊敬する。
 そしてそれと同時に自己嫌悪に苛まれる。僕はこのままでいいのかと。

「ディランさんのインドトーク面白かったねー! ……って、浮かない顔だね? 体調悪い?」

「ああいや、大丈夫です。名前の違うメニュー頼んでも全部カレーの味がしたってところとか、笑っちゃいましたね」

「そう、だね」

 翌日、ディランは朝焼けの空の下、太陽よりも明るい笑顔で『みかみ』を去っていった。

「アリガトゴザマシタ。サラバデス!」
 
 フェリーの時間があるからと明け方にチェックアウトした二メートル近い体躯を見送りながら、寝ぼけた頭に浮かぶ寂しさと少しの安堵を振り払うように手を振った。
 母が隣町のフェリー乗り場まで車で送るとのことで、後部座席に身を屈めて収まる彼はこちらに気が付いて爽やかな笑顔と共に手を振り返す。本当に何もかも眩しい存在である。
 隣の志木さんは両手を全力で振りながら車内にも聞こえる声で叫ぶ。

「グッバイ! はばないすでーい!」

 志木さんは車がカーブを曲がって見えなくなるまで手を振り続けた。ゆっくりと手を降ろして「行っちゃったね」と呟く彼女と僕は全く同じ気持ちではなかっただろう。
 僕にとってはここ数年で何度か経験した日常の光景だが、彼女にとってはひと夏の貴重な体験であり、出会い全てが特別なのだ。

「志木さんは、その英語でも外国の方とも仲良くなれるから凄いですよね」

「え、素直に喜べない」

「ごめんなさい、言葉選び間違えました……臆さず言語の垣根も超えてすぐに親しくなるコミュニケーション能力が凄いなと。僕はそういうの大の苦手で、友達も居ないので」

 ほんの雑談のつもりで話題を振ったつもりが、つい暗い話になってしまった。それでも志木さんなら明るく笑い飛ばしてくれるかと思ったが、彼女は一瞬とても深刻そうな顔をしたのが見えてしまった。
 それに驚く間もなく、彼女は普段通りニヤッと笑った。

「私は短期決戦型だからね」

「……決戦?」

「持続力がない代わりにスピードはある、みたいな? すぐ馴れ馴れしくするのは得意」

 志木さんの独特な語彙の中でも特に理解が難しくて疑問符を浮かべていると、見かねた彼女が説明をしてくれた。どうやら漫画由来らしい。
 漫画はあまり読まないと言うと「絶対読んだ方がいいよー!」と彼女は声を張り上げた。彼女がサブカルチャーにここまで熱くなるのはかなり意外だった。
 それから彼女は最高の提案だと言わんばかりに意気揚々と続けた。

「私はおすすめの漫画教えるから、佳樹くんはおすすめの小説教えてよ! それなら私も最後まで読めるかも」

「おすすめですか……ちょっと悩ませてください」

「うんうん、わかるよ。選出難しいよね。私もちゃんと考えよ……楽しみに待ってるね!」

 その場はそこで話は終わり、ディランの去った部屋の片付ける作業に取り掛かった。

 それ以来、何をしていても常に頭の片隅に“志木佳奈恵に読んで欲しい本はどれか”という思考が生じた。
 きっと本来はこんなに悩むことではないのだろうと分かっていても、僕の中ではどうしてもこれは重要な決め事であるという考えが払拭できなかった。
 結局、決めきれないまま志木さんが『みかみ』を出る二日前の夜になってしまった。僕はまだこうして布団の中で悩み続けている。
 出立は朝早いと言うから実質的な猶予はあと一日だけだ。

「誰かにおすすめとか、考えたことも無かったな」

 僕にとって読書は最高に楽しい趣味であると同時に、孤独の言い訳でもあった。だから人と共有するものでは決してなかったのだ。

『はいこれ、私が考えた珠玉の漫画リストね』

 昨夜、自室へ戻ろうとしたときに志木さんから渡されたメモ紙と、意外にも達筆で美しい彼女の字を眺めながら、僕は自分が閉じた世界に生きていたことを改めて自覚した。
 本屋に足繫く通っているのにも関わらず、僕は紙いっぱいにリストアップされた作品の大半を知らなかった。彼女と出会わなければ一生知らないままだったかもしれない。下らない事かも知れないが、本当にハッとさせられた。

 思い返せば志木佳奈恵と過ごす日々で、何度もそれを思い知らされたことだ。——僕はただでさえ狭い視野の中の、自分が見たいものしか見ていない。