「ふぃー、お布団洗濯って大変だねー。朝から汗だく!」

「ですね……腕痛いです」

 昨晩から新たに、釣り目当てのお客さんが二組来て少し忙しくなった。朝から釣りへ出た彼らの布団を洗うだけでそれなりの重労働だ。だが、それもまた彼女との交流の契機になっている。

「我が息子ながら情けないわー。まぁとりあえず二人ともお疲れ様。あとはあたしがやるから、自由時間ね。夕方またよろしく」

「はーい、お疲れ様でしたッ! 佳樹くん今日はどうする?」

「すみません、昨日できなかった分ちょっと勉強したいです」

「偉っ! それはお邪魔できないね」

 あの朝以来、僕と志木さんは昼夜の空き時間をよく一緒に過ごした。
 それまで時々出掛けていた彼女もあまり外には出ず、居間で談笑することが増えた気がする。

 喋る内容は仕事の話や世間話を除けば、お互いの取るに足らない思い出話や身の上話——それも表面的なプロフィールをなぞるような、深く踏み込まないものだ。
 そもそも会話の主導権は常に志木さんが握っているから、僕にできるのは精々彼女からの質問を答えた後に同じものを返すくらいなものだ。
 彼女の事で新たに知ったことと言えば、二十歳の大学二年生であること、兄と姉が居る末っ子であること、高校までバスケを熱心にやっていたこと、くらいである。どの話も彼女は本当に楽しそうに話した。子どもが学校であった出来事を家族に報告するときみたいだ、と思った。

 唯一、僕から能動的に質問したことがある。最初にちゃんと会話をしたあの朝、勢いで聞いた。彼女に対して抱いていた一番の疑問だ。

『志木さんはなんでわざわざこんな辺鄙な場所に来たんですか』

『えー、良い所だと思って来たんだけどな……強いて言うなら、海が近くて静かそうだったから、かなぁ』
 
 志木さんからの返事はシンプルで、裏もなさそうなあっけらかんとしたものだった。何か特別な理由があって欲しかったわけでもないが、なんとなく拍子抜けした。
 海が近いと言っても海水浴ができるわけでもないし、今もそうだが四六時中セミやら正体不明の虫やらで外は騒がしい。きっと彼女の思い描いていた場所ではなかっただろう。今日も外は茹だるような暑さだ。
 
 学習机に広げた解きかけの参考書に肘をついて、窓の向こうのセミを眺めながらそんなことを考えていると、ノックの音と共にいつも通り元気な志木さんの声が耳に飛び込んできた。

「よーしーきくーん、この辺に美味しいお店ある? 一緒に行かない?」

 言いながら志木さんは扉をわずかに開けてチラリと顔を覗かせる。
 躊躇なく扉は開けるのに部屋には入ってこない程度に遠慮はする、その塩梅がなんとも彼女らしいと思う。
 壁掛け時計を見るともう正午になろうという時間だった。

「すみません、よく分かりません。あと暑いから行きません」

「わぁ、スマホみたいなお返事。陽子さんが『町内会の集まりで居ないから好きなもの食べてきな』って、お金貰ったんだよ。ほら。豪遊しようよー!」

 そう言って志木さんは右手につまんだ二枚の千円札をひらひらと自慢気に見せびらかしてくる。
 志木さんは時々こういう少しズレた、変な言動をする。僕はどうもその予想できない言葉や行動がツボで、つい笑ってしまう。

「フフッ。できますかね、豪遊」

 なんだか気が抜けてしまった。本当はまだ課題のノルマが終わっていないが、このままグダグダやるくらいなら息抜きをして切り替えた方が良いかもしれない。
 「支度するのでちょっと待ってください」と伝えると、彼女は驚き半分の顔で「やった!」と弾むように声を上げて扉を閉めていった。僕が了承すると思っていなかったのだろう。上機嫌な鼻歌と軽快な足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僕は思わずこめかみを抑えた。
 彼女の“ああいう”反応や態度はなんら特別じゃない。一緒に出掛けることを彼女が喜ぶことで僕がどれだけ肯定された気分になるか、彼女は知らないのだ。
 変な勘違いをしてはいけないと改めて頭に刻み直して、適当な服に着替えて部屋を出た。

「佳樹くん、まだ二年生なのに受験生くらい勉強してて凄いよね。私なんて三年のこの時期でもまだその辺走り回ってたよ」

 玄関で待っていた志木さんは、鍵入れの籠から自転車のワイヤー錠の鍵をこちらに渡しながら言う。
 やけに馴れていると驚いたが、彼女が出掛ける時はいつも母が自転車を貸していたのを思い出した。それも僕のと同じタイプの鍵だからすぐに分かったのだろう。

「走り回ってたってそんな犬みたいな。僕はただ早めに課題終わらせたいだけです。残ってると不安になるので」

「十二分に偉いけどね。私も課題授業のレポートいい加減手付けないと——うっ、わー夏! って感じの日差しと暑さだね」

 喋りながら玄関扉を開けた彼女は手をサンバイザーのようにして、それでも全く怯まずに大股で外へ出て大きく伸びをした。僕はもう気が滅入りそうになったが何とか一歩外に踏み出すと、脳が沸騰するような熱気が潮風と共に襲ってきた。思わず顔をしかめると、志木さんは何が面白いのか笑いながら「走れば風が気持ちいかもね」と言って自転車に跨った。
  
「オススメはホントに無い?」

「おすすめというか、飲食店自体はこの坂を降りて道なりに行けば何軒かありますけど……大体個人経営の老舗っぽい感じで、正直入り難いっていうか」

「えーいいじゃん! せっかくだから行ってみようよ。“おもうまい”お店かもしれないよ!?」

 志木さんは妙な期待に目を輝かせてしまった。
 僕は一瞬「やっぱり怖いからやめておきましょう」と言おうか本気で迷った。しかし彼女の様子を見て、もう何を言っても無駄だな、というのが一目でわかってしまった。

「じゃあ出発しんこー! お店見逃したら教えてね!」

 諦めて項垂れたのを肯定の頷きだと解釈したのか、志木さんは意気揚々とペダルを漕ぎ始めた。普通は案内する側が先頭を走ると思うのだが、その指摘はもう遅い。僕は慌ててワイヤー錠を外して彼女の後を追った。追い越すのも危険だし、店までは本当に一本道だ。このまま付いていく形でも良いだろう。
 家から商店街、そして港へ続く緩い坂道を志木さんと二人で下りていく。
 さっきまでぬるくて不快だった潮風が、今はなんとなく心地よい。暑さが吹き飛ぶ——ということは流石にないが、少なくとも「夏も悪くない」と、そう思えた。

 三、四分走れば『お食事処 古谷』と看板を掲げる平屋の建物が現れた。志木さんも気が付いたようで前から「ここー?」と声が飛んできたのでなるべく大きな声で肯定すると、彼女は軽快に自転車から降りた。運動ができる人の動きだ。僕にはできない。
 
「いかにも老舗の定食屋さんって姿形だね! お、定休は……日曜日だって、良かった良かった」

「志木さんって、いつもこんな風にお店選ぶんですか?」

 錠を掛けようとしゃがみながら、思い浮かんだ疑問がそのまま口に出た。暑さと運動後の高揚のせいでいつもはフル稼働している“言葉をせき止める機能”がショートしてしまったらしい。
 志木さんは店外に無造作に置かれたメニュー写真を見ながら、あっけらかんと「こんなってー?」と答えた。

「勢い任せというか、無鉄砲というか、チャレンジャー、そんな感じの」

 ワイヤー錠がなんだか固くて、頭が回らず良い表現が何も出てこなかった。我ながら咄嗟に出る語彙は酷いものだ。
 なんとか鍵を回して志木さんの方を向き直ると彼女は困ったように笑って、視線が泳いで落ち着かない様子だった。珍しい反応だ。
 
「宇宙人でも見るような目やめてー! でも、そうだね。ご飯だけじゃなくて何事も実際に経験してこそかなって。他人の評価って結局はその人の好き嫌いじゃん? だったらやっぱり体験第一! みたいな感じかも」

 それは非常に志木さんらしい考え方で、口先だけじゃない確かな彼女の人生哲学だった。
 僕とたったの四歳差、それなのに彼女は何十歩も先に居るような感じがする。

「経験、体験……なんかカッコイイですね。僕には絶対無理です」

 それは本当に心の底から湧き出てきた何気ない発言だった。小学生が学ラン姿の中学生に憧れるように、“年上らしい年上”である志木さんを、僕は当たり前のように憧憬している。少し大げさかもしれないが偽りない気持ちと言葉だった。

「かっこい——えー!? 本当に? そ、そう思う?」

 しかし、志木さんにとってそれは完全に想定外だったようで、彼女は驚きと喜びと困惑を喜び多めでぐちゃぐちゃに混ぜたような顔でオーバーにも思えるくらい強く反応した。
 彼女はバスケをしていたとも言っていたし、こういうのは言われ慣れているとばかり思っていたから少し面食らってしまった。
 なんだか自分がとても大それたことを言ってしまったような気がして落ち着かない。しかし訂正するのも何だか変な感じがする。
 
「本当ですよ。嘘つく意味もないです」

「そっか、そっか——っていうかお店入ろっか! さすがにお腹空いてきちゃった」

 彼女はまだ浮ついた様子でそう言って、話も体も方向転換して店のドアを開けた。
 慌ててその後を付いて行くと、よく言えばレトロな内装と、着古した割烹着姿のおばあさんが柔らかな声で「いらっしゃい」と出迎えてくれた。店内には野球中継を映した小型テレビが一つあり、常連と思しきおじいさん二人組がそれを見ながら何やら話している。議論が白熱しているからか、こちらには気が付いていないようだ。
 数十年前の世界にタイムスリップしたのかと思うような光景に僕と志木さんは思わず目を見合わせ、「絶対美味しいやつじゃない?」と、彼女は子どものように笑った。
 
 僕たちは、それぞれメニュー表の上の方にある定番と思われるものを注文して、そして——。



「なんというか……ご老人の常連さんが居る理由は分かりましたね」

 店を出て、僕は思わず口走っていた。
 ここの料理はなんというか、本当に優しいお味だった。おそらく、全部の調味料を倍入れても問題ないと思うくらいには。
 志木さんもハッキリと肯定はしないが、口食べた時点で明らかに何か言いたげ表情になり、言葉少なになったから多分同じような感想だったと思う。

「まぁ、時には失敗もあるよね」

 という、ともすれば一番残酷な台詞を吐いて彼女は自転車を押して歩き始めた。
 上り坂を漕いで行くのは中々大変だからという判断だとは思うが、その背中には何とも言えない哀愁が漂っていた。

「あの、志木さん」

「ん?」

「アイスとか、どうですか?」

 指さす先にはこの辺でしか見ないマイナーなコンビニがある。口直しと機嫌取りを兼ねた思い付きの提案だったが、彼女は予想以上に目を輝かせてくれた。
 そのコンビニは蛍光灯が一つ二つ切れていて薄暗く、空調も外よりはマシ程度にしか効いていない。店員もいかにもやる気が無さそうな学生バイトが一人いるだけである。
 そんなことは全く意に介さず、志木さんはアイス売り場に直行する。

「わー懐かしい! この分けっこできる棒アイスにしよう! これならお昼と合わせても予算内だし」

「僕も一応財布持ってきてますし、食べたいやつで大丈夫じゃないですか?」

「分かってないなー佳樹くん。こういうのは予算ギリギリに収めるのがツウなのだよ」

「通……なんですか? それは」

 人差し指メトロノームのように振りながら志木さんはしたり顔だ。正直言っている意味はよく分からなかったが、彼女がそうしたいのなら止める理由も無かった。
 会計を済ませ、店先に置かれたベンチが日陰になっていたから腰掛けてアイスを開ける。ソーダ味の爽やかな青い氷菓は目にも涼しい。志木さんが二本刺さった棒を持って外側に力を加えるとそれはアッサリと割れた。差し出された一本を受け取り、二人そろってすぐに齧りつく。
 粒立った氷粒の触感と共に冷気が口内を占領し、次いで人工的で背徳的な甘みが押し寄せてくる。気温や状況が味方して、それらが暴力的に感覚を刺激する。隣からも「んー!」と感嘆の声が聞こえた。さっきまでの落ち込みが嘘のような無邪気な笑顔に、思わずこちらの頬も緩む。

「よし! 明日のお昼は別の所チャレンジしよう」

「え、まだやるんですか」

 アイスを食べ終え、立ち上がりながら志木さんはそんな提案をしてきた。
 さっきの失敗をもう忘れてしまった、なんてことは流石に無いだろう。僕は彼女のチャレンジ精神を正しく測り切れていなかったらしい。

「このままじゃ終われないでしょ! 最終日までに佳樹くんが常連になっちゃうようなお店見つけよう!」

 最終日という言葉がやけに頭に響いた。
 志木さんが来て今日で八日目、彼女との時間はもう半分以上過ぎてしまっている。

「そう、ですね。色んな所行きましょう」