志木さんが来てから三日目の朝。

 ここ二日はお客さんも例のバックパッカーだけで大した仕事もなく、僕がやっていた業務はほとんど練習のために志木さんへ割り振られたため大層楽が出来た。志木さんも不慣れからミスはあるが、母と気が合うこともあって上手くやっているようだ。バックパッカーともすぐに打ち解けていた。

『二週間と言わず、ずっと居て欲しいくらいだわ』

『えー嬉しい! じゃあ養子になっちゃおっかな!』
 
 昨晩、夕食の席での母と志木さんの会話が思い出される。
 彼女が居るだけで『みかみ』は生まれ変わったみたいに明るくて、笑い声も増えて……僕には少し居辛い。


 彼女のおかげで僕は早く眠れてしまい、日が昇るかどうかという時間に目が覚めてしまった。クーラーを付けたまま寝たからか喉が酷く乾燥している。
 エアコンを消し、水でも飲もうと部屋を出ると、洗濯場の方から何かゴソゴソと動く人の気配がした。一瞬身体に緊張が走る。いくら宿屋の朝が早いとはいえ、こんな時間にはまだ母も起きていないはずだ。客も、バックパッカーは昨晩チェックアウトしたから今は誰も居ない。
 元が古民家のこの家のセキュリティは比較的緩い——まさか、泥棒?
 思い至った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
 足音を忍ばせて洗濯場に近づくと、やはり誰か人が居るのは間違いないようだ。通報した方がいいか? でも勘違いで駐在さんに来てもらってしまうと今後ずっと気まずい思いをするかもしれない。この狭い町では一度人にかけた迷惑は流れることなく滞留してしまう。
 とにかく確認しないことにはと、意を決してチラリと中を覗き込むと——。

「え、志木さん?」 

 気配の正体は志木さんだった。安心してつい声が出てしまう。
 それで驚かせてしまったようで、彼女は一瞬肩を震わせてただでさえ小さい背中をさらに縮こまらせた。彼女はいつもどんな時も堂々としているから、なんだかその姿は新鮮と言うか、違和感が強かった。

「ビッ、クリしたー……なんだ佳樹くんか。早起きだね! 空き巣の人とかかと思ってビビっちゃった、ごめんね」

 しかしこちらを振り返った志木さんはすっかりいつも通りだった。
 こんな早朝だというのに化粧もバッチリ、服装もスポーティなスウェットとパンツに支給したエプロンという普段となんら変わらないものだ。
 
「全体的にこっちの台詞です……僕も泥棒かと思いました。こんな時間に何してるんですか?」

 本当に怖かったし、疑問だらけで正直混乱している。
 彼女は問いに対して少し恥ずかしそうに俯いて子どもが言い訳をするみたいに答えた。

「えっと、教えて貰った洗濯の手順をおさらいしててね。陽子さんに今日は私一人でやってみようって言われたから、その、ちょっぴり“不安”で——あっ、ねぇ柔軟剤の量ってこれくらいだっけ」

「ちょっと……いや、だいぶ多いですね。表面張力ギリギリじゃないですか。洗濯物の量にもよりますけど、大体このライン分です」

「えへへ、やっぱりそうだよね、なんとなくそんな気はしてた。ありがとうね、佳樹くん。さすが先輩!」

 早朝だからか声を抑えたお礼だ。そしてなによりも、彼女の目には僕が良く知る感情が見て取れた、気がした。
 その瞬間、僕の中で一つの衝動が急に湧き出てくる。それはとても抑えることは出来ず、気が付けば僕の口は勝手に動いていた。

「あの、よかったら少し話しませんか。他にすることとかあったら全然そちら優先で良いんですが」

 ——この人の事が知りたい。

 見た目や立ち振る舞いで勝手に彼女の為人を決めつけていた。僕と真逆の人間であると。
 しかしそれは愚かな浅慮からの勘違いだった。

「え、うん! 話そ話そ!」

 志木さんの驚きつつも本当に嬉しそうな返事を聞いて、ようやく自分が“らしくない”ことをしたとハッキリ自覚した。
 今からでも取り消せないだろうか、なんていう情けない考えは右手に触れた冷たく柔らかな感触と志木さんの明るい声によってかき消されてしまった。

「それじゃあリビングにゴー! 実は佳樹くんに色々聞きたいことあったんだー!」

「……僕もです」

 ああ、顔が熱い。足元が浮ついている。
 緊張と、気恥ずかしさと、何かが決定的に動き出したようなちょっとの予感。そんな複雑な熱が身体を包んでいた。