流れていく湖を見つめながら、本を読むのが好きだ。
何があってもここで本を読めば、何も考えなくて済む。悩み事なんて風のように消え去ってしまう。だからこの場所で本を読むことが好き。
鉄橋を渡る電車や、道路を走る車やバイクの音が聞こえてきて耳障りだと思う。だけどこの場所が好きだからもちろん移動はしない。
美しい湖の音が響き渡り、その湖に眩しく輝く太陽の光が反射され、僕は本にまた視線を向ける。
といってももう七月の下旬で、どんどん八月が近づいてきている。虫の声が聞こえてきて、汗が頬に垂れてくるこの季節がとても鬱陶しい。
だけどこの場所が好きだから、夏でもここにいる。――僕はきっと変わっているのだろう。
「はーるくんっ!」
「うわっ!?」
突然、誰かがキンキンに冷えたペットボトルを僕の頬に当ててきた。そのペットボトルからも愛情いっぱいの笑みが溢れている。
――まぁ、いつもこの声を聞いているのだから誰かは想像つくけれど。
「……夏恋さん?」
「お、正解です! やっほ、はるくん! どう、夏休みは? 有意義に過ごせてるー?」
「え、ま、まぁ。それより、なんで、夏恋さんがここに?」
岩崎夏恋さん。クラスメイトだ。
夏恋さんは明るくて人気者で、僕とは真反対の性格の持ち主。
去年、高校一年生のときも同じクラスだった。去年は全く話さなかったものの、最近妙に話しかけてくることが多くなった。
「んー、私、自転車に乗るのが好きなの! で、たまたま通りかかったらはるくん見つけてさ。びっくりしたよ、こんなに暑いのに外で本読んでるなんて」
「……僕はここが好きだから」
確かに、辺りを見渡してみると白色の自転車が置かれていた。きっと夏恋さんの物だろう。
それにしてもすごく冷えているペットボトルを押し付けてくるなんて彼女が考えそうなことだ。はぁ、とわざとらしいため息を吐く。
「ほんとに最近暑いよね。疲れるー」
「まぁ、暑いよね。でもここ日陰だよ」
「いや、日陰でも夏は暑いでしょ!」
僕は彼女と会話するのが嫌いではない。むしろ楽しい、と思っている。
当たり障りのない話題を僕なんかに振ってくれる彼女はとてつもなく優しいと思う。
「ねぇねぇ、これ、なんて本読んでるの?」
「……暑い夏、甘い恋」
ある男女が真夏に出会い、恋に落ちていく物語だ。男の僕が恋愛ものを読んでいるなんて知られたらもしかして笑われるかもしれない。
でもきっと夏恋さんなら嫌がることをしない。だから大丈夫だと、そう思えた。
「へぇ、素敵なタイトルだね。表紙もエメラルドグリーンで綺麗」
「だよね、僕も最初は表紙に惹かれたんだ。何だかこの表紙の色が恋愛を表してる感じで素敵だと思った。読み始めてみると切ないときもあるし、ドキドキする場面もあるし――」
はっ、と我に返り慌てて口を閉じた。
僕は趣味だと話し始めたら止まらない癖がある。いつもあまり喋らないから、夏恋さんは驚いただろうか。
恐る恐る夏恋さんを見ると、心配とは裏腹に笑顔を向けてくれていた。
「わぁ、気になっちゃうなー。今度本屋さんで買ってみるね! ありがとう、はるくん!」
この本の表紙と同じ、夏恋さんのエメラルドグリーンの瞳がとても美しいと思った。
僕に向けられているその笑顔は、何よりも輝いて見える。
この胸がざわめいてドキドキする気持ちは、一体何と呼ぶのだろうか。
「……夏恋さんは、どうしてここへ来たの? 自転車に乗るにしても、ここら辺は何もないし」
この胸の気持ちを誤魔化すように、僕は彼女へ話を振った。
すると夏恋さんは少し顔を下に向け、また僕に笑顔を見せた。
「何となくかな? 家にいたくないんだよねー」
「どうして?」
何気なく聞いた言葉が彼女の胸に刺さったのか、夏恋さんは急に口を閉じてしまった。
あまり聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうかと思い、慌てて付け足した。
「あ、いや、何となく気になっただけだから。嫌なら全然、言わなくて大丈夫……です」
「……やっぱりはるくんは優しいんだね。話そうかな」
彼女はそう言うと、静かに口を開いた。
それを感じさせるかのように、強い風が僕たちの前を遮った。
「私ほら、髪を茶色に染めてるでしょ? この高校は染めてもいいところだから、髪染めてみたの。母親は可愛いって言ってくれたけど、父親は反対だった」
彼女のエメラルドグリーンの瞳から、光が消えた気がした。
僕はただ何も言えず、彼女の話をただ聞いていた。
「小さい頃から母親と父親は喧嘩ばかりで、家にいるのが息苦しかった。それで本ばかり読んでた。本を読むとその物語の主人公になった気分になれたの。だから……嫌なことも忘れられた。両親の喧嘩なんて耳に入らなくなったの」
――僕と同じだ。素直にそう思った。
僕が持っている本に視線を向けた彼女は、次に僕を見つめた。その瞳は吸い込まれてしまいそうなほど、美しい。
「あーあ、この話したの、はるくんが初めてだよ。……はるくんは、私と同じ気がしたから」
「うん、僕は夏恋さんと一緒だよ。僕もここで本を読めば嫌なことを考えずに済むんだ。だからほぼ毎日、ここで読書してる」
そう言うと、先程の出来事を隠すように、夏恋さんはにっこりと微笑んだ。
いや、できるだけ思い出したくないのだろう。
「たまに、ここに来なよ」
「……えっ? いいの?」
「僕は全然構わないけど。だってその親御さんの喧嘩は、夏恋さんには関係ないでしょ。髪染めたのだって、夏恋さんがやりたくてやったことなんだから。……僕も、別に家にいたいとは思わないし」
夏恋さんはこの夏にふさわしい、明るい向日葵のような笑顔を見せた。
その笑顔を見た途端に、胸がドキッとする。
「ありがとう、はるくん……っ!」
一瞬、夏恋さんの頬に何かがきらっと光った気がするけれど、僕は見て見ぬふりをし、何も口にしなかった。
何があってもここで本を読めば、何も考えなくて済む。悩み事なんて風のように消え去ってしまう。だからこの場所で本を読むことが好き。
鉄橋を渡る電車や、道路を走る車やバイクの音が聞こえてきて耳障りだと思う。だけどこの場所が好きだからもちろん移動はしない。
美しい湖の音が響き渡り、その湖に眩しく輝く太陽の光が反射され、僕は本にまた視線を向ける。
といってももう七月の下旬で、どんどん八月が近づいてきている。虫の声が聞こえてきて、汗が頬に垂れてくるこの季節がとても鬱陶しい。
だけどこの場所が好きだから、夏でもここにいる。――僕はきっと変わっているのだろう。
「はーるくんっ!」
「うわっ!?」
突然、誰かがキンキンに冷えたペットボトルを僕の頬に当ててきた。そのペットボトルからも愛情いっぱいの笑みが溢れている。
――まぁ、いつもこの声を聞いているのだから誰かは想像つくけれど。
「……夏恋さん?」
「お、正解です! やっほ、はるくん! どう、夏休みは? 有意義に過ごせてるー?」
「え、ま、まぁ。それより、なんで、夏恋さんがここに?」
岩崎夏恋さん。クラスメイトだ。
夏恋さんは明るくて人気者で、僕とは真反対の性格の持ち主。
去年、高校一年生のときも同じクラスだった。去年は全く話さなかったものの、最近妙に話しかけてくることが多くなった。
「んー、私、自転車に乗るのが好きなの! で、たまたま通りかかったらはるくん見つけてさ。びっくりしたよ、こんなに暑いのに外で本読んでるなんて」
「……僕はここが好きだから」
確かに、辺りを見渡してみると白色の自転車が置かれていた。きっと夏恋さんの物だろう。
それにしてもすごく冷えているペットボトルを押し付けてくるなんて彼女が考えそうなことだ。はぁ、とわざとらしいため息を吐く。
「ほんとに最近暑いよね。疲れるー」
「まぁ、暑いよね。でもここ日陰だよ」
「いや、日陰でも夏は暑いでしょ!」
僕は彼女と会話するのが嫌いではない。むしろ楽しい、と思っている。
当たり障りのない話題を僕なんかに振ってくれる彼女はとてつもなく優しいと思う。
「ねぇねぇ、これ、なんて本読んでるの?」
「……暑い夏、甘い恋」
ある男女が真夏に出会い、恋に落ちていく物語だ。男の僕が恋愛ものを読んでいるなんて知られたらもしかして笑われるかもしれない。
でもきっと夏恋さんなら嫌がることをしない。だから大丈夫だと、そう思えた。
「へぇ、素敵なタイトルだね。表紙もエメラルドグリーンで綺麗」
「だよね、僕も最初は表紙に惹かれたんだ。何だかこの表紙の色が恋愛を表してる感じで素敵だと思った。読み始めてみると切ないときもあるし、ドキドキする場面もあるし――」
はっ、と我に返り慌てて口を閉じた。
僕は趣味だと話し始めたら止まらない癖がある。いつもあまり喋らないから、夏恋さんは驚いただろうか。
恐る恐る夏恋さんを見ると、心配とは裏腹に笑顔を向けてくれていた。
「わぁ、気になっちゃうなー。今度本屋さんで買ってみるね! ありがとう、はるくん!」
この本の表紙と同じ、夏恋さんのエメラルドグリーンの瞳がとても美しいと思った。
僕に向けられているその笑顔は、何よりも輝いて見える。
この胸がざわめいてドキドキする気持ちは、一体何と呼ぶのだろうか。
「……夏恋さんは、どうしてここへ来たの? 自転車に乗るにしても、ここら辺は何もないし」
この胸の気持ちを誤魔化すように、僕は彼女へ話を振った。
すると夏恋さんは少し顔を下に向け、また僕に笑顔を見せた。
「何となくかな? 家にいたくないんだよねー」
「どうして?」
何気なく聞いた言葉が彼女の胸に刺さったのか、夏恋さんは急に口を閉じてしまった。
あまり聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうかと思い、慌てて付け足した。
「あ、いや、何となく気になっただけだから。嫌なら全然、言わなくて大丈夫……です」
「……やっぱりはるくんは優しいんだね。話そうかな」
彼女はそう言うと、静かに口を開いた。
それを感じさせるかのように、強い風が僕たちの前を遮った。
「私ほら、髪を茶色に染めてるでしょ? この高校は染めてもいいところだから、髪染めてみたの。母親は可愛いって言ってくれたけど、父親は反対だった」
彼女のエメラルドグリーンの瞳から、光が消えた気がした。
僕はただ何も言えず、彼女の話をただ聞いていた。
「小さい頃から母親と父親は喧嘩ばかりで、家にいるのが息苦しかった。それで本ばかり読んでた。本を読むとその物語の主人公になった気分になれたの。だから……嫌なことも忘れられた。両親の喧嘩なんて耳に入らなくなったの」
――僕と同じだ。素直にそう思った。
僕が持っている本に視線を向けた彼女は、次に僕を見つめた。その瞳は吸い込まれてしまいそうなほど、美しい。
「あーあ、この話したの、はるくんが初めてだよ。……はるくんは、私と同じ気がしたから」
「うん、僕は夏恋さんと一緒だよ。僕もここで本を読めば嫌なことを考えずに済むんだ。だからほぼ毎日、ここで読書してる」
そう言うと、先程の出来事を隠すように、夏恋さんはにっこりと微笑んだ。
いや、できるだけ思い出したくないのだろう。
「たまに、ここに来なよ」
「……えっ? いいの?」
「僕は全然構わないけど。だってその親御さんの喧嘩は、夏恋さんには関係ないでしょ。髪染めたのだって、夏恋さんがやりたくてやったことなんだから。……僕も、別に家にいたいとは思わないし」
夏恋さんはこの夏にふさわしい、明るい向日葵のような笑顔を見せた。
その笑顔を見た途端に、胸がドキッとする。
「ありがとう、はるくん……っ!」
一瞬、夏恋さんの頬に何かがきらっと光った気がするけれど、僕は見て見ぬふりをし、何も口にしなかった。