「ただいま、戻りました」
裏口から入ってすぐに、大きな物音に気がつく。
騒がしさは、決して楽しいのではなく争いだと判断できるほど、緊迫した空気、悲鳴や物が壊れる音がまじっている。
(大男さまの関係かな)
狐火は消えて、一人廊下を進めば。
「――俺は嵌められたんだ!」
大男が厨房から転び出たところであった。
悲鳴に近い訴えへ答えるように、ひょいっと少年が現れた。百九十ある瑚灯と同じ長さの棒を、片手で軽々ともち上げている。
桃色の髪の少年は、まるで猫のような笑みで獲物をいたぶるように大男へと近づく。
少年には見覚えがあった。関わり合いはないが、確か警察みたいなものだと瑚灯が言っていた。
桃色の少年は愛らしくこてん、と小首をかしげる。
緑色の瞳が美しい桜を連想させたが、儚さとは無縁なのは一目見てわかる。
(捕食者だ)
絶対人生で関わっていけないタイプと察する。
追い詰めるのが楽しくて仕方ない、と顔に書いてあるのだ。隠す気がない加虐性に、ぞくりと寒気がする。
(表情が豊かで羨ましい)
大男が情けなく暴れるのをいとも簡単に捕縛する。
縄で後ろ手に縛るのは慣れていて、当然なのかもしれないが、どうも不気味だ。
ふと傍で眺める瑚灯と少年の目が合う。
艶やかな笑みと、にんまり顔の対峙。
先に口を開いたのは少年だ。
「花街で事件なんて珍しいね、瑚灯さま? 今まで些細な問題さえ受け入れたりしなかったのに。初めてだよね、こんなの」
「たまには起きるだろうよ。俺は万能じゃあないんでね」
「自ら招いたように見えたけど?」
「気の所為だなぁ。俺は、そこまで要領良くない」
「あは。そーかな? 人間を虐げられるのが耐えられなくて、花街に誘導して自分の管轄に入れて手を出しやすいようにしたんじゃないの? ねぇ」
――あやかし嫌いの、あやかしさん?
下から覗き込むように見つめてくる少年に、瑚灯さまは目を細めて赤い唇で笑みを象る。
はらりと肩からこぼれた烏の濡れ羽色の髪をつまみ、耳にかけた。
「お前も、存外人間に優しいなぁ? あやかし、妖怪――俺等の呼び名を人間たちに合わせるなんて」
「えぇー? だってそうでもなきゃ、人間たちは納得しないんだもん。人間ってボクたちのことを、妖怪とか、あやかしって呼ぶって聞いたからね。ボクは呼び名に興味ないけど」
「はっ。随分と冗談がお上手じゃねぇか」
ばちりと火花が散る。茉莉花は、
(くわばら)
と、手を合わせて壁に張り付く。
騒動が過ぎるまで存在を消しておこう。
「瑚灯さまは、人間にも《《あやかし憑き》》にも優しいのに。何であやかしには厳しいんだろうね?」
「さてな。お前の胸に手を当てて聞いてみたらどうだ?」
「ボクは人畜無害のあやかしだよ」
ね、と少年が大男に同意を求めたが、彼は正気ではない。
ぶつぶつと何事か呟いて、ここではない何処かを見ている。
「おれは、言われたんだ、ここでってころせって、それをあいつら、俺をはめるために、自分たちが安全になるようにおとりにしやがった、そもそも買う気なんかなかったんだおかしいとおもったんだ、ことうをねらえなんて、あと買い取るように手配するまでするわけねぇ、だけどそれでもおれはほしくて」
「ありゃりゃ、聞いてなーい」
仕方ないと少年は繋いだ縄をぐいっと引っ張る。
細腕では想像できない力があったのか、大男はどたんと倒れ込み引きずられた。
ずりずりと去っていくのを、瑚灯は一言も発さず眺め続けた。
大男が唸りを上げて、最後に捨て台詞のように叫ぶ。
「人間をどう扱おうが関係ないだろ!」
「はいはい。えーと営業妨害、傷害? なんだっけ。どーでもいいか。ええっと、ハナメへのおさわり、まぁとりあえず余罪ありまくり犯罪で、ちょーと罰受けようねー」
きゃっきゃっ、とはしゃぐ少年に恐怖を覚える。
まるで子供が友達とごっこ遊びしているかのよう。
少年の見た目も小学低学年ぐらいで、より一層お遊びのように見えて、恐怖を覚える。
「ち、な、み、にー? 女はどこ行ったの? あれにも営業妨害? えーと、名誉侵害、いや違うか、名誉毀損だっけ? そういうので捕まえたいんだけど」
少年の疑問に、固まった。
女性まで罪に問われてしまう。それだけは――。
「――知らねぇなぁ」
すとん、と声が落ちる。
堂々たる迷いない断言に、立ち振る舞い方。
扇子を広げて、口元を隠す。
髪をゆらして、小首を傾げる姿は品がありながらも、女性らしい婀娜っぽさも、にじみ出る。紫水晶の瞳が笑い、人を惑わす色香が漂う。
「俺と茉莉花が話し合いしてる間に、いつの間にか消えちまったよ」
「……へぇー、そう。ま、いっか」
少年がにっこり微笑む。瑚灯の艶笑が返される。
二人の冷戦は数秒で終わり、ふいっと少年は飽きたように大男を片手で引きずっていく。
だが、その一瞬だった。
大男が雄叫びを上げた。
断末魔にも似たそれは空気をびりびりと震わせて、全員が硬直する。
瑚灯が舌打ちをしたのと同時だ。
大男が地を蹴り、一気に駆け出す。突進先にいるのは。
「てめぇだ、てめぇのせいだ!」
茉莉花に激しい憎悪、殺意を惜しみなくぶつけてくる。
縛られたまま距離を詰める。獣のごとく牙を剥き出し、唾液を垂らしながら叫び続けた。
正気が完全に失せた焦点が定まらない瞳に、違和感を覚える。
「てめぇがいたからこうなった、しっている、おれはしっているんだ、そうだ、うってくれ、はなを、はなをくれ」
「なにを」
花。
彼の言っていることの半分も理解出来ない。
誰かと間違えているのか、と訴える前に牙が鋭く光り、首筋を捉える。
「てめぇはこのまえいつでもこいって言ったろ、なぁくれよ、ねがいをかなえてくれよ、うってくれよ、なあ」
ヨコセ。
牙が突き立てられる、その寸前。
「――ぎゃああああぁぁ!」
「っ」
悲鳴が飛び出した、男の口から鮮烈な朱が咲き乱れる。
グロテスクに、されど美しい花々は男の鮮血を栄養に次々と咲いて口からこぼれていく。
がしゃんと、おおよそ花が落ちた音ではない。ぬらぬらと血で濡れて、ぎらりと凶悪な輝きをもつ花びらは、全て刃のごとく鋭く、勝手に刃先が男へ照準が合わされる。
「で、めぇ、《《あ゙やがじ憑ぎ》》、がァッ⁉」
凄惨な光景にはっとする。
《《あやかし憑き》》――原因に思い当たって、茉莉花は慌てて頭の中で語りかけた。
(やめて、やりすぎ)
『何でだよ』
問いへの返答に抑揚はない。
誰かを傷つけているのを何とも思っていない声に、ゾッする。
爪先から頭まで冷気に覆われたような感覚を振り払うように、己を鼓舞する。
止めなければ命を奪うだろう、きっと花を手折るように簡単に、淡々と。
内の声に首を振って、否定する。
(私は望んでいない)
それに、と続ける。
内の声の彼は、滅多に攻撃をしないのだ。このような攻撃も初めて見た。
いつもなら黙っているのに、今回は何故手出ししたのか。
何か知られて困るのがあるのか。
もしかして、それが大男の話に繋がるのか。
問いを重ねれば、少しの間を空けて。
重苦しい、蔑みを含む声音で冷たく囁いた。
『――お前は、いつもそうだな』
それを直さなきゃあ、本気で死ぬぞ。
意味不明な言葉を最後に、ふっと刃の花は消える。
大男も金縛りが溶けたように、その場にうずくまって咳き込んだ。
びしゃりと血の塊を吐くのを茉莉花は、思わず背をさすろうと近づこうとした、が。
「ぐるなぁッ! バケモンがァ」
「お前がな」
ごつん、と容赦なく大男の脳天に拳を落とした。ひぎ、とのた打ち回る大男の後ろで、眉根をよせた瑚灯が立っていた。
茉莉花をじろりと睨んでから「そこから動くな、一歩も」と告げる。それから、くるりと少年に向き直ると、嘲る響きを込めた嫌みを吐いた。
「ご自慢の力はどうした。あっけなく離す失態をおかすなんて」
「あっはは、ごめんねぇ。急だったから驚いちゃったぁ」
「そうかい。今度はしっかり握ってろよ。手を失いたくねぇだろう?」
「やだなぁ、こぉんなにかわいい男の子に物騒じゃなぁい?」
「犯人を逃がすような手、いらねぇだろ。ましてや俺の妹分を傷つけるような悪い手は」
少年は無邪気に縄を掴み、今度こそ引きずっていく。
死にかけの大男の騒ぎなど気にしてもいない。
「はなをくれ、たのむよぉ、はな、を」
大男は最後まで茉莉花に懇願した。
何故、茉莉花に、と問いただす雰囲気は、少年が潰してしまった。
こちらを見向きもせず、少年はすれ違うハナメに愛想よく手を振りながら、出ていった。
血の塊だけが喧騒の跡として落ちていたが、それも同じ下働きの男が掃除して消してしまう。
だがしこりのように何かが茉莉花の中に残り、不快感が体を支配する。男の謎が泥のように心を侵食して、黒がじわじわと広がる。
(大男さまは何を勘違いしていたのか。誰と間違えたんだ。花とは、何だ)
花と言っても茉莉花に覚えがない。
三ヶ月で茉莉花の行動範囲は花街と市場のみだ。
(まさか、本当に、記憶がなくなる前の知り合い?)
確かめようにも本人はいない。
少年を追いかけても、あの錯乱状態では、まともな答えは望めない――。
「茉莉花」
「はい」
呼ばれて顔を上げれば、軽く額を突かれた。瑚灯の苦笑に、謝ろうとした口を閉ざした。
お前は悪くない。そう言われるに決まっている。
茉莉花はそれを受け入れられない。会話は堂々巡りするのが容易に想像が出来た。不毛な行為は飲み込む。
どうにか話題を変えるため、思考を巡らせる。そして脈略もないが、船頭役をやってくれた彼の伝言を思い出した。
「そういえば報酬に怒ってました」
「あ?」
「ええっと、こういう報酬のやり方は、汚いし不愉快だ。見透かすな……的な感じ」
だったはず。
あまり記憶力がない茉莉花は、正しく覚えていない。
ただ、細部は異なっても意味はあっている、はず。
瑚灯は数回、まばたきして、ふ、と吹き出して豪快に笑い出した。涙目になるほど面白かったらしい。
いつもの店用の笑顔ではない、滅多に出さない素の姿だ。
「そうかそうか。アイツ、そんな勘違いしてんのか」
「え、勘違い?」
「はは、いやなに。おそらくお前に持たせて渡したのが報酬、と捉えたんだろうな」
説明されても、よくわからない。
「まぁ飴玉を食べるときに気付くだろうさ。報酬は包装紙の方だって……あいつが欲しがっていた情報を書いてあるんだよ」
(なるほど)
飴玉ではなく情報がメインだったわけか。
「そのまま捨てたら困りませんか?」
「捨てないさ、お前が持っていったんだからな」
納得したのに何処か腑に落ちない。思考を巡らせて答えを探したが、結局辿り着けなくて首を傾げた。
「茉莉花」
「はい」
呼ばれてすぐさま返事をする。
瑚灯と向かい合えば、何処か安心したように眉を下げて茉莉花の無事を確認した。が。
一瞬、妙な間が生まれた。何かを注視して、ぎしりとかたまる。彼の瞳から、いつもの余裕が消えたような気がした。
だがそれを周りに悟らせる前に、笑みで覆い隠して、ふ、と息を吐き出す。
二秒もなく普段と変わらぬ様子に戻って、口を開いた。
「怪我してんな」
「え……あぁそういえば」
二の腕あたり、桜色の着物が切られて赤色の一筋が走っている。掠った程度だから傷でもない、と眺めていれば瑚灯が肩を竦めて、優しく手を繋ぐと二階へ上がる。
そうか、と茉莉花は先程の瑚灯が凝視していたのが何か、思い当たる。傷だ、赤い血を見て、彼は様子を変えた。
(瑚灯さまは、人が傷付くのが嫌いだから)
嫌悪していると言ってもいいほど、人への怪我などに敏感で過保護気味だ。何故、そこまで嫌がるのかはわからないが、過去、何かしらあったのかもしれない。
そんなことを、つらつらと考えているといつの間にか辿り着いた彼の自室へと入った。
(いつ見ても、殺風景だな)
布団やらは押し入れに片付けられているのだろうが、他は本棚と文机程度だ。
書類に必要な筆や墨はあっても嗜好品はない。
煙管も扇子などの小物、服も全て彼を形作る衣だと誰かが教えてくれた。瑚灯は花街らしい、華やかな装いをしているだけで、彼自身の好みではないと。
雰囲気作り、いわば仕事着らしい。
なら彼の好きなものは、何か。
ここにあるのだろうか。
茉莉花には区別はつかなかった。
「ほら、手を出しな」
押し入れから座布団を二枚取り出し、向かい合わせに敷いて誘導する。
二人で腰を下ろすと、慣れた手つきで彼が傷の手当を始めた。用意されていた救急箱は、使い込まれている。
テキパキと施されていく消毒、ガーゼなどを眺めながら、ふとよみがえたのは、アネモネ。紫と青。
花言葉は確か。
「あなたを信じて待つ」
そして青は――固い誓い。
記憶はないのに、自然と浮かんだ花言葉。
記憶があった私は花が好きだったのだろうか。
ならば、今と変わらない。茉莉花は、花が特別好きだ。
ふと、はかない恋という花言葉も思い出してしまい、彼らの未来と関係を想像しようとして、やめる。
詮索は無用、ただ祈るだけだ。どうか二人で帰れますように、茉莉花の出来ることはそれぐらいだ。
ガーゼを貼って、くるくる包帯を巻く。
大袈裟だなと思うのに止める気は起きない。優しい手つきが、温かな体温が愛おしくて手放したくなくて、ずっと続いてほしくて。されるがままになる。
呼吸がしやすい静寂。
茉莉花が丸型の窓へ視線をうつせば、星と月が輝く夜空。下には変わらぬ、賑わう花街があった。
人と、あやかしが言葉を交わして祭りを楽しむように騒いでいる。
三ヶ月で慣れた、今では愛しい町を見つめながら、心に残り続けた不安を吐露した。
「帰れたでしょうか」
瑚灯は淡々と主語を聞かないまま答える。
「帰れただろうさ」
断言。瑚灯が言うならそうなのだろう。
「怒られませんかね」
わざと大事な部分はぼかした会話。
戯れに、瑚灯も同じようにくすぐるような、悪戯めいた含みを込めて返してくれる。
「さてなんのことかね、俺達はなぁんにも知らない」
きゅ、と包帯を結んでから手袋の上から手のひらをなぞった。
そこにあるのは古い傷跡だ。
茉莉花が見たくないと拳を作ったままでいると、瑚灯がならばと隠す手袋をくれた。
如何なるときも外さないのを、瑚灯は何も言わず受け入れて、理由すらも追求しない。
優しい、あやかし。
愛しい恩人は、小さく微笑む。
いつもとは違う、春の日差しのような笑みだ。
「人間に致死量には至らない毒を食わせて、苦しむ姿を見て楽しむ変態を捕まえた。その間に女は消えちまった、それだけだろう? 俺達はずぅっと、《《二人で、ここにいた》》んだから、怒られるいわれはないわな」
「……そうですね」
瑚灯が根っからの正義ではないのは知っている。
だが彼の中には、彼の譲れぬものがあって、彼の正義がある。それが何かはわからない。
それでも茉莉花にとってじゅうぶんだ。
――その正義に、茉莉花は救われたのだから。
(だからこそ、私は恩を返す。そして、お母さんの元に帰るんだ)
何度も繰り返した決意を、また心の中で呟いた。
そうすれば記憶のない自分を奮い立たせられる。
脳裏によぎる母の笑顔に、声に、何かが呼び起こされていく。
(そうだ、確かあのとき。おかあさんと花を、アネモネや色んな花を見て、花言葉を――くれて、それで、花が)
花、が?
『――思い出すな。忘れちまえ』
冷水をかける声が、一瞬にして茉莉花の自由を奪った。
ぎ、と心臓が物理的に締められる痛みが走る。
息がつまってあえぐが、酸素が取り込めない。
冷や汗があふれた。額から流れ畳の上に、ぽたりと落ちる。手のひらの傷が、熱した熱を握ったかのような激痛に襲われた。
「――? っ――? ――ッ、!」
何かを、言っているの。
聞きたいのに、こえが、じゃまをする。
『忘れろ。何もかも。いらねぇのは全部、花が散るごとく、消し去れ』
ぐにゃりと歪みのがわかる。
視界だけではない、体が、全部。
貰ったものがこぼれていく。
また、あの《《雨の日》》に戻ってしまう。
だめ。いやだ。お願い、お願いだから。
(呼んで)
『死にたくないならぜんぶ忘れて、死にながら生き続けろ』
「――――茉莉花ッッ!」
望んだ声が全身を貫いた。
あぁ、良かった。
真っ暗な視界に引きずられるように意識が遠のく。
倒れたはずなのに、衝撃はなかった。
裏口から入ってすぐに、大きな物音に気がつく。
騒がしさは、決して楽しいのではなく争いだと判断できるほど、緊迫した空気、悲鳴や物が壊れる音がまじっている。
(大男さまの関係かな)
狐火は消えて、一人廊下を進めば。
「――俺は嵌められたんだ!」
大男が厨房から転び出たところであった。
悲鳴に近い訴えへ答えるように、ひょいっと少年が現れた。百九十ある瑚灯と同じ長さの棒を、片手で軽々ともち上げている。
桃色の髪の少年は、まるで猫のような笑みで獲物をいたぶるように大男へと近づく。
少年には見覚えがあった。関わり合いはないが、確か警察みたいなものだと瑚灯が言っていた。
桃色の少年は愛らしくこてん、と小首をかしげる。
緑色の瞳が美しい桜を連想させたが、儚さとは無縁なのは一目見てわかる。
(捕食者だ)
絶対人生で関わっていけないタイプと察する。
追い詰めるのが楽しくて仕方ない、と顔に書いてあるのだ。隠す気がない加虐性に、ぞくりと寒気がする。
(表情が豊かで羨ましい)
大男が情けなく暴れるのをいとも簡単に捕縛する。
縄で後ろ手に縛るのは慣れていて、当然なのかもしれないが、どうも不気味だ。
ふと傍で眺める瑚灯と少年の目が合う。
艶やかな笑みと、にんまり顔の対峙。
先に口を開いたのは少年だ。
「花街で事件なんて珍しいね、瑚灯さま? 今まで些細な問題さえ受け入れたりしなかったのに。初めてだよね、こんなの」
「たまには起きるだろうよ。俺は万能じゃあないんでね」
「自ら招いたように見えたけど?」
「気の所為だなぁ。俺は、そこまで要領良くない」
「あは。そーかな? 人間を虐げられるのが耐えられなくて、花街に誘導して自分の管轄に入れて手を出しやすいようにしたんじゃないの? ねぇ」
――あやかし嫌いの、あやかしさん?
下から覗き込むように見つめてくる少年に、瑚灯さまは目を細めて赤い唇で笑みを象る。
はらりと肩からこぼれた烏の濡れ羽色の髪をつまみ、耳にかけた。
「お前も、存外人間に優しいなぁ? あやかし、妖怪――俺等の呼び名を人間たちに合わせるなんて」
「えぇー? だってそうでもなきゃ、人間たちは納得しないんだもん。人間ってボクたちのことを、妖怪とか、あやかしって呼ぶって聞いたからね。ボクは呼び名に興味ないけど」
「はっ。随分と冗談がお上手じゃねぇか」
ばちりと火花が散る。茉莉花は、
(くわばら)
と、手を合わせて壁に張り付く。
騒動が過ぎるまで存在を消しておこう。
「瑚灯さまは、人間にも《《あやかし憑き》》にも優しいのに。何であやかしには厳しいんだろうね?」
「さてな。お前の胸に手を当てて聞いてみたらどうだ?」
「ボクは人畜無害のあやかしだよ」
ね、と少年が大男に同意を求めたが、彼は正気ではない。
ぶつぶつと何事か呟いて、ここではない何処かを見ている。
「おれは、言われたんだ、ここでってころせって、それをあいつら、俺をはめるために、自分たちが安全になるようにおとりにしやがった、そもそも買う気なんかなかったんだおかしいとおもったんだ、ことうをねらえなんて、あと買い取るように手配するまでするわけねぇ、だけどそれでもおれはほしくて」
「ありゃりゃ、聞いてなーい」
仕方ないと少年は繋いだ縄をぐいっと引っ張る。
細腕では想像できない力があったのか、大男はどたんと倒れ込み引きずられた。
ずりずりと去っていくのを、瑚灯は一言も発さず眺め続けた。
大男が唸りを上げて、最後に捨て台詞のように叫ぶ。
「人間をどう扱おうが関係ないだろ!」
「はいはい。えーと営業妨害、傷害? なんだっけ。どーでもいいか。ええっと、ハナメへのおさわり、まぁとりあえず余罪ありまくり犯罪で、ちょーと罰受けようねー」
きゃっきゃっ、とはしゃぐ少年に恐怖を覚える。
まるで子供が友達とごっこ遊びしているかのよう。
少年の見た目も小学低学年ぐらいで、より一層お遊びのように見えて、恐怖を覚える。
「ち、な、み、にー? 女はどこ行ったの? あれにも営業妨害? えーと、名誉侵害、いや違うか、名誉毀損だっけ? そういうので捕まえたいんだけど」
少年の疑問に、固まった。
女性まで罪に問われてしまう。それだけは――。
「――知らねぇなぁ」
すとん、と声が落ちる。
堂々たる迷いない断言に、立ち振る舞い方。
扇子を広げて、口元を隠す。
髪をゆらして、小首を傾げる姿は品がありながらも、女性らしい婀娜っぽさも、にじみ出る。紫水晶の瞳が笑い、人を惑わす色香が漂う。
「俺と茉莉花が話し合いしてる間に、いつの間にか消えちまったよ」
「……へぇー、そう。ま、いっか」
少年がにっこり微笑む。瑚灯の艶笑が返される。
二人の冷戦は数秒で終わり、ふいっと少年は飽きたように大男を片手で引きずっていく。
だが、その一瞬だった。
大男が雄叫びを上げた。
断末魔にも似たそれは空気をびりびりと震わせて、全員が硬直する。
瑚灯が舌打ちをしたのと同時だ。
大男が地を蹴り、一気に駆け出す。突進先にいるのは。
「てめぇだ、てめぇのせいだ!」
茉莉花に激しい憎悪、殺意を惜しみなくぶつけてくる。
縛られたまま距離を詰める。獣のごとく牙を剥き出し、唾液を垂らしながら叫び続けた。
正気が完全に失せた焦点が定まらない瞳に、違和感を覚える。
「てめぇがいたからこうなった、しっている、おれはしっているんだ、そうだ、うってくれ、はなを、はなをくれ」
「なにを」
花。
彼の言っていることの半分も理解出来ない。
誰かと間違えているのか、と訴える前に牙が鋭く光り、首筋を捉える。
「てめぇはこのまえいつでもこいって言ったろ、なぁくれよ、ねがいをかなえてくれよ、うってくれよ、なあ」
ヨコセ。
牙が突き立てられる、その寸前。
「――ぎゃああああぁぁ!」
「っ」
悲鳴が飛び出した、男の口から鮮烈な朱が咲き乱れる。
グロテスクに、されど美しい花々は男の鮮血を栄養に次々と咲いて口からこぼれていく。
がしゃんと、おおよそ花が落ちた音ではない。ぬらぬらと血で濡れて、ぎらりと凶悪な輝きをもつ花びらは、全て刃のごとく鋭く、勝手に刃先が男へ照準が合わされる。
「で、めぇ、《《あ゙やがじ憑ぎ》》、がァッ⁉」
凄惨な光景にはっとする。
《《あやかし憑き》》――原因に思い当たって、茉莉花は慌てて頭の中で語りかけた。
(やめて、やりすぎ)
『何でだよ』
問いへの返答に抑揚はない。
誰かを傷つけているのを何とも思っていない声に、ゾッする。
爪先から頭まで冷気に覆われたような感覚を振り払うように、己を鼓舞する。
止めなければ命を奪うだろう、きっと花を手折るように簡単に、淡々と。
内の声に首を振って、否定する。
(私は望んでいない)
それに、と続ける。
内の声の彼は、滅多に攻撃をしないのだ。このような攻撃も初めて見た。
いつもなら黙っているのに、今回は何故手出ししたのか。
何か知られて困るのがあるのか。
もしかして、それが大男の話に繋がるのか。
問いを重ねれば、少しの間を空けて。
重苦しい、蔑みを含む声音で冷たく囁いた。
『――お前は、いつもそうだな』
それを直さなきゃあ、本気で死ぬぞ。
意味不明な言葉を最後に、ふっと刃の花は消える。
大男も金縛りが溶けたように、その場にうずくまって咳き込んだ。
びしゃりと血の塊を吐くのを茉莉花は、思わず背をさすろうと近づこうとした、が。
「ぐるなぁッ! バケモンがァ」
「お前がな」
ごつん、と容赦なく大男の脳天に拳を落とした。ひぎ、とのた打ち回る大男の後ろで、眉根をよせた瑚灯が立っていた。
茉莉花をじろりと睨んでから「そこから動くな、一歩も」と告げる。それから、くるりと少年に向き直ると、嘲る響きを込めた嫌みを吐いた。
「ご自慢の力はどうした。あっけなく離す失態をおかすなんて」
「あっはは、ごめんねぇ。急だったから驚いちゃったぁ」
「そうかい。今度はしっかり握ってろよ。手を失いたくねぇだろう?」
「やだなぁ、こぉんなにかわいい男の子に物騒じゃなぁい?」
「犯人を逃がすような手、いらねぇだろ。ましてや俺の妹分を傷つけるような悪い手は」
少年は無邪気に縄を掴み、今度こそ引きずっていく。
死にかけの大男の騒ぎなど気にしてもいない。
「はなをくれ、たのむよぉ、はな、を」
大男は最後まで茉莉花に懇願した。
何故、茉莉花に、と問いただす雰囲気は、少年が潰してしまった。
こちらを見向きもせず、少年はすれ違うハナメに愛想よく手を振りながら、出ていった。
血の塊だけが喧騒の跡として落ちていたが、それも同じ下働きの男が掃除して消してしまう。
だがしこりのように何かが茉莉花の中に残り、不快感が体を支配する。男の謎が泥のように心を侵食して、黒がじわじわと広がる。
(大男さまは何を勘違いしていたのか。誰と間違えたんだ。花とは、何だ)
花と言っても茉莉花に覚えがない。
三ヶ月で茉莉花の行動範囲は花街と市場のみだ。
(まさか、本当に、記憶がなくなる前の知り合い?)
確かめようにも本人はいない。
少年を追いかけても、あの錯乱状態では、まともな答えは望めない――。
「茉莉花」
「はい」
呼ばれて顔を上げれば、軽く額を突かれた。瑚灯の苦笑に、謝ろうとした口を閉ざした。
お前は悪くない。そう言われるに決まっている。
茉莉花はそれを受け入れられない。会話は堂々巡りするのが容易に想像が出来た。不毛な行為は飲み込む。
どうにか話題を変えるため、思考を巡らせる。そして脈略もないが、船頭役をやってくれた彼の伝言を思い出した。
「そういえば報酬に怒ってました」
「あ?」
「ええっと、こういう報酬のやり方は、汚いし不愉快だ。見透かすな……的な感じ」
だったはず。
あまり記憶力がない茉莉花は、正しく覚えていない。
ただ、細部は異なっても意味はあっている、はず。
瑚灯は数回、まばたきして、ふ、と吹き出して豪快に笑い出した。涙目になるほど面白かったらしい。
いつもの店用の笑顔ではない、滅多に出さない素の姿だ。
「そうかそうか。アイツ、そんな勘違いしてんのか」
「え、勘違い?」
「はは、いやなに。おそらくお前に持たせて渡したのが報酬、と捉えたんだろうな」
説明されても、よくわからない。
「まぁ飴玉を食べるときに気付くだろうさ。報酬は包装紙の方だって……あいつが欲しがっていた情報を書いてあるんだよ」
(なるほど)
飴玉ではなく情報がメインだったわけか。
「そのまま捨てたら困りませんか?」
「捨てないさ、お前が持っていったんだからな」
納得したのに何処か腑に落ちない。思考を巡らせて答えを探したが、結局辿り着けなくて首を傾げた。
「茉莉花」
「はい」
呼ばれてすぐさま返事をする。
瑚灯と向かい合えば、何処か安心したように眉を下げて茉莉花の無事を確認した。が。
一瞬、妙な間が生まれた。何かを注視して、ぎしりとかたまる。彼の瞳から、いつもの余裕が消えたような気がした。
だがそれを周りに悟らせる前に、笑みで覆い隠して、ふ、と息を吐き出す。
二秒もなく普段と変わらぬ様子に戻って、口を開いた。
「怪我してんな」
「え……あぁそういえば」
二の腕あたり、桜色の着物が切られて赤色の一筋が走っている。掠った程度だから傷でもない、と眺めていれば瑚灯が肩を竦めて、優しく手を繋ぐと二階へ上がる。
そうか、と茉莉花は先程の瑚灯が凝視していたのが何か、思い当たる。傷だ、赤い血を見て、彼は様子を変えた。
(瑚灯さまは、人が傷付くのが嫌いだから)
嫌悪していると言ってもいいほど、人への怪我などに敏感で過保護気味だ。何故、そこまで嫌がるのかはわからないが、過去、何かしらあったのかもしれない。
そんなことを、つらつらと考えているといつの間にか辿り着いた彼の自室へと入った。
(いつ見ても、殺風景だな)
布団やらは押し入れに片付けられているのだろうが、他は本棚と文机程度だ。
書類に必要な筆や墨はあっても嗜好品はない。
煙管も扇子などの小物、服も全て彼を形作る衣だと誰かが教えてくれた。瑚灯は花街らしい、華やかな装いをしているだけで、彼自身の好みではないと。
雰囲気作り、いわば仕事着らしい。
なら彼の好きなものは、何か。
ここにあるのだろうか。
茉莉花には区別はつかなかった。
「ほら、手を出しな」
押し入れから座布団を二枚取り出し、向かい合わせに敷いて誘導する。
二人で腰を下ろすと、慣れた手つきで彼が傷の手当を始めた。用意されていた救急箱は、使い込まれている。
テキパキと施されていく消毒、ガーゼなどを眺めながら、ふとよみがえたのは、アネモネ。紫と青。
花言葉は確か。
「あなたを信じて待つ」
そして青は――固い誓い。
記憶はないのに、自然と浮かんだ花言葉。
記憶があった私は花が好きだったのだろうか。
ならば、今と変わらない。茉莉花は、花が特別好きだ。
ふと、はかない恋という花言葉も思い出してしまい、彼らの未来と関係を想像しようとして、やめる。
詮索は無用、ただ祈るだけだ。どうか二人で帰れますように、茉莉花の出来ることはそれぐらいだ。
ガーゼを貼って、くるくる包帯を巻く。
大袈裟だなと思うのに止める気は起きない。優しい手つきが、温かな体温が愛おしくて手放したくなくて、ずっと続いてほしくて。されるがままになる。
呼吸がしやすい静寂。
茉莉花が丸型の窓へ視線をうつせば、星と月が輝く夜空。下には変わらぬ、賑わう花街があった。
人と、あやかしが言葉を交わして祭りを楽しむように騒いでいる。
三ヶ月で慣れた、今では愛しい町を見つめながら、心に残り続けた不安を吐露した。
「帰れたでしょうか」
瑚灯は淡々と主語を聞かないまま答える。
「帰れただろうさ」
断言。瑚灯が言うならそうなのだろう。
「怒られませんかね」
わざと大事な部分はぼかした会話。
戯れに、瑚灯も同じようにくすぐるような、悪戯めいた含みを込めて返してくれる。
「さてなんのことかね、俺達はなぁんにも知らない」
きゅ、と包帯を結んでから手袋の上から手のひらをなぞった。
そこにあるのは古い傷跡だ。
茉莉花が見たくないと拳を作ったままでいると、瑚灯がならばと隠す手袋をくれた。
如何なるときも外さないのを、瑚灯は何も言わず受け入れて、理由すらも追求しない。
優しい、あやかし。
愛しい恩人は、小さく微笑む。
いつもとは違う、春の日差しのような笑みだ。
「人間に致死量には至らない毒を食わせて、苦しむ姿を見て楽しむ変態を捕まえた。その間に女は消えちまった、それだけだろう? 俺達はずぅっと、《《二人で、ここにいた》》んだから、怒られるいわれはないわな」
「……そうですね」
瑚灯が根っからの正義ではないのは知っている。
だが彼の中には、彼の譲れぬものがあって、彼の正義がある。それが何かはわからない。
それでも茉莉花にとってじゅうぶんだ。
――その正義に、茉莉花は救われたのだから。
(だからこそ、私は恩を返す。そして、お母さんの元に帰るんだ)
何度も繰り返した決意を、また心の中で呟いた。
そうすれば記憶のない自分を奮い立たせられる。
脳裏によぎる母の笑顔に、声に、何かが呼び起こされていく。
(そうだ、確かあのとき。おかあさんと花を、アネモネや色んな花を見て、花言葉を――くれて、それで、花が)
花、が?
『――思い出すな。忘れちまえ』
冷水をかける声が、一瞬にして茉莉花の自由を奪った。
ぎ、と心臓が物理的に締められる痛みが走る。
息がつまってあえぐが、酸素が取り込めない。
冷や汗があふれた。額から流れ畳の上に、ぽたりと落ちる。手のひらの傷が、熱した熱を握ったかのような激痛に襲われた。
「――? っ――? ――ッ、!」
何かを、言っているの。
聞きたいのに、こえが、じゃまをする。
『忘れろ。何もかも。いらねぇのは全部、花が散るごとく、消し去れ』
ぐにゃりと歪みのがわかる。
視界だけではない、体が、全部。
貰ったものがこぼれていく。
また、あの《《雨の日》》に戻ってしまう。
だめ。いやだ。お願い、お願いだから。
(呼んで)
『死にたくないならぜんぶ忘れて、死にながら生き続けろ』
「――――茉莉花ッッ!」
望んだ声が全身を貫いた。
あぁ、良かった。
真っ暗な視界に引きずられるように意識が遠のく。
倒れたはずなのに、衝撃はなかった。