「お待ちしておりました」

 裏口で待つこと数分。
 がちゃん、と鍵を壊す音と共にひっそりと現れた人影に、極力おびえさせないように声をかけた。

 だがあまり意味はなかったらしい、相手は引きつった悲鳴をこぼし、その場に尻餅をついてしまった。

(しまった。私ではあまりに無愛想だから、安心させられない)

 認めたくないが、己の顔が死んでいるのは事実。
 こういう対人が得意なのは瑚灯や、ハナメなのだ。
 自ら名乗り出て何だが、キャスティングミスってやつかもしれない。

(こうなったら直球に)

「助けに来ました。あなたを逃がします」
「え……」

 彼岸花のような狐火が、照らす。
 そこにいたのは、当然。

「何故、わたしが、ここにいるって、知っているんですか」

 ――団子を食べて倒れた、女性である。

 月明かりのせいではない、蒼白(そうはく)な女性に背を向けて「ついてきてください」と告げる。

 彼女は警戒したようだが、逃がす、という発言におずおずと後ろから気配が追ってくるのが分かった。

 静かな空間に女性はやはり、か細い声で再度「どうして」と訊ねる。
 逃げ道は遠い、会話を続けた方が安心させられるだろうか。茉莉花は悩んだ末に口を開いた。

「私はあまり頭がよくありません。ですので、単なる勘違いの可能性もあります。それでも聞きますか」
「……お願いします」
「そうですか。では、まず初めから。おかしいと思ったのは」

 推理にもならないお粗末(そまつ)な考えを、茉莉花はつらつらと語り始めた。

「来店時。大男さまと貴女さまの関係です。恋人とは明らかに違い、主従関係……いいえ隷属(れいぞく)、服従でしょうか」

 アレ、だの、手首を引っ張る動作など。
 愛など感じない扱いに、女性のやつれ具合。

「そして腕の痣、あれは縛られた跡ですね?」
「……はい」

 お手洗いのときに覗いた、腕の赤黒い痣。
 あんなもの普通はつかないだろう。

「それに加えて、彼岸花の団子を貴女の好物だと大男さまは伝えました。そして死なない程度で、苦しむ毒を入れるように指示しました。貴女は聞いていたのに反論すらしない。それは慣れている、と考えられます」

 想像ではあるが、毒に反応しなかった。気力すら(うば)われていたようだった。死人のように諦めて受け入れている。

 それらをまとめると、一つだけ浮かぶのは。

「貴女は、日常的に虐待(ぎゃくたい)を受けている」

 沈黙は正解、らしい。女性からすすり泣きが聞こえてきた。

 思わず黒い手袋に包んだ己の手を、彼女へと向ける。
 遠慮がちに触れれば、それを優しく握り返してくれる。(みちび)くように連れて行く、

 泣き顔を見られたくないのだろうから振り返りはしなかった。

「毎日、どくを、たべさせられました」

 抑揚ない声だ。
 死んでいる、と茉莉花は思った。

「まいにち、まいにち。どくを、口に押し込められ、吐いて苦しむ姿を楽しげに見つめて。縛られて丸一日放置されて」

 人権、などほど遠い。それ以下、家畜ではない、命だと思っていない。むごい日々だった、と引き()った(わら)いをこぼす。

 何故か聞き覚えがある嗤いだった。

 嗤うしかないから。
 そうしかないから、勝手に顔が動くのだろうな。と想像が出来てしまう。

「……ここで身売りされると聞いたとき、救われたと思いました」
「何故ですか」
「ことうさま、というあやかしは少なくとも優しそうでした。あなたも、ハナメと呼ばれる方も、アレよりずっと、ずっと」
「身売りでもですか」
「あ、は。あはははッ、今よりマシですもの」

 壊れていく彼女に唇をかみしめて、何とか崩れていく彼女を押しとどめるように口を挟んだ。

「大男さまは、ご機嫌でしたね。貴女の好物……実際は違うでしょうが。それを高級店で食べようとする程度には」
「彼岸花の団子は、アレの好物ですよ。毒団子を好んでいるのです」

(最悪だな)

 嘘だろうと思っていたが、大男の醜悪(しゅうあく)さが露見(ろけん)して暴言(ぼうげん)を吐きつけたくなる。

 目の前にいないのが惜しい。

「初めて入る高い店に、食べに来た理由は祝いでしたね」

 真実は見えている。
 もうピースは集まっている。だから口に出すだけだ、というのに。息苦しい。

「大男は花街に来たことがないとおっしゃってましたね。この町で花街に入ったことがないのは大変珍しいのですよ」

 何せ花街は、この町で一番安全な場所かつ数少ない遊び場だから。

 瑚灯は花街全体を守る役割を担っている。
 警察のようなものだと。花街のあやかしも人間も全員、瑚灯を知り、敬っている。

 理由は目上の人間だからというだけではない。
 彼の功績(こうせき)――花街では瑚灯の目があるから、他の場所より犯罪行為がはびこらないのだ。

 広い場所なのに瑚灯は、全てを見通して未然に防ぐ。
 偉業(いぎょう)をこなしているから皆が尊敬(そんけい)している。

 そして町の人は、安全で遊べる、
 何よりあやかしと人間が、気兼ねなく遊べる花街が大好きで、ほとんどのあやかしと人間はやってくる。

 逆を言えば、犯罪者からすれば花街は生きにくい場所で、犯罪者だけが避けている。

 それだけで犯罪者とは決めつけられないが、女性への扱いを含めれば明らかだ。

「来た理由は、勧められたそうですが」

 リスクを負ってまで来た問題は、今頃瑚灯が解決しているだろう。

 茉莉花は女性の安否だけを気にしていればいい。

「貴女の境遇(きょうぐう)、祝い、奴隷扱いしているわりに、豪華な服装、花街を遠ざけていた事実から見えてくるのは」


 近頃、人攫いが起きている。


 瑚灯が守る花街ではありえないので、茉莉花には実感はない。が、おそらく。

「あなたは――売られる身であった」

 花街ではなく、別の場所に。


 アレが駄目になったら。弁償。


 大男の発言に苦いものがこみ上げた。
 反吐が出るクズ野郎だ。

「……ふふ、確かに、あなたに探偵役は務まりませんね」
「そうでしょう。私でも向いてないのは理解してるのですが」

 茉莉花は現状と勘で、仮説をたててしまう。なので証拠などの裏付けが下手で、間違う可能性がある。勘に頼るようなやつに、推理など向いていない。

 そういうのは瑚灯の方が得意だが、何故か率先と動いてくれない。こちらに任せる癖があるのだ。

 彼の思惑ほど読めないものはない。茉莉花は頭をふって切り替える。今は事件だ。

「だから、逃げようと試みた。売られないように――毒に倒れたふりをして」
「はい」

 存外素直な返事だ。
 隠し事など無意味だと悟ったか、それとも。

「貴女は団子を噛んで、食べずにすぐさま吐いた。毒が効いて倒れて、隙をついて逃げる、それが貴女の作戦でしたのでしょうが……少々失敗があります」
「なんでしょうか」
「貴女の団子には、毒は入れてません」
「え」

 酷く驚いた声だ。
 動揺に揺れる音に、茉莉花は続けた。

「貴女の立場は、私だけでなく瑚灯さまも、他の従業員も察しておりました。毒を好んでいるとは思えない。そもそも人間には毒は提供しないのが狐花の決まりですから」

 そう、どんな状況でも人間に毒を与える注文が来たとしても、店員は毎度《《うっかり》》して、毒を抜くようにしてある。当然気づかれる場合もあるが、その場合は瑚灯が責任を持つ。

「そ、うだったんですね」
「だから食べても、吐いても。倒れた時点でおかしいんです」

 すぐに気づかれるだろう。
 女性が嘘をついたか、店が疑われて不手際と責められるか。どちらにせよ。

「瑚灯さまなら、気にもとめないだろうけれど」

 あの、優しいあやかしならば。彼女が逃げられるなら、喜んで汚名をかぶるだろう。

 瑚灯の余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)たる態度を思い出して、茉莉花は目の前で揺らめき、咲く狐火を追い続けた。

 静かな数秒が経ってから、女性はぽつりぽつりと最悪の日々を語り出した。
 そうでもしないと、耐えられないと言わんばかりに、口からこぼしていく。

「真相は、それだけです。私は、あの男に攫われて、この町に来ました。毒を食わされ、縛られ、(けが)され、口にもできぬような扱い、人権などなく尊厳(そんげん)も全て壊されて、飼い殺しにされ、死にたい毎日でした。帰りたくて仕方ないのに何も出来ない。運良く逃げても、化け物がいる町をうろつく恐怖には勝てなかった、何処に行けばいいか分からない。八方ふさがりで」

 しかし、売られると知った。
 それも狐花ではない。
 どこかもっと、きっと恐ろしいどこかに。

「だから、賭けた。逃げ道なんて、見当もつかないのに」

 しばしの沈黙に、彼女が深呼吸をした。それから決心を固めた声音で、茉莉花に問うた。

「あなたは、何処までご存じですか」


 ――急速に周りの温度が低くなる。選択を間違えれば。


「しりましたか」

 重ねられた問い。

 逡巡(しゅんじゅん)のうち、茉莉花は慎重に言葉を選ぶ。
 嘘をつくわけにいかない。

「しりましたか」

 どろりと繋いだ手が急速に溶けていく感覚。焦りが生まれても、決して声に出してはならない。

 どうせ感情表現が死んでいるのだ、今回は恵まれていると思いたい。

 狐火が膨れて、ごうと燃え上がる。危険を知らせるように、後ろにいる女性を威嚇する。

「知っています」

 それから間を置かず。

「貴女は、私を殺すつもりですね」 茉莉花の答えに、女性の薄ら笑いが聞こえた。明確な殺意が襲う寸前。

「殺すと後悔するのは、貴女ですが」

 縄が首に掛かり締め上げようとした力がぴたりと止まる。

 戸惑っているのに気づき、その隙に今の行為の無意味さを彼女に教える、できる限り優しい声音を心がけて。

「あなたの懐にある懐剣。いくら飾り立てて、奴隷を高く売ろうとしていたのだとしても刃物は用意しないはずです」

 人間である彼女が、自害したら。
 大男に刀を握って勝てるかどうか不明だが、襲いかかったら。
 様々な要因になるのをわざわざ渡すのは不自然だ。
 それでも持たせた理由があるはずだ。

「取り引きをしたのではありませんか」
「誰と」
「大男さまと。そうですね、想像ですが――貴女が今一番求めるもの、奴隷からの解放と引き換えに」

 茉莉花は、黙っていようとしていた真相へと歩を進めた。

「本当は、大男さまと共謀関係があった。そうですね」
「……それは」
「大男さまもおかしい部分があります。彼岸花の毒で、一口食べて咀嚼する暇もなく倒れた貴女を不自然に思わないわけがない」

 そうだ。あの時点では、まだ二人は繋がりがあったはず。

「ひとつ、気になっているのは大男さまの発言です」 

 大男は言っていた、瑚灯が、狐花にいるのを驚いていたなかった。
 花街に来たことがなくとも、この時間帯に来るのを知っていた。

 誰の入れ知恵か、少なくとも悪意だろう。

 何故瑚灯の来る時間を把握したのか。  
 瑚灯は犯罪者を見逃さない男だ、瑚灯の目から逃げるためならば避けるはずだし来店しない。
 わざわざ来たのは。目的は。

「倒れた貴女に会いに来るはずの男、瑚灯さまを殺すつもりですね」

 大男は、店主が彼女に謝るように仕向けていた。
 もちろん食中毒で倒れたなら店主である瑚灯が様子を見に行くだろう。それを狙っていた。

 彼が狙われる理由は、たくさんある。

「瑚灯さまは、犯罪者にとって目障りな存在でしょうから」

 瑚灯がいなければ、花街も、もっと治安の悪い場所になっていただろう。
 それほどまでに瑚灯の存在は大きいのだと皆が口をそろえて言う。

 花街の利用価値など犯罪者からすれば、いくらでも思いつくはずだ。 
 
 花街が本来の意味で動かしたいと策謀する奴だっている。

「わたくしが、そんな大胆で恐ろしい犯罪に加担すると? 奴隷から解放なんて、嘘を見破れないと思いますか」

 やはり、気が付いていたのか。
 いや当然かもしれない、酷い目にあった相手を信用するなど出来ない。
 何より飾り立てられた時点で、気が付いたのか。

 彼女の発言に、茉莉花は目を伏せる。
 躊躇してしまう心を奮い立たせて、後戻りはできないと口を開いた。

「貴女の目的はそこではない。殺害に必要な凶器がほしかった」

 懐剣(かいけん)
 裏口の鍵を壊して、そのまま出てきた彼女の手に握られていたもの。

「あやかしをも殺せる、小刀」

 縄が食い込むのも無視して振り返った。

 女から縄の端がこぼれて、鞘から抜けた刀が月明かりで、妖しく輝いた。

「瑚灯さまを殺すのを了承したのは、逆らえなかったのと同時に、大男さまを殺す機会が、刀が欲しかったのではないですか」

 大男を殺すつもりだった。
 店主を殺して、油断したところを大男も殺害する気だったのではないか。

「もちろん憶測です。ですが、服従関係で貴女が刀を持っている説明はそれぐらいしか思いつかない」
「っ、ならどうして今、わたくしが、あなたを殺そうとしていると」
「邪魔だから。信用できないから」

 逃がしてあげる、と言われて。
 あやかしと働く女を簡単に信用した時点で、不自然としか思えなかった。

「私も、逃がすという甘言で貴女をどこかに売ると疑っているのではありませんか」
「――ああ、いやだ。どうして、こうも上手くいかないのかしら。私が、なにをしたのかしら」

 ぽたりと青白い頬に一筋の涙がこぼれる。
 彼女の体がまるで《《泥のように崩れていく》》。

 それに茉莉花は、押しとどめるように手の力を強めた。《《ぐにゃりと粘土のように曲がる》》感触。

 急がなければ、彼女は――消える。

「どうして初めから言わなかったの」
「この真実は、語るべきではないからです。必要なかった。実現しなかったのですから」
「でも今は、あなたを殺そうとしている」
「それでも。瑚灯さま殺害、大男殺害するよりマシです」

 瑚灯が簡単に殺されるとは思わない。

  だが、もし、しでかしたら彼女は本気で逃げられなくなる。

  売られないが捕まってしまうのだ。
 瑚灯が言うにはそれは人間にとって、とても苦しいものなのだと教えてくれた。

 茉莉花の知る刑務所などとは程遠い無法地帯なのだと。

 危険な場所に彼女を収監されるのだけは避けたい。
 だからこそ瑚灯は、一芝居を打ったのだ。
 大男の演技にも、彼女の殺意にも全部。

 もし実現したら、計画していたと知られただけでも、危ういから。知らぬふりをしようと。

 頼むから逃げてくれ、と瑚灯と茉莉花は願いながら、彼女の部屋の前で話した。

 結果思い通りにいったが――予想以上に彼女が不安定だ。

 殺されかけるのは予測していたが、まさか自我が保てなくなるほどとは。

 《《どろどろと溶けていく》》様に、雨の日思い出す。
 己がそうだったと、寒くて終わるとさえ思えない、全てが消えていく感覚。死など生ぬるい、終焉。《《自我を保てないものの末路》》。

(それだけは、止めなきゃいけない) 

「貴女はどうしたいのですか。大男さまを殺したいですか」
「ええ」

 間髪(かんぱつ)なく頷く。
 だが、すぐに目をそらしてから「だけど逃げられるなら、それでも良かった。憎しみを抱いて我慢し続けた」と続けた。

「もしあなたに捕まらなかったら、このまま逃げていたわ。でも捕まったから、売られる前にあなたを殺して、戻って、アレを」
「落ち着いてください。私は貴女に危害は加えません」
「信じられると思っているの?」

 小刀が躊躇(ためら)いなく首筋に目掛けて迫る。
 思考より早く体が動いて、刀と首の間に手を滑り込ませて握った。

 これほど手袋の存在に助かったと思った日はないだろう。
 特別製なのか切れないらしく、ぎしぎしと力の攻防が始まった。

 自慢ではないが、茉莉花は力が弱い。
 長期戦では負け確定だ、そうそうに説得を成功させねばならない。

「疑心暗鬼になるでしょうが、信じてもらわないと困ります。このままだと貴女が消えてしまう」
「なら証明して、お願いよ。わたくしが逃げれるって」
「証明はできません。ですが、ひとつ、あるとすれば、わたしです」
「……あなた?」
「私は人間であり、人間の価値を理解できていない」

 人間売買の意味がわからない。
 あやかしのように力もない、臓器も花送町では無意味だ。使い道が思いつかないのだ。

 売る理由もない、自分は狐花で生活が出来ていて、特に不満もない。
 
 ……その言葉は無神経であり、口の奥に飲み込んだ。
 目の前で苦しんでいる人の前で、自分は幸せだ、というほど残酷なものはない。

「そ、れだけで信じられると思うの?」
「いえ、全く。けど、もうそれぐらいで。つらい現実といいますか」
「……じゃあ約束してほしいのだけど、アレを殺してくれないかしら、代わりに」
「犯罪はちょっと」
「緊張感、死んでいるの?」
「いや生きてます。今恐怖で震えています」
「顔、無表情だけれど」
「不思議ですよね」

 女は冷笑(れいしょう)諦念(ていねん)を浮かべる。

 その間にも《《人の形は失われていく》》。

「ひとつ、あなたが気付いてないのがあるわ」
「何でしょう」
「私が殺すように言いつけられたのは、店主だけじゃないのよ。あなたもよ」

(わたし?)

 瑚灯とは違い、殺したところで利益は見込めない。
 一介の下働きに何を見出したのだ。

「花を、奪ってこいと言われたわ。独り占めに、所有権を手に入れると」
「心当たりがまったくないのですが」
「いいえ、必ず持っているはずだからって。それを持っていったら、アレは少しは油断してくれるかしら」

 しまった。と思っても遅い。

 刀が引き抜かれ、女性が大きく振りかぶる。月光に閃くのを茉莉花は見上げて反射的に動いた。


 ――切り裂く音がした。


 痛みが、腕に走る。
 異物が二の腕あたり掠めて、息が詰まる。
 うめき声は風に消し去ったが、何かが溶ける音と異臭が広がっていく。ぽたぽたと何かが地面に落ちる。

「どう、して」

 茫然とした女は尋ねた。

 刀先は、茉莉花ではなく――まっすぐ《《女性の首を狙っていた》》。

「どうして私が死ぬつもりだと、気がついたの」

 落ちた問いに色はなく、夢のようにふわふわしている。
 茉莉花は彼女の背を撫でて、落ち着くように促した。

「貴女が一度も帰りたいと、口にしませんでしたから。それに殺意が私に向いてないのも」
「……帰れないわ、だってわたくし、こんなにも、よごれてしまっているんだもの」
「いいえ。貴女は、綺麗です。だって誰も傷付けてない」
「それは、その機会に恵まれてなかっただけよ」
「だとしても、結果、貴女は優しいままです。私を刺すのをやめて、自分の命を断つことを選んだ」
「あなたを刺したわ」
「なんの事ですか。これは急に飛び出した私が悪いのです、いわば自分から刺さりに行ったので。私が私を刺したようなものです」

 それに、だ。傷は深くない。
 瑚灯の狐火が刃を溶かしてしまったのだ。
 先ほど地面に落ちた、 どろりとした刃だったものが固まっていく。

 ごう、と炎が女性を排除対象とするか悩むように揺らめく。

 女性を抱き寄せて、首を振って炎に意思を伝えれば素直に引き下がってくれた。

 彼女の手から残った柄がこぼれた。
 一瞥して、茉莉花も離れる。

「あなたは壊れてしまっているのね」
 悲しげな呟きに、ふと握っていた彼女の手に形が戻った。溶け出していたのが嘘のように人となっている。女性は呆れたような笑いを浮かべて気が抜けたように脱力した。
「馬鹿ね。あなた」
「えっ」
「あなたの問題、少し分かった気がする――あなたそのままじゃあ、死んじゃうわよ」

 なんのことか。質問を口に出す前に女性は淡く微笑む。疲れ切った顔に何も言えなくなる。いや、聞きたく、ない気がした。


誤魔化(ごまか)すように話を変えるため、茉莉花はすいっと、指を前方へ向ける。

「……、帰り道はあちらです」

 彼女の部屋の前で話したのは、瑚灯は待っていても来ないという意味と、今なら逃げられると教えるためだった。

 一応あのときはまだ、大男の身元が裏付け出来ていないので、表だって動けなかったから自発的に出て行くように仕向けた。

 茉莉花が、というより瑚灯が、だが。

 花が止まり、ふわりと前方を照らす。
 川の流れがあり、一隻の船がとまっている。
 お粗末な、二人乗るのが限度な小さなそれに、男が立っている。
 手配をしてくれたようだ、と茉莉花は胸をなで下ろした。

 炎が船を操作する人物を浮かび上がらせる。
 
 赤髪の無愛想な少年だ、いつもより不機嫌そうな顔で茉莉花を睨みつけている。
 彼が機嫌が良かった記憶は三ヶ月で一回もないのだが。

「呼べよ」

 出会い頭に言われた意味に、首を傾げた。
 すると後ろの女性を顎で示すので、先程のことかと思い当たる。
 
 だが特別、助けの必要性を感じなかった。
 事実こうやって全員が無事に済んでいる。

 しかし彼の機嫌は氷点下なので、回復するためにそっと献上品(けんじょうひん)を差し出した。

「どうぞお駄賃(だちん)だそうです」

 赤髪に、手渡したのは瑚灯から預かった飴玉である。
 イチゴ味、わぁ美味しそう。

 思いっきり舌打ちをして「ガキかよ」と呟いた。

(うん、そりゃ怒るよな)

 その辺りは瑚灯に直談判(ちょくだんぱん)してくれ。茉莉花から言っても、では何がいいと聞かれた(きゅう)するので。

 だが彼の文句は当たり前か。
 そりゃあ現世まで船を漕ぐのだ。重労働だろうに、飴玉一つ。

 従業員への配慮を怠らない瑚灯なら、せめて夕餉(ゆうげ)ぐらいは(おご)りそうなものなのに。

 不機嫌な少年は盛大な舌打ちを再度してから、黙り込む。
 もう関わる気はないらしい。

 茉莉花はそっと振り返る。
 手を握る女性が不安そうに、こちらを見ていた。

「貴女は、大男さまに誘拐された。それまでは現世にいらっしゃった。そうですね」
「ええ、そう」
「肉体のまま、ここに来るモノを【迷イ子(マヨイゴ)】と呼びます。迷い子は記憶をしっかりあって帰る場所を分かっているので、比較的、簡単に帰れますよ」

【迷イ子】――この町に棲みたくて来た人間も含めて、肉体を持つ人間は全員迷イ子らしい。

「あなたは肉体ごと連れ去られた。記憶もはっきりしている。ですから」

 だから大丈夫です、と伝える前に、ぐいっと手を引っ張られた。

 抱きつくような姿勢になり、思わず目をしばたたく。

 女性は「なら」と不安を残した顔で必死に縋り付いた。

「あなたも一緒に行きましょう。このままいたら、あの大男に殺されるわ、花を奪うために。狙われ続けるのよ」
「私は、その花とやらを知りません」
「そうだとしても、思い込んだヤツに理屈は通じない。殺される!」
「そもそもどうして、大男さまが欲しい花とやらを、私が持っていると」
「そこまでは知らない。でも確信していた、必ず奪うって」

 そう言ったのよ、と語る彼女。この状況で嘘は、おそらくない。
 わけがわからない、と頭が痛くなった。

 知らぬ事実に茉莉花は三ヶ月の記憶を探ったが、心当たりがない。
 
 しかし彼女の言う通り真実など関係なく、大男に殺されるだろう。

 間違いなど些細なことで、人間の命など何とも思っていない。疑わしいなら殺して確認した方が早い。

 それとも――記憶のないとき、何か、したのか?

 ぞわりとした恐怖が足元から這い上がってくる。
 記憶喪失に悲観(ひかん)したことはない。だがもしその間に悪事を働き、花送町(はなおくりちょう)で瑚灯と出会う前に、彼に迷惑かかるような行いをしでかしていたら――。

「だから、だから、逃げましょう。あなたはここでは生きられない」

 懇願(こんがん)に、はっとして頭を振る。
 今はそんなことを考えている場合ではない。しっかり、彼女を送らなければならない。

 迷イ子、と呼ばれる彼女の存在。迷子と呼ばれるに、ふさわしく、不安定で涙目で、それでいて茉莉花の心を締め付けた。

 彼女の優しさが首を締め上げて、酸素を奪っていく。言葉に詰まって、不自然な沈黙が流れた。

 どうにか呼吸を再開させて強引に口を開いて、優しく彼女を突き放した。

「一緒に、いけません。私は迷イ子ではないから」

「え……?」
「ここは、『あの世とこの世の境』です。肉体を持たず、魂だけで彷徨(さまよ)うものが多い。私も、それです。魂だけの、存在」

 茉莉花は――肉体を持っていない。魂だけの存在だ。

 茉莉花に姿や体温もあるのも、魂に触れているだけ。
 視覚で体を捉えても、まやかしでしかないのだ。

「こんな境で(ただよ)う魂っていうのは、ほとんどが現世で生死不明で魂だけ抜けて、辿り着いたのです。曖昧(あいまい)なんですよ」

 黄昏のように、境で、不安定な魂。

「私みたいに、記憶を失っていたりすると帰れません……どちらに行くべきか、分かってないから」
「どちら?」
「例えば死にかけなら、現世にでもあの世でも好きに選べます。現世なら生き返れる。あの世なら……死にます」
 そして、現世で死んでいるなら、死者の魂。
 行くべき場所はひとつのみ。

 あの世、黄泉である。

「死にかけとか、死ぬときとかって結構、記憶が朧気(おぼろげ)なのが多いそうですよ。意識朦朧(いしきもうろう)としているから」

 だから自分がどうなったのかも、行く場所も分からなくて、この境に来てしまう。

「あなたは、忘れているの」
「……ええ。しかも、他の人と違って全部です。たまにいるらしいんですけど」

 生死不明でも、名前などは覚えているものが多い。
 忘れているのは、あくまで生死不明になる瞬間だけ。だから普通は生活の記憶はあるはずなのだ。

 だが、茉莉花は違った。
 名前も、どんな暮らしだったか、全部、記憶が抜け落ちていた。

「でも、瑚灯さまに『茉莉花』と名付けられて、姿を思い出させてもらったおかげで、一つだけ記憶を取り戻したんですよ。母の記憶、それだけなんですけど」

 それも、五秒も満たない程度の記憶。
 手をつないで、見上げた先で母が花束を抱えながら見つめてくれる。微笑んで「大好きよ」と言っている。
 それだけだ。

 それだけ、しかし。

 茉莉花にとって幸福な記憶だ。
 何よりも失いたくないと思う、宝物。茉莉花を作る、魂が形を保つ理由のひとつ。

「私は思い出さなきゃいけないんです。自分がどうなって、ここに来たのか」
「そんな」
「ちゃんと自分を取り戻して、大好きな母の元に帰る。それで「私もお母さんが大好きだよ」って言う。それが目標なんですよ」

 母が大好き。
 その気持ちは強く刻まれている。
 忘れているのに、消えていない――決して手放してはならない想いだ。早く母の元へ帰らなくては。思いが焦りに近い感情を抱かせ突き動かす。

「まぁ現世に帰る前に、名前と体をくれた瑚灯さまに、恩を返したいんですけど」

 もし、瑚灯が茉莉花と名を与えていなかったら、と思うと恐ろしい。
 今頃、形も心も保てない成れの果てに消えていたはずだ。

「……あなたは、茉莉花って名前が好きなのですね」
「わかりますか」
「ええ。表情は一切変わらないし、声音も一定だけれど。茉莉花、と呼ばれたとき、今も少しだけ和らいだように思うわ」
「顔がですか?」
「いいえ。纏う雰囲気、なんとなく」
「こんな幸せなのに、動いてないのですか私の顔」
「まったく」
「うそぉ」

 あながち間違いではない。
 茉莉花、と呼ばれる度に心が弾むのだから。

(それでも顔は変わってないのか)

 己の顔はもしや石か何かで出来ているのか。ぐいっと頬を引っ張ったが、瑚灯お墨付きの餅、みょーんと伸びた。

 (やわ)いのに解せぬ。伸ばし続けていれば女性がくすくすと笑う。どうやら少しは彼女を元気づけるのに成功したようだ。

「……貴女は帰れます。もう自由ですよ、私のことは気にしないでいいんです。瑚灯さまのおかげで、やっていけてますから」
「でも」
「それに、お迎え、来ましたよ」

 女性が茉莉花の視線を追い――目を(みは)る。

 いたのは、ふわりと揺れる青の光。
 店で去るときより小さくなって、蛍のような儚さが女性に擦り寄る。弱々しさが明滅(めいめつ)して女性は守るように両の手で包み込む。

『あぁこいつ、夕方に彷徨(さまよ)ってたやつか』

 内の奴の、何処か納得したような口振りに、茉莉花も思い出した。
 (うつ)ろな何か、その中で青い光を持っていたのと、買い出しの帰り道に、すれ違った。あのときは辛うじて姿を保てていたが。

(店に来たときには、もう限界だったんだ)

 ふわりと去った光が、今のと重なる。

 茉莉花はすぃっと指を動かして、瑚灯からの預かった炎を女性へ贈る。

 赤髪の案内があるとはいえ、瑚灯の道標(みちしるべ)――灯火が付き添った方が安全だ。

 そのために瑚灯は茉莉花に託したのだから。

「青い光の人、ずっと貴方を探していたらしいです。瑚灯さまが保護してくださったみたいですが……生死不明でもなければ肉体もない、幽体離脱みたいな状態では、この不安定な場では長く持たないそうです」

 だから共に帰ってください。

 茉莉花の眼差しに、光は震えて最後の力を振り絞るように形を変えた。

 美しく青い花――女性が身に着けた根付けの色違いで、どこか見た覚えがある。

「アネモネ……」

 女性は囁いて、肩を震わせると花を抱きしめた。
 愛おしくてたまらないと泣きじゃくる。花が慰めるように女性の頬へ、花弁を触れさせていた。

「わたくし、帰ってもいいのかしら、こんなからだで」
「少なくとも、その青の花は帰ってきてほしくて。どうしても諦められなくて危険を犯してまで来てくれました」

 それに報いるかは、女性次第だ。
 茉莉花は女性の様子に迷う必要はないのだろうと判断して、そっと導く

「さぁ。お二人でお帰りください、この狐火……いえ灯火と、彼がいれば迷わずに元の場所へ行けますから」

 赤髪が気だるそうに手を挙げる。それから目を()らしたまま、茉莉花へ瑚灯の苦情を告げた。

「こういう報酬のやり方は、汚ねぇし不愉快(ふゆかい)だ。何でもかんでも見透かしてんじゃねーですよって言っといて」

 どうやら飴玉はかなりの怒りを買ったようだ。
 確かに見合っていなさそうなので、素直に頷く。

 二人のやり取りを見届けると、女性は花を抱きしめながら、はにかんだ。

「……ありがとうごさいます」

 女性は泣き顔を隠さず、茉莉花の瞳を見つめ返した。

 己を見失うことなく、心からの微笑みを浮かべる彼女に茉莉花は、ようやく緊張から解き放たれた気分だった。

 彼女が壊れてしまったら、自我を忘れてしまったら。
 そんな不安がなくなった。無理難題(むりなんだい)を投げてこない瑚灯が、茉莉花に任せたのだから、平気だとは思っていたが。

「どうか、あなたも、思い出せますように」

 女性が頭を下げて船に乗る。狐火が暗い川を照らし、道筋を教えるのを赤髪が漕いで沿っていく。

 ゆらりゆらり、流れていく。
 帰るまで危険はあるが、狐火と赤髪がいたら問題はないだろう。

 去っていく姿が、見えなくなるまで留まった。

 茉莉花は目を閉じる。
 闇に咲いたのは青のアネモネと紫のアネモネ。

 次に瞼を上げれば、見慣れた狐火が寄り添っていた。どうやら瑚灯が迎えをよこしたらしい。
 
 心配性この上ない、花街の中ならば瑚灯の目が届かない場所などないのに。
 揺れた狐火に、ふと、浮かぶ疑問。

(――瑚灯さまは、何処までご存知なのだろう)

 青の光が、女性と関係していて引き止めていたあたり、茉莉花の(つたな)い推理など必要ない気がしてならない。

 逡巡(しゅんじゅん)ののち、ふ、と息をついて(きびす)を返す。瑚灯のことだ、のらりくらりと(かわ)すに違いない。

 茉莉花は黙って彼の役に立つ。それだけでいい。

 すっきりしない心を押し込めて、帰り道を急いだ。