雨上がりの河川敷。
夏風がそよぐと、草花に付いていた雨粒がぽっと落ちる。
風に弾かれた雨水は、夏の陽光を吸収しながら小さくいくつもの雫に分裂して、私の顔を濡らした。
私は雨が好きだ。
雨粒は、この世界の余計な音を吸い取ってくれるような気がするから。
水が滲んだような風音に、草が擦れる音。優しい川のせせらぎ。
――落ち着く。
高架橋の下。ここは、私の数少ない心安らげる居場所のひとつだ。
暑いけど、蝉がうるさいし虫もたくさんいるけど、騒がしい街中よりずっといい。
雨上がり特有のにおいを感じながら、私は日暮れを待っていた。
ふと、からからと自転車の車輪の音がした。
顔を上げ、音がしたほうを見やる。
そこには、クリーム色の自転車を押しながらやってくる、シンプルな装いの男の子がいた。
彼は、最近よくここへ来る男の子だ。名前は知らない。ただ、彼は決まって日暮れ前くらいにやってくる。
彼は私に気が付くと、ひっそりとした声で言った。
「きみか」
ふっと目尻を下げると生まれる目元の皺は、もともと柔らかな雰囲気を持つ彼をさらに優しげな印象にする。
彼は私から少し離れた場所に座ると、それ以上私を見ることなく、静かに本を読み始めた。
ぱらり。ときおり頁をめくる優しい音がする。
世間と切り離されたこの場所には、しばしばひとがやってくる。私はそのだれもがきらいで、だれかの気配を感じるたび、気配を消してこの場を離れていた。
ただ、彼だけは特別。
雨上がりの風のような雰囲気を持つ彼だけは、きらいじゃなかった。名前も、どこのひとかもなにも知らないけれど、なぜか。なぜか彼を見ると、胸のあたりがざわざわして、足元がふわふわして、泣きたくなるような、なんか、へんな感じになる。
こんな感情は初めてだった。
彼がやって来るようになったのは、最近だ。
ひとりでこの河川敷へやってきては、しばらくぼんやり川を眺めたり、本を読んだりして、いちばん星が出る頃に帰ってゆく。
ほかのひとと違って、彼の音は私の耳朶を心地よく震わす。
今日も、私は彼の息遣いとときおり聞こえてくる本のページをめくる音に耳を傾けながら目を閉じた。
――私の世界は、季節を問わず夏色だった。
私はどうやら、色覚異常というものらしかった。
空の青色や草木の緑色ははっきりと見ることができるが、ほかの色はぼんやりとしか分からないのだ。
それだけではない。
私は、みんなが当たり前にしている会話ができない。言葉を話すことができないのだ。
私はおそらく、この世界で弱者のほうに分類される。
ただ、だからといって虐げられるということはなかった。ほとんどのひとが、私に優しくしてくれた。
けれど、その優しさは言い換えればただの同情だ。
そう気付いてしまってからは、私はひとりでいるようになった。だれにも近付かず、弱みも見せないようにした。怖くなったのだ。ひとに、じぶんのことを知られるのが。弱者なのだと思われることが。
ひとりの世界は、なんの変化も感情の動きもない代わりに、雨上がりの空のように凪いでいる。つまらないけれど、これでいい。
下手に気を遣われるより、親切にされるより、ずっと楽だ。
***
彼と初めて出会ったのは、今日のような空がみずみずしい夏の日だった。
空の色を落としたような、鮮やかな青色のシャツ。ひそやかな息遣い。どこか寂しげな横顔。
うっかりその場を離れることも忘れて、私はその横顔に見入っていた。
視線を感じたのか、彼が私に気付いた。
その瞬間、ハッと我に返る。
しまった。話しかけられたらどうしよう。
体がこわばり、汗が吹き出してきた。
しかし、緊張の糸をぴんと張った私とは裏腹に、彼はなにも見なかったかのように、私から視線を外した。声もかけてこない。
私はいささか、拍子抜けして彼を見つめた。
彼は自転車を停めると、日陰に入った。手提げバッグから本を取り出すと、静かに読み始める。彼はそれから、一度も私を見ることはなかった。
その日から、彼はたびたび高架下に来るようになった。
相変わらず私にはまったく興味がないらしく、そのおかげで私も彼が来たときだけはその場を去ることなく、そのまま橋の下でうたた寝をするようになった。
私たちの距離が近付いたのは、それから数日後のことだ。
その日はひどい夕立があって、私は慌てて高架下に逃げ込んだ。
高架下から離れた場所にいたせいで、少し濡れてしまった。
雨は止むどころか強まるばかりだった。
高架下から、川に吸い込まれていく針のような雨をぼんやりと眺めて夕立がおさまるのを待った。
そのときだった。
慌ただしい車輪の音が聴こえてきた。見ると、下生えの草を荒々しく踏み潰して、やってくる影があった。彼だ。
彼も雨に降られてしまったらしく、びちょ濡れの状態で高架下に駆け込んできた。いつもさらさらとしている黒髪からは水が滴り、シャツは肌に張り付いている。結構濡れてしまったようだ。
彼は自転車ごと高架下に飛び込むと、雨で濡れてしまった服やバッグを乱雑にタオルで拭き始めた。
しばらくして、彼がはたと私を見た。今の今まで私がいたことに気付いていなかったらしい。
彼はおもむろに私のすぐ目の前まで来ると、タオルをそっと差し出してきた。
「……これ、使って」
私も濡れていることに気が付いて、気を遣ってくれたのだろう。
私は戸惑いつつも、そのタオルを借りることにした。
――ありがとう。
そう言いたいけれど、言葉は出てこない。今まで話せないことに不便を感じたことは何度もあった。でも、ここまでもどかしく思ったのは初めてだ。
「くしゅんっ!」
ぶるっと体が震える。
今日は風が強い。雨に濡れた体はずいぶん冷えていた。私はタオルで体を拭いた。
それ以降、彼は私になにも言うことはなかった。
彼が貸してくれた柔らかなタオルは、嗅いだことがあるような、ないような、どこか優しいにおいがした。
それから、私は彼が来たときだけは逃げることをやめた。彼はほぼ毎日のように高架下へやってきた。
そうなると、彼が来ない日はとても長く、つまらなく思えた。心というものは勝手だ。
私は、彼に借りたタオルをまだ返していない。返さなきゃと思うのだけど、このタオルだけが私と彼を繋ぐ唯一のものだったから、返すのが惜しかった。
あのタオルを抱き締めて目を閉じると、決まって彼の夢を見た。だから、彼が来ない日はタオルをそばにおいて目を閉じた。
優しい夢だ。彼は夢のなかでは私に優しい声で話しかけてくれて、微笑みかけてくれた。
心が震えるほど嬉しかった。
この感情は、なんという名前なんだろう。
胸がざわざわして、同時にふわふわする。
じぶんでじぶんの心がままならなくて、彼と目が合うと動揺する。
彼のことを考えると落ち着かなくなるのだけど、でも決していやな感じではないのだ。
ずっと夢を見ていたい。そう思えた。
でも、目を開けると、決まってそこにはだれもいなかった。
今まで感じたことのないこの感情は、なに?
***
ある日、高架下に見慣れない少女が立っていた。
優しい髪色をした、品のある顔立ちの子だ。
私は彼女の死角に隠れて様子をうかがっていた。
彼女はしばらくのんびりすると、高架下から出ていった。
私はなんとなく気になって、彼女の後を追うことにした。
追いかけてみると、彼女は橋の近くにあるカフェに入っていった。カフェの表側に回ってしばらく出入りする客を眺めていると、さきほどの少女が顔を出した。ホールスタッフらしき制服を着て、接客をしている。
彼女はどうやら、カフェの店員らしかった。
カフェのなかは、たくさんの客で賑わっている。みんな、彼女と同年代くらいの若者だ。
そのなかに、見知った顔を見つけた。彼だ。
テラス席に、彼の姿があった。テーブルの上には、汗をかいたドリンクカップと、いつも彼が持ち歩いている本とタブレット。
河川敷へ来る前はいつもここで時間を潰していたのか、と新たな発見に少しだけ嬉しくなったのも束の間、彼の様子は、いつもと少し違っていた。
頬はいつもよりほんのり紅色に染まり、その眼差しは本ではないべつのものを映している。
なにを見ているんだろう、とその視線を辿って、私は小さく息を漏らす。
彼は、ホールスタッフである彼女を一心に見つめていた。
彼女を見つめる彼の眼差しは、私と似ていた。
雑音も、視線も、気配も。ほかのなにも目に入らなくなってしまうくらい、夢中な眼差し。
――恋、だ。
彼は、彼女に恋をしていた。
彼女が近くを通るたび、何度も口を開くものの、結局声は出せないまま。声をかけたいけれど、勇気が出ない。そんなところだろうか。
彼女に会いたくてカフェに来て、話しかけようと思いながらもできなくて。結局彼女へ近づけないままカフェを出て、時間を持て余した結果、あの高架下で項垂れていたのだ。毎日のように。
彼の横顔に滲んでいた哀愁は、孤独ではなく、後悔だったのだ。
彼が最近あの河川敷の高架下へ来るようになった理由。
すべて好きな少女に会うためだったのだ。
――そっか。そうだったんだ。
胸がざわざわした。前とはちょっと違う、切なさを含んだざわざわだ。ふわふわはなかった。
私はそっとカフェから離れた。
その後、ひとりで高架下へ戻った私は、ぼんやり水面を眺めていた。するとほどなくして彼がやってきた。案の定、顔色は暗い。きっと、今日も話しかけられずに終わったのだろう。
彼は相変わらず、私にはまったくかまわない。今まではそういうところが好きだと思っていた。それなのに、今はなんだか寂しく感じてしまう。
私は少しだけ彼のそばに寄った。自ら近付いた私に、彼は少しだけ驚いた顔をしたけれど、すぐに私から視線を外した。
深いため息をつく彼のとなりに、私は座る。
すると、
「……あの、」
彼はおもむろに私に話しかけてきた。
その眼差しを見て、私は決意した。