僕は、野辺の横顔を見つめることしか出来なかった。野辺の表情は穏やかに見えるが、その内側にある後悔を考えると、胸が痛んだ。彼女が抱えていた孤独と、野辺がいま抱えている後悔。どちらも、簡単に癒えるものではない。
 野辺はしばらく空を見上げたまま、沈黙を続けていた。
 五十メートル先では、岸がこちらに向かって大きく手を振っていた。どうやら、彼女が眠っている区画へと辿りついたらしい。岸に応えるように軽く手を上げると、みんなはH区画へと歩んで行った。
 やがて、野辺はゆっくりと顔を下ろし、僕のほうを向いた。

「あたしはね、もう逃げないよ」

 野辺の言葉には、決意が込められていた。しっかりと僕を見据えるその瞳には、覚悟が宿っているように感じられた。

「過去には戻れないし、いろはも生き返ることはない。あの日の後悔もある。でも、その後悔を忘れないように、無駄にしないように、前に進んでいこうと思う」

 その言葉の重みを感じながら、僕は静かに頷いた。
 しばらくして、僕たちの目にもH区画が入ってきた。
 広大な敷地は、やはり緑で覆われており、墓石が整然と並べられている。ここには、彼女以外にも、多くの人々が眠りについている。そんなことを考えたら、足取りは慎重になった。
 他の四人は、すでに西園いろはが眠っている墓前に立ち、合掌していた。僕と野辺もあとに続き『西園家之墓』と刻まれた墓石と対面する。
 ゆっくりと手を合わせ、目を閉じたその瞬間、先ほどまで一度も姿を現さなかった風がそよぎ、周囲の木の葉がいっせいにカサカサと音を立てた。それはまるで、彼女が僕らを歓迎してくれているようだった。
 墓掃除は、家族同然の付き合いをしていた杏子を筆頭に、みんなで手分けをして行なった。えりさんが、あらかじめ杏子に頼んでいたことだ。先月、彼女の父親である浩一郎さんが墓参りをしたはずだったが、わざわざ親族でもない僕らに掃除を頼んだのは、えりさんなりの計らいだったのかもしれない。
 水が石の表面を滑り落ち、墓石はみずみずしい光を帯びて輝き出した。
 杏子は、率先して墓石を磨き始めた。

「いろはちゃん、会いにきたよ。みんなで、会いにきたからね」

 汗だか涙だかわからないものを額に流しながら、杏子は彼女に語り掛けた。その言葉に応えるように、また風がさわやかに吹き抜け、木々を優しく揺らした。
 杏子は、磨き終えた墓石を一歩下がって見ると、桶に残った水を柄杓で取り、最後にもう一度、優しく墓石にかけた。墓石はすっかり綺麗になり、太陽の光を受け、キラキラと輝いていた。
 僕たちはまた合掌をし、しばらくの間は誰も口を開くことなく、静かに祈りを捧げた。
 どうか、安らかに――。
 祈り終えた僕らは、一瀬が用意してくれていたスターチスを一輪ずつ手に取った。横一列に並び、それぞれの想いを胸に、一人ずつ墓前へと歩み寄る。
 まず最初に花を添えたのは、杏子だった。しばらく無言で佇んだあと、そっと話し始めた。

「……いろはちゃんがくれた優しさを、わたしもほかの人に与えられるようになりたい。まだまだ子どもだし、自由奔放でわがままなところもあるけど、これから少しずつ、頑張ってみる」

 杏子の声は、語尾に向かうにつれ徐々に震え始めたが、いよいよ涙を見せることはなかった。一輪のスターチスをそっと墓石に添えると、背筋を伸ばして一歩下がった。
 次に前へ進んだのは、一瀬だった。彼女はスターチスをそっと添えると、少し間を置いてから、話し始めた。

「いろは、元気? じつは、今日はお知らせがあります」

 そう前置きした一瀬は、ようやく一社から内定をもらえたことを報告した。

「嬉しい反面、正直なところ不安でいっぱいなんだよね」

 未来への希望と、漠然とした不安。正反対なものが綯い交ぜになり、一瀬の声に浮かび上がった。

「こんなとき、いろはがいてくれたらなって思うよ。わたしの言葉を優しく包み込んでくれて、勇気を与えてくれる。そんないろはに、ずっと支えられてた」

 一瀬は深呼吸をした。心なしか、その息は少し震えているように思えた。

「いまでも、隣にいろはがいるって思うと、少しだけ勇気が出る。だから、これからも頑張るから。見守っててね」

 そう言って合掌する一瀬の横に、野辺が並んだ。そっと一瀬の肩に手を置くと、二人は目を合わせ、その短い間に何かを共有するように、静かに頷き合った。一瀬は少し後ろに下がり、野辺に譲るようにしてその場を離れる。
 野辺は、一輪のスターチスを強く握りしめていた。

「いろは――」

 まるで、目の前に本当に彼女が立っているかのように、語りかけた。

「あたし、臨床心理士になるために、大学院に進むことにした」

 その言葉には、決意と覚悟が感じられた。野辺は深く息を吸い込み、静かに続けた。

「あたしが選んだ道は、簡単なものじゃない。隣にいたあんたのことでさえ守れなかったあたしが、人の心を救うなんて出来るのかって、何度も考えて、悩んだ。でも、いろはがあたしにくれたもの、みんなに遺してくれたもの、それを無駄にはしたくない」

 野辺は、手に持っていたスターチスを墓石の前にそっと添えた。

「いろは、あんたの死を無駄にはしない。あたしが臨床心理士として誰かを助けることで、後悔ばかりだったあの日々に、意味があったんだって、思えるように」