あの子が鳥になった日を、僕は忘れられない。
でもそれは、悲しみや苦しみに囚われ続けているということではなくて、彼女が僕らにとっての明日を生きる糧になったからだ。
いつも笑顔で、悩みがなさそうで、幸せそうに見える人でも、誰しも苦悩がある。みんな、そんな中をもがきながら生きてゆく。信じている言葉があり、それを実現するため、必死になる。西園いろはは、その途中で挫折し、この世から離脱した。みんなが感じるような苦しみを自分だけのものがと思い込んでしまったのか、何に苦しんでいたのか――彼女はもう、答えてくれない。
だから、信じるしかないのだ。考えても埒が明かないことよりも、自分たちの目に映してきた西園いろはと、西園いろはが大事にしてきた言葉を。それが、いまは亡き彼女と向き合うための、唯一の手段であり、答えなのだ。
五年を掛けて導き出した答え。自分でも、時間を掛けすぎてしまったと思う。しかし、ようやくここまで辿りついたのは、他の誰でもない、呉宮さんのおかげだと思っている。だから、ぜひ呉宮さんも一緒に、と誘ってみたのだが、水を差すような真似はしたくない、と断られてしまった。
季節は真夏。八月に入り、大学が夏休みに入ったところで、僕らは彼女に会いに行くことにした。僕と、杏子。それから、一瀬、野辺、岸、柳原。えりさんには事前に許可を得て、青山にある墓地に訪れた。
そこは、静寂と平穏に包まれていた。お盆の時期ではないため、比較的に人は少ないのだろう。真夏の太陽が木々を照らし、地面にはその影が伸びていた。コンクリートを蹴る僕らの足音と、蝉の鳴き声だけが一帯を支配していた。
途中で柄杓と手桶を水場から拝借し、先頭を一瀬と杏子、その後ろを岸と柳原、そのまた後ろは僕と野辺で歩く。前の四人が、各々の話で盛り上がる中、僕と野辺の間には不気味なほどの静けさが広まっていた。
しかし、人はあまり変わらないものだ。小麦色の健康的な肌に、短く切りそろえられた髪は、高校のころとさほど変わりはない。少々、化粧というものを覚えたくらいに思えた。
「何だよ。あたしの顔になんかついてる?」
――口の悪さも、ご健在のようだ。
あまりにもじっと見つめすぎたせいか、不審者でも見ているかのような冷たい視線を送られた。
「あぁ、いやっ……」
しどろもどろな僕を、野辺は鼻で笑った。これには驚いた。
僕の知っている野辺は、不機嫌そうに眉を顰め、ムッとした表情で軽蔑の眼差しを送ってくる。しかし、数年前より幾分か角が丸くなったようだ。
「咲間、マジで変わってないね。そんなんで、就活大丈夫なの?」
そちらこそ全然変わってないですよ、なんてことを言えるはずもなく曖昧に笑うと「就活してないから問題ないよ」と答える。すると、特に驚くでも突っ込むでもなく「そういう選択肢もあるよね」なんて、軽く流された。固定観念が強めだと思っていたので、これまた驚いた。案外、変わっていないようで変わっているようだ。
「野辺は、まだ野球やってるの?」
「野球じゃなくてソフトな。ソフトボール」
「あぁ、そうだっけ」
「そうだよ。ソフトボール、やってるよ」
肩まで捲り上げられた半袖シャツから、筋肉質な腕が覗いている。下手したら、僕より筋肉量は多いのかもしれない。大したものだ。
「そっちは? 相変わらず、本でも読んでんの?」
「まあね」
「ふうん……いいじゃん。あたしにも何かおすすめしてよ」
「えっ?」間抜けな声が出た。
「いろはには本貸してたんでしょ? まぁ、貸さなくていいからさ、なんかおすすめ教えて」
そうか。野辺も、僕と彼女の繋がりは知っていたのか。
僕は適当に、最近読んだ本を記憶の中から掘り起こし、野辺におすすめする。
ふと、数週間前の一瀬の言葉を思い出した。
あの日、最後にいろはと話したのは、中だよ――。
調査はすでに終わっている。いまさた何を聞いたところで、結果は変わらない。そんなことはわかっていても、僕はやはり、聞かずにはいられなかった。
「ねえ、野辺」
「ん?」
少し躊躇しながらも、僕は問いかけた。
「あの日、西園さんと最後に何を話したの?」
野辺の表情が、一瞬固まった。足取りもわずかに重くなったのを感じたが、すぐに歩みを戻した。
少しの間、四人の会話と蝉の鳴き声が僕たちの間に響いていたけれど、やがて野辺はおもむろに口を開いた。
「何も、話さなかったよ」
一瀬から聞いた話と違う。困惑する僕に、野辺は悲しそうに微笑んだ。
「というよりも、話させなかった、って言うべきかな」
「……どういうこと?」
「いまでも思う。あの日、あたしがいろはの話を、ちゃんと聞いてれば、って」