沈黙が流れる中、えりさんはゆっくりと席を立った。

「咲間くんに、見てほしいものがあるの」

 そう言って、店の奥へと姿を消していったえりさんを見送ると、僕ら三人は顔を見合わせた。
 しばらくして、えりさんは数冊の本を大事そうに抱えながら、戻ってきた。そして、一冊の本を差し出してきた。

「この本、覚えてる?」

「あっ、」

 僕は、その本を手に取った。
 表紙は少々色褪せていたけれど、間違いない。僕が彼女に貸した、東野圭吾の著作だ。
 ところどころのページに、色鮮やかな付箋が顔を覗かしている。
 中を確認してみると、文章の上に、決まった位置などは特になく、ばらばらにそれは貼られていた。

「心に響いた部分があると、そうやって付箋を貼っていたの。自分が感じたことを忘れないように、あなたに伝えられるように」

「僕に……?」

「ええ。生前、いろはから話を聞かされたことがあるの。咲間くんっていう、周りの男子よりちょっぴり大人で、仲良くなりたい人がいる、って。いろはは、あなたの好きなもので、対等に話したかったんだと思う――これらの本は、いろはが自分で買い集めたものよ」

 えりさんは、残りの本も、僕のテーブルの前に置いた。どれも、東野圭吾の作品。そして、どの本にも付箋が貼り付けられている。

「咲間くんに、少しでも近づきたかったんじゃないかな。読書に勤しんで、あとからあなたを驚かせたかったんだと思う」

 胸に、温かい何かが広がってゆく。
 彼女がいろいろな本を読んで、僕を驚かせようとしていた。
 本を両手いっぱいに抱えて、僕のもとへ駆け寄ってきて、無邪気に感想を語る彼女が脳内に浮かんだ。
 僕は一冊一冊を手に取り、付箋が貼られている部分を、彼女が僕に伝えたかったであろう言葉を読み漁る。
 僕は、彼女が付箋を貼ったページを一つ一つ丁寧にめくりながら、その言葉に込められた彼女の思いを感じ取ろうとした。まるで、いま隣で僕に感想を語ってくれているかのように、彼女の声が心に響いてくるようだった。
 そんな中で、ある一節に目が留まる。

「『人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある』……」

『容疑者Xの献身』の作中に出てくる、とある一文。
 その一文を目にしたその瞬間、堰き止められていたものが溢れ出るように、頬に涙が伝っていった。嗚咽が漏れぬよう、片手で口を押さえてはいたものの、その声は店内中に響き渡っていたと思う。
 彼女が、どんな思いでこの一文に付箋をつけたのかわからない。
 しかし、この言葉に何かを感じたのならば、なぜ彼女は自ら命を絶ってしまったのか。この言葉を信じ、健気に生き続けてほしかった。
 拭っても拭いきれない涙が、僕を溺れさせる。
 彼女がこの一文にどれほどの希望を託していたのか、あるいはその希望がどこで途切れてしまったのか――その答えは、一生わかることはない。
 呉宮さんが、そっと僕の肩に手を置く。僕は少しだけ冷静さを取り戻して、彼の方に顔を向けた。

「何度も言うようで悪いが、彼女が何を思っていたか、考えていたのか、何に苦しみ葛藤したのか、それはわからない」

 呉宮さんの強い眼差しに、僕の視線は捕らわれた。

「でもここに、この本の中に、彼女が大事にしたかったものが、遺されてるんじゃないか」

 呼吸を整え、手の中の本を見つめ直した。
『生きる』『未来』『幸せ』『救い』『奇跡』――そして『命』。どの文にも、そんな言葉が入っていた。
 彼女が、大事にしたかったものが、たしかにここに存在している。

「この言葉たちに託された思いを尊重していくことが、彼女に対する最良の弔いだと、わたしは思う。いま君たちに出来ることは、彼女が抱えていた闇に触れるのではなく、彼女が見ていた希望に応えるために、明日からも生きてゆくことだ」

 杏子は、涙ぐみながらも微笑み、呉宮さんの言葉に大きく頷いた。
 いまだ涙が溢れ出る僕に、呉宮さんは優しく肩を叩いてくれた。そしてその肩を、抱き寄せてくれた。思わず僕は、笑ってしまった。

「距離感大事にしてるんじゃないんですかっ」

「大事にしている。だから、いまこうやって寄り添っているんだろう。君が弱っているならば、わたしは上司として、相棒として、君のすぐ近くにいるべきなんだ」

 こちらに見向きもせず、虚空を眺めながらそう言う呉宮さんに、また笑みが溢れる。
 えりさんも杏子も、そんな僕たちを見て微笑んでいた。

「さあ、今日も明日も、生きようじゃないか。君が健気に生きていれば、それは彼女の心を救うことになるはずさ」

 晴れやかなその表情を見て、僕は決心した。
 この人に、一生ついていこう。
 そして、彼女のためにも、僕はこの先も生きてゆく。