「僕は、いろはさんが精神的に追い込まれている状況を見ていたのに、手を差し伸べることができませんでした。助けるどころか、より追い詰めてしまったのかもしれないです」
ゆっくりと顔を上げてみると、困惑した様子の三人が僕を見下ろしていた。えりさんに関しては、まったく状況が呑み込めていない様子だった。
「いろはさんが亡くなる半年ほど前、彼女から相談を受けました。そのとき、彼女は自分の心の中に抱えていた闇を、僕に打ち明けてくれたんです。人に愛を与えていくうちに、いろはさん自身もそれが欲しくなったのかもしれません。周りの人に心配してもらいたかったのかもしれない。僕に、自身への誹謗中傷を懇願してきました」
胸にそっとしまいこんでいた後悔と自責の念が、じわりじわりと滲み出てくる。
僕の言葉を聞き、えりさんは目を伏せた。少々、動揺しているように見受けられた。
「そんなことが……」
僕は頷きながら、掠れた声で言葉を続けた。
「彼女は誹謗中傷を受けることで、周りの人たちが心配してくれることを、自分のことを考えてくれることを期待していました。僕は、彼女のその望みを聞いて、かなり戸惑いました。でも、彼女がどれほど必死だったか――その願いを無下にすることもできず、僕はその頼みを引き受けました」
呉宮さんが、横で深く息をついた。そして、僕のほうを見やると、低く落ち着いた声で問いかけた。
「それが、彼女の心の叫びだった、ってことだね?」
僕のことを、擁護しようとしてくれているのかもしれない。僕は、呉宮さんの問いに頷きながらも、さらに言葉を続けた。
「……でも、僕から彼女に与えられたのは、希望なんかじゃなかった。適当に並べられた悪口と、追い討ちの孤独感。いろはさんのためだと思って取った行動は、結果的に彼女自身を追い詰めることになってしまいました」
言葉を続けるのが辛くなり、項を垂らす。
「救えなかった……あんなに、傍にいたはずなのに」
沈黙に包まれた中で、僕はもう一度、床に頭をつけた。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
木製の床が、目から零れた涙で湿っていくのがわかった。
許してください。どうか、どうか――。
床にめり込みそうになるくらい、額を強く押し付けていた僕の肩に、温かい手が乗った。
情けないくらいの泣きっ面だろう。顔を上げるのを躊躇いながらも、僕はその手の主を確認した。
歪んだ視界に、うっすらと柔らかい表情をしたえりさんが映った。
「咲間くん、」
僕を呼ぶ優しい声が、彼女を彷彿させた。まるで、目の前に彼女がいるような――。
「ほら、座って」
えりさんは、僕の腕を掴むと、椅子に座るように促した。言われるがまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
三人の顔を見るのが怖くて、僕は頭を垂らした。そんな僕に、咲間くん、ともう一度えりさんが呼びかける。
「これ以上、自分を責めないで」
えりさんが、優しく微笑んだ。
「だってあなたは、わたしたちが気づけなかったことを、感じ取ってくれていたんだから。いろはも、きっと感謝していたと思います」
そっと、目を閉じる。
その言葉で、ようやく少しだけ心が軽くなった気がした。しかし、彼女への後悔は、消えることはない。
「でも、僕は――」
「いいんです」
えりさんが、優しく僕に語り掛ける。
「いろはが何を考えていたのか、心の中にどんな葛藤があったのか、それを理解するのは誰にとっても難しかったと思う。あの子を産んだわたしですら、わからないんですから。いろはがあなたに頼んだことも、あの子なりの理由があったのでしょう。それで、咲間くんをこんなに苦しませてしまっているのだから、謝らなくちゃいけないのはわたしのほうなのよ」
そう言って頭を下げるえりさんを、僕は眺めることしか出来なかった。
「伝わってたと思うよ」
不意に、杏子が口を開いた。いつの間にか、彼女の目と鼻は赤くなっていた。
「春彦くんが、いろはちゃんのこと大切に思っていた気持ち、いろはちゃんにちゃんと伝わってたと思う。そう、信じてみようよ」
呉宮さんもゆっくりと頷き、「日南さんの言う通りだ」と。落ち着いた声で言葉を添えた。
「彼女が最後に求めたもの、感じたものが何だったのかは、遺された者にはわからない。いくら考えたって、人に聞いてみたって、その人の感情はその人にしかわからないんだ。だから、わたしたちは信じるしかないんだよ」
呉宮さんと、視線がぶつかる。
「絵空事でもいいのさ。君がまた歩き始めるために、君が信じたい彼女を、信じてあげればいいんだよ」
僕の信じたい彼女。
いつも笑顔で、ちょっぴりおてんばで、誰にでも平等に愛を分け与えられる、心優しい人。
僕の――大好きな人。
彼女の楽しそうな表情が、頭で再生されてゆく。
これが、僕の信じたい、彼女の姿だ。