まだ雨は止んでいなかった。
黒雲が町を包み、雷雨が降り注ぐ様をじっと見つめる。
まるで、僕の心が窓の向こうに投影されているようだった。
杏子は、こんな土砂降りの中、傘もささずに事務所を飛び出してしまった。
無理もないか――。
一言一句、配慮しながら話したつもりだった。なるべく傷つけないように、丸みを帯びた言葉を選んでみたものの、最後に行き着く変えようのない現実に、杏子は心を抉られたようだった。
すべてを話し終えたあと、ひどく傷ついた顔をした杏子は、僕の頬を一思いに叩き、颯爽と去って行った。叩かれた頬には、まだ熱が帯びている。杏子の怒りが、悲しみが、苦しみが、僕の身体中に寄生して、ぐるぐると循環してゆく。
窓から離れ、ソファにへたり込むように寝転がった。
重厚な書斎机、壁一面にずらりと並べられた書籍、特注品で揃えられた食器――視界から入ってくる情報量の多さに、そっと目を閉じた。普段であれば、そんなこと気にならないのに。
雨音が強くなるにつれ、遠くに聞こえていたはずの雷鳴が徐々に近づいてくるのがわかった。
明日、朝方に東京へ戻る。九時、事務所にて待つ。
そんな淡々としたメッセージが送られてきたのは、気を紛らすためにYouTubeを観ていたときだった。無論、呉宮さんからだ。彼が東京を去ってから、すでに丸一ヶ月が経過していた。調査に没頭する日々の中で、呉宮さんという存在は僕の中で薄まっていた。
これは一種の就職試験だ――。
そう思って依頼に臨んだはずなのに、感情任せに走り、その結果がこれだ。杏子の心と、西園さんの名誉を、僕の不用意な発言で傷つけた。
こんな結果を報告すれば、間違いなく不採用だ。今度こそ、本気で本当の就職活動を始めなければいけなくなる。
君はまだ、子どもだね――一ヶ月前の、呉宮さんの言葉が蘇った。あのときは、そんなことを言われた理由もわからず、ただ腹を立てていた。
しかし、いまならその言葉の真意がよくわかる。呉宮さんの言うとおり、僕はまだ子どもだったのだ。
近づいていたはずの雷雨はいつの間にか遠ざかり、窓を打ち付ける雨も弱まっていた。が、僕の心は土砂降りのままで、止む気配がない。
どんなに面白い動画を観ても、癒される動画を観ても、頭の片隅に後悔がちらついて、大きなため息が溢れた。
とりあえず家に帰ろうかと腰を上げたものの、事務所に掛けてあった時計を見て、またもため息をつく。すでに終電はなくなっていた。
物思いにふけて、それを紛らすために動画を観て、を繰り返しているうちに、何時間も経っていたようだ。
タクシーで帰るお金はないし、レンタルサイクルで帰るには雨はまだ強いし、徒歩で帰れるほどの距離でもない。傘を買えるコンビニは、ここから少々距離がある。そこに辿りつくまでに、結局雨に打たれてしまう。
朝にはここで、呉宮さんと会う約束がある。夜が明けるのをここで待つことにしよう。そう決めるまでに、時間は要さなかった。
ふたたびソファに腰を下ろし、仰向けに寝転がる。
ごめん、西園さん――僕が、君の望みを壊してしまったかもしれない。でも、その望みは君を幸せに出来たのだろうか。答えを教えてほしい。
心の中で、彼女に問いかけてみた。言わずもがな、返答はない。
しかし、答えは出ている。彼女にとっては残酷すぎる答えが、僕には出てしまっているのだ。
あのときの僕の判断は、間違っていたと思う。理にかなった、彼女が納得するようなことが言えなくても、全力で断るべきだった。君のことが好きだと告白して、二人でおいしいパフェを食べるべきだった。それで、彼女の気が紛れたのかはわからないけれど、何か他に手段はあったはずなのだ。
二〇一九年一月八日――あの日、事の一端を担ってしまったことに気づいた僕は、絶望した。誰にも打ち明けることができない、西園いろはとだけ共有された、僕らの罪。
誰にも知られていない。暴かれることはない。この罪は、彼女への想いとともに封じ込んでしまおう。そして、その蓋はおよそ五年間、開けられることはなかった。
しかし、僕の前に、日南杏子という一人の少女が現れた。
過去の罪は消えない。どれほど責任を感じ、反省していようと、その罪の重さは減ることはない。一生、抱えていかなければならない。そしていつか、どこかでその罪が白日の下に晒されることになる。その不安だけが、ずっと僕の隣に居続けていた。
――漠然と、こんな日が来るのではないかと思っていた。
僕らの罪が、暴かれる日が――。