外は、ゲリラ豪雨に見舞われていた。杏の姿を目にし一度立ち上がった僕だったが、次の瞬間、身を預けるようにソファに座り込んだ。目の前に座る一瀬は、静まり返った空間に居心地の悪さを感じているのか、先ほどから落ち着きがない。
「えっと……これは、」
「あぁ、っと……」
第三者から見れば、この状況は浮気現場に乗り込まれた男の図に見えるのだろう。一瀬も、そんな見当違いな推測をしているに違いない。
「日南杏子といいます」
杏子が一礼した。一瀬もその場から立ち上がると、同じように名乗り、頭を下げる。
「杏子は、西園さんの幼馴染なんだ」
「そうだったんですね」
やはり、怒っているようだった。杏子は、あからさまに鋭い視線を僕に向けてくる。
「ごめん、一瀬。ちょっとここで待ってて」
「えっ……あ、いいよ。わたし、帰るから」
「いやでも、まだ雨降ってるし」
とりあえず杏子に事情を説明して、そのあとに三人でしっかりと話そう。一瀬を引き止めたのには、そんなわけがあった。
しかし、一瀬は真新しい鞄から、折り畳み傘を取り出すと「これ、あるから」と微笑んだ。
「中のことは、またわかったら連絡するね」
僕の横を通るとき、一瀬はそう言った。そして、扉の前に立っていた杏子にもう一度頭を下げて、事務所から出て行ってしまった。
二人きりの空間。沈黙。外から聞こえてくる雷鳴、地面を打ちつける雨音が、この気まずい空気を、どうにかして誤魔化そうとしてくれているようだった。
杏子が、だいぶ前から話を聞いていたのは明白だった。雨宿りのつもりでここへ駆け込んできたのならば、体が雨で濡れていないと説明がつかない。
また勝手に調査するなんて、と詰められたほうがまだよかった。二人きりになったいま、それをしてこないのは、杏子自身が僕に掛ける言葉がないからだろう。
西園いろはと無縁に等しいと思っていた人物が、どうやら秘密裏に繋がっていたようで、自分にはそのことを隠していた。ともに調査を進めてゆく相方として、信用が失われつつあるのだろう、ということは認めざるを得ない。
「いろはちゃんと、仲良かったんだね」
テーブルを挟んで、杏子が僕の目の前に座った。
「いや、仲良かったってゆーか……」
「本貸すような仲だったなら、それは仲良かったってことだと思うけど」
「……隠してて、ごめん」
浮気をして、恋人から説教を受ける男も、こんな気持ちなのだろうかと、くだらない考えが頭をよぎった。
「謝罪なんていらない。わたしが気になっているのは、春彦くんが、なぜそれを隠していたのかってこと」
「それは、仲がいいって名乗れるほどの自信がなかったから――」
「違うと思う」
言葉を遮られ、思わず顔を上げる。杏子の揺るがない瞳が、僕をまっすぐに捉えた。完全に縛られ、もはや抵抗する気力もなくなっていた。その瞳に、僕はおとなしく捕まることにした。
「そもそも、わたしが春彦くんに依頼したのは、大学の先輩の情報提供がきっかけだった。その人は春彦くんと同じ高校に通っていて、無論、いろはちゃんの事件のことも知っていた。栄大に、他に同じ高校だった人はいないかと訊ねたら、あなたの名前が挙がった。そして、その人はあなたといろはちゃんの関係について、こう言ってた」
――咲間春彦は、唯一と言っていいほど、西園いろはとまったく関わりがなかった人間だ。
「調査を進めていく中で、わかったことがある。いろはちゃんは、みんなのことを平等に愛していたし、その気持ちを返すように、みんなもまた、いろはちゃんのことを愛していた」
杏子の表情が、少し緩んだ気がした。
誇らしいのだろう。幼馴染のことが――。
しかし、すぐに表情を戻すと、先ほどよりも強まった視線が僕に向けられた。
「それなのに、なんで春彦くんだけは、いろはちゃんとの関係性が見えてこないのか」
それが、不思議で堪らなかった。
一歩ずつ、確実に核心に迫ってきている。すでにすべてを知ってしまっているのに、わざと焦らされているような気さえしてきた。その駆け引きのような空気感に、自然と鼓動は速まる。
「わたしに、いろはちゃんとの関係性を隠しただけなら、春彦くんが言うように、本当に自信がなかったんだろうなって思える。でも――」
あなたは、五年前からずっと、いろはちゃんとの関係を隠していた。
「他人に、二人の関係が知られるのはまずかったから」
でも、それはなぜ?
じわりじわりと追い詰められ、もはや逃げ道など存在しなかった。
言ってしまうのか、ここで――。
彼女との約束を破る上に、彼女の名誉を傷つけることになる。しかし、言ってしまえば、僕自身が楽になるような気もした。五年間、ずっとつけていた錘を下ろしてしまえば、身も心も軽くなるのだろうか。
「お願い、春彦くん」
知りたいの、いろはちゃんのこと――。
目の前に座る少女は、そう言った。
ただただ、真実を知りたいのだ。大好きないろはちゃんの身に、いったい何が起こっていたのか。
そして、少女のこの言葉こそ、あのころの西園いろはが一番欲していたものだということに気がついた瞬間、僕の口は開いていた。