一瀬は、言いたいことがありそうな表情を見せるも、しばらく僕と視線を交わすと、何かを諦めたように目を逸らした。
 遠雷が、微かに聞こえてきた。今日は、雨でも降るのだろうか。窓の外に気を取られていると、一瀬が口を開いた。

「話したら、咲間くんの心は救われる?」

「……それは、わからない。でも、いまのままじゃ心が救われないことは、確かだよ」

 そっか、と一瀬は困ったように笑った。

「この前、西園さんと付き合ってた人に会いに行ったんだ」

「……もしかして、塩野先輩?」

 一瀬の表情が、わかりやすく引き攣った。その名前に、嫌悪感を抱いているような、耳にもしたくなかった、とでも言わんばかりの拒絶反応だった。そのリアクションが、僕には引っ掛かった。

「あの人、なんて言ってた?」

「もっとちゃんと話を聞いてやれば、って――」

「それって、いろはが受けてた誹謗中傷のこと?」

「……知ってたの?」

 ゆっくりと頷いた。

「いろはの口から、そのことは聞いてた。でも、その誹謗中傷自体を問題視していたというよりかは、その話を打ち明けたときの塩野先輩の返答が、ちょっと嫌だったっていう話だった」

 塩野哲太は、彼女が誹謗中傷を受けているということを知って、明確な解決方法を提示していた。学校や警察に相談すればいいのではないか――と。
 そのことを伝えれば、一瀬はかぶりを振った。

「たぶん、そういうことじゃなかったんだと思う」

「どーゆーこと?」

「ただ、大丈夫だよ、って――その一言が欲しかったんじゃないかな」

 大丈夫――確かに、それは魔法の言葉だ。
 現実的な人たちからしたら、なんとも無責任な言葉に思えるかもしれないが、その言葉を掛けられて、まずは心を平穏にさせたい、と思う者も少なくはない。僕も、先ほど一瀬に同じ言葉を掛けられ、心がじんわりと熱くなった。

「だから、フッたんだと思う。寄り添ってほしかったけど、塩野先輩はその気持ちに答えてくれなかった」

 ほかに、好きな人でも出来たんじゃないか。その好きな人が、もしかしたら、僕だったんじゃないか。
 そんなことを少しでも考えていた自分が、恥ずかしくなった。

「自分からフッたのに、しばらくいろはは落ち込んでた。でも、別れて正解だったと思う」

「それは、なんで?」

「いろはの一件があったあと、Twitterがいろはへの言葉で溢れたのは、咲間くんも覚えてるよね?」

「……うん」

 あのときのTwitterのタイムラインは、非常に忌まわしかった。
 悲しみ、怒り、感謝――いろんな感情が綯い交ぜになり、ポエマーのごとく言葉を紡いでは、それらをSNSに投稿する輩が、あとを絶たなかった。わざわざ、多くの人の目が留まるような場所で、書く必要はない。彼女が、承認欲求を満たすための材料にされている気がして、不愉快極まりなかった。

「ありがとう、とか、ごめんね、とか――そういうのだったら、まだ許せた。でもあの人は『俺のせいだ』って、ツイートしてたの。その投稿には、何十件もの『いいね』がついてて、寒気がした。リプライにも、そんな悲劇のヒーローを慰めるように、多くの人が群がっていた」

 知らぬ間に、一瀬の項は垂れていた。
 ふざけんな――聞いたことのない、おそらく一瀬の中で一番低い声が、部屋に響いた。
 外では雨が降り始めたようで、窓ガラスを小さい雨粒が装飾していた。

「いろはのこと、自分の悲劇のストーリーを仕上げるために、使われたような気がして……ものすごく、腹が立った。そんな自己憐憫に陥ってるあの人をフッたいろはは、間違ってなかったと思う」

 皺になってしまうんじゃないかと不安になるほど、リクルートスーツを強く握りしめる一瀬を前に、その震える拳を握りしめてやるような、背中をさすってやるような、温かい言葉が出てこない。代わりに、その話から遠ざかろうと、別の話を提示した。

「クリスマスの日――あの日、最後に西園さんと何か話した?」

 視線を下に落としたまま、一瀬は首をぶんぶんと横に振った。

「わたしは、話してない」

 おもむろに上げられた顔は、心なしか濡れているような気がした。

「あの日、最後にいろはと話したのは、中だよ」

「……野辺が?」

「次の日の終業式、いろはが学校に来なくて、中は後悔してた。最初は、ただの喧嘩かなって思ってたの。でも、放課後に中と二人で職員室に呼び出されて、いろはのことを聞かされた。普段は冷静で取り乱すことのない中が、職員室で泣き崩れたのを見て、ただ事じゃないってことがわかった」

「野辺は、西園さんと何を話したんだろう。なんか聞いてない?」

「ごめん。そこまではわからないの。中、何も教えてくれなかったから」

「そっ、か」

 野辺から話を聞ければ、あの日の真相にグッと近づく。もしかしたら、欠けていた最後のピースの持ち主は、野辺本人である可能性が高い。
 野辺を思い浮かべると、相変わらず怒っているような顔が浮かんでくる。しかし、この話を聞いて、本人から話を聞かないわけにはいかない。

「野辺に、会えないかな?」

「えっ?」

「話を聞きたいんだ。五年経ったいまなら、何か話してくれるかもしれない」

 一瀬はまた、困ったように笑った。

「どうだろう。高校卒業してからは、中に会ってないの。連絡先は残ってるから、こっちから何か送ることは出来るけど――」

「お願いしてもいいかな」

「……本当に、話を聞くつもり?」

「うん。ここまで来て、諦められない」

「知ることで、誰かが傷つくとしても?」

 その問いには、頷くことは出来なかった。
 僕が傷つく分には、いいと思っていた。どんな真実を告げられようと、すべてを受け入れるつもりでいた。
 では、杏子が傷つくことになったら? 一瀬や、野辺が傷つくことになったら?
 そこまで考えが及んでいなかったことに、いまさら気づいた。

「僕は――」

 次の瞬間、事務所の扉が大きく開いた。
 そこには、黒い長髪を垂らした色白の少女が立っていた。

「――杏子、」