「僕なんか、蚊帳の外の人間だから」

 あの日の保健室に、行けるはずがなかった。
 教室から離脱した人は皆、ある程度彼女と深い関わりがあった。それに比べて僕は、偶然、二人きりになる瞬間が人より多かっただけで、友達と呼べるのかさえわからない立場にあった。
 そんな僕が、傷心したからと保健室に訪れたところで、多くの人が疑問を抱くはずだ。
 あれ? お前って、いろはと仲良かったっけ――そんな視線を向けられることが、容易に想像出来てしまった。
 だから、行けなかったのだ。自分が、ただの外野であることを自覚してしまいそうだったから。

「……うん。咲間くんのことだから、そんなことだろうとは思ってたよ」

 でも、と一瀬は言葉を続ける。

「咲間くんがあの場所に居ても、不思議じゃなかったよ。来てよかったんだよ。いまさらかもしれないけど、わたしは、あの日、咲間くんが保健室に来なかったこと、ずっと疑問に思ってた」

 その言葉だけで、心が救われた気がした。
 鼻がつんとして、それを誤魔化すようにコーヒーを喉に流し込んだ。

「僕は、そんな権利なかったから」

「権利? 悲しむのに、権利なんて必要なの?」

「僕と西園さんは、友達って言えるような関係ではなかったから。そこまで、深い関係じゃなかったから――ただの、同級生だよ」

「ただの同級生だったとしても、悲しかったんじゃないの? ただの同級生は、悲しむ権利もないの?」

 何を言っても、一瀬は疑問符で返してきた。
 責められているような気がして、肩がすくんだ。

「……ごめんね。でも、わたし見ちゃったから」

「見たって、何を?」

「咲間くん、いろはのことが学年集会で伝えられたとき、泣いてたでしょ?」

「えっ、」

 見られてたのか。必死に隠したつもりだったあの涙は――。
 黙り込む僕を見て、それを肯定と受け取ったのか、やっぱり、と一瀬が呟いた。

「いろはと仲良かったこと、隠したいってわけじゃないことは、わかってる。でも、そんなに及び腰にならなくても、いいんじゃないかな。悲しいことは悲しいし、それを抑えても自分の中でどんどん大きくなってくだけだよ。実際にいま、五年経ったいまも、咲間くんはあの日の悲しみを消化しきれてないでしょ」

 一瀬の言うことは、図星だった。
 この五年間、誰の手にも届かないような場所に、鍵のついた頑丈な箱に、彼女への想いはすべて閉じ込めていた。その中で、ぶくぶくと膨れ上がる負の感情に気づくこともなく、いざ蓋を開けてみれば、あまりにも巨大なそれに五年後の自分が対応しきれなくなっていた。

「悲しかったよ。わたしだって、当時はすごく苦しんだ。それでも、少しずつ吐き出すことで、消化することが出来た。いま、いろはが隣にいなくても、心の底から、ちゃんと笑えてる自分がいるのっ」

 そんなことを言いながらも、一瀬の目は潤んでいた。

「でもね、ときどき思い出すんだ。いろはにしか相談できないこと、聞いてほしいこと、山ほどあって……そーゆーときはね、会いに行くの、いろはに」

 今度、咲間くんも一緒に行こうよ――。
 いつしか、杏子にも言われた言葉だった。

「でも、僕は――」

「会いに行こう。じゃないと、心が壊れちゃうよ」

 大丈夫だから、会いに行こう。大丈夫、大丈夫だから――。
 一瀬の優しい声が、耳を撫でた。僕の心を、そっと包んだ。

「いろはのこと、想っていいんだよ。自分なんか、なんて思わないでよ」

 体の底から、何かがせり上がってくるような感覚に襲われる。ずっと、堪えていたものが、ぐっと、歯止めがかかることなく――。

「いろはの話、しよう。五年前、話せなかった分、わたしに全部聞かせて」

 あぁ、だめだ。
 気づいたときには、ツーっと頬に何かが垂れてきた。それが涙ということは、考えなくともわかっていた。手の甲で乱暴にそれを拭う。そして、ふーっと小さく息を吐いた。
 完全に、あちらのペースに呑み込まれていた。今日は、思い出話に浸るために、一瀬をここに呼んだわけではない。

「……いまはまだ、出来ない」

「えっ?」

「僕には、どうしても調べなくちゃいけないことがあるんだ」

「調べるって、これ以上何を調べるの?」

「西園さんが、なんであんな選択をしてしまったのか」

 僕が知りたいのは、ただそれだけだ。
 あのとき、誰よりも近くにいた一瀬や野辺が、彼女の一番の理解者だったはずだ。

「そんなこと、知ってどうするの?」

「どうするもこうするもない。いまさら真実を知ったところで、起きた出来事は何も変わらない」

「じゃあ――」

「それでも知りたいんだっ」

 一瀬の声を遮るように言った。思いのほか大きくなってしまった声に、自分でも驚いた。

「知ることが、彼女への償いになるんだ」