一瀬は、約束の十五分前にやって来た。
 そろそろ来るぞ、と体に力が入ったその瞬間、ドアガラスの向こうに人影が見えた。
 座っていたソファから立ち上がりドアを開けると、そこにはスーツ姿の一瀬が立っていた。髪は低めの位置で一本に括っており、かつてのふわふわしたイメージからかけ離れていた。着られている感が否めないその姿に、就活中なのだろうと予想がついた。

「あぁ、ごめん。まだ就活中で……」

 恥ずかしそうに、括った髪を撫でる。

「こちらこそ、ごめん。忙しいときに、急に呼び出しちゃったりして」

「いいんだよ。わたしが来たくて、来たから」

 ようやく、一瀬と目が合った。

「久しぶりだね、咲間くん」

「うん。久しぶり」

 改めて挨拶を交わしたのち、一瀬を部屋に通す。
 事務所に入った瞬間、一瀬は瞳をキラキラさせて、部屋の真ん中でぐるぐると回り始めた。それはまるで、プリンセスの世界に入り込んだ少女のようだった。

「わぁ、すごい。お城の一室みたい。咲間くん、こんな場所で働いてるんだねっ」

 羨ましいなぁ、なんて心を躍らせている。リクルートスーツに身を包んでいる一瀬の夢を壊すわけにはいかなかった。働いているわけではないと否定はせず、曖昧に笑顔を作って頷いた。
 一瀬にソファに座るよう促し、二人分のコーヒーを淹れる。今日は、杏子はいない。一瀬に会うことも伝えていない。きっと、このことが知られれば、ひどく怒られるのだろう。また勝手に調査をしたな、なんて。
 しかし、今日はどうしても、二人きりじゃなきゃいけなかった。

「ブラックで大丈夫?」

「うん、ありがとう」

 砂糖が入っていないほうを一瀬のほうへ差し出し、僕もソファに座る。互いに一口飲み、一息つく。
 何から話すべきか――。コーヒーカップを手に持ったまま、逡巡する。

「咲間くん、いつからここで働いてるの?」

 なかなか話を切り出さない僕を見兼ねたのか、一瀬が口を開いた。

「えっと……大学一年生のころから、かな」

「へえ、そうなんだ。探偵さんとの出会いは?」

「大学入学してすぐ。ミステリー研究会ってサークル入ってて、呉宮さんは、そこのOBなんだ。もう大学卒業して十年近く経ってるのに、いまだにサークルに顔出してる」

「すごい。十年も経ってるのに?」

 一瀬は目を丸くした。
 僕も、当時は驚いた。ミス研の顧問かと思っていた人物が、まさか同大学のOBだったとは。そもそも、顧問だったとしても、そこまでサークル活動には関与しない、というのが原則らしく、先輩方にはかなり笑われてしまった。

「よかった。咲間くん、元気にやってるみたいで」

 一瀬の顔に、ふわりと笑みが広がる。照れ臭くなって、視線を誤魔化した。

「高校生のころから、ミステリー小説好きだったもんね」

 思わず顔を上げた。
 教室では毎日本を読んでいたし、部活は文芸部だったから、僕が小説好きということを知っていてもおかしくはない。しかし、いま一瀬は、ミステリー(・・・・・)小説と言った。

「なんで、知ってるの?」

 面食らった僕に、一瀬は微笑んだ。

「なんでだと思う?」

「なんでって……」

「焦ったいよね。ごめんね。でも、咲間くんには考えて欲しいことなの」

 なんで、一瀬は僕がミステリーを読むことを知っているのか。
 何を読んでいるのか聞かれたことはないし、僕のほうから読んでいるものを言ったこともない。
 じゃあ、なんで――。
 だめだ。思い出せない。
 白旗を上げようとしたその瞬間、脳裏に彼女の顔が浮かんだ。
 読み切れるかなぁ――。
 不安そうに、でもどこか嬉しそうに微笑み、その本を胸に押し当てた彼女の姿を、鮮明に思い出した。

「あっ……」

 そうだ。あのとき――。
 あのとき、僕は彼女に、東野圭吾の本を渡した。どの本だったか、タイトルまでは覚えていなかったものの、ミステリー小説であったことに間違いはない。

「西園さんに、貸した本……東野圭吾の、ミステリー小説」

「そう、正解」

「でも、なんでそれを一瀬が知ってるの?」

「いろはが、読んでたから」

「えっ。西園さん、あの本読んでたの?」

 あの日の保健室での会話は、気まずくならないための、その場しのぎだと思っていた。だから、本を貸したところで、まともに読んでもらえるなんて思っていなかった。実際に、彼女に貸したはずの本は、いまだに僕の元に戻ってきていない。

「たしか、二年生の夏前くらいかな。弁当食べ終わるなり、難しい顔してずっと本を読んでたの」

 何を読んでいるのか聞いたところ、彼女はこう言ったという。
 咲間くんから借りた本――と。

「わたしも(あたる)も、そのときはびっくりしたよ。いろはと咲間くん、仲良かったんだ、って」

「仲良かったってゆーか――」

「良かったんだよ。少なからず、いろははそう思ってたよ」

 珍しく、一瀬の声が強くなった。

「ねぇ、咲間くん。あの日、なんで保健室に来なかったの?」