「ねぇ。本当に行くの?」
「行きますよ。だってもう、予約もしちゃいましたし」
岸から聞き取り調査をした二日後、僕は『Renaissance Beauté』で、塩野哲太を指名予約していた。『ココ』が定休日のため、予約時間までは、呉宮探偵事務所で待機することにした。今回は美容室という場所で、相手に自分の身分を明かさない、いわゆる潜入捜査のようなものだ。
僕が一人で調査をするつもりだった――が、日南さんも、同じ美容室の女性美容師を指名で予約したらしい。スマートフォンで予約画面を見せられて、僕は唖然とした。加えて、備考欄には驚愕する文面が記されていた。
【彼氏と美容室デートで利用させていただきます。塩野哲太さんを指名している人です。席は出来れば隣でお願いします】
彼氏――状況からして、僕以外ありえない。
「いやいや、彼氏って……どーゆーつもり?」
「二人で行くんですよ? 関係性がはっきりしてないと、目立っちゃいますよ」
「だから僕一人で行こうと思ってたのに――それに、カップルが美容室デートなんて、するかな?」
疑問を投げかけてみれば、日南さんは大きく頷いた。
「しますよ、大丈夫です」
「えぇ、本当? なんか不安なんだけど」
「大丈夫ですって。わたし、したことありますから、高校生のころに」
「……えっ」
「……なんですか」
「あぁ、いや、なんでもない」
日南さん、彼氏いたことあるんだね――なんて言葉は、しっかり飲み込んだ。一歩間違えれば、セクハラになりかねない。しかし、こんなに扱いづらい少女と付き合ってきた男は、どれほどの大きさの器を持っているのだろう。いや、高校生のころということは、特に内面は気にせずに付き合っていたということもありえる。この美しさであれば、性格上引っかかるところがあっても、多少は許せてしまうのだろう。
あまりにも凝視しすぎたせいか、日南さんは目を細め、怪訝そうな表情で僕を見た。咄嗟に視線を逸らし、一つ咳払いをする。
「まぁ、いまさらキャンセルするのも、それはそれで目立つか。彼女だけ来てないってなると、喧嘩でもしたのか、とか変に気を遣われるだろうし」
「そーゆーことなので、本日限定で、わたしたちはカップルです。美容室では、わたしのことは杏子って呼んでくださいね」
「……杏子」
言ってから、頬が熱くなったのがわかった。
この世に生を受けてから二十二年――意識してきたわけではないが、いままで女性を下の名前で呼ぶことはなかった。不慣れなのを悟られないように、もう一度その名前を繰り返す。余計に、体に熱がこもった気がした。
「わたしは、春彦くんって呼びますね。それと、カップル設定なんで、敬語もなしで。付き合って三ヶ月で、出会いは大学のサークル。これでいきましょう」
あまりにも緻密な設定を提示する日南さん――もとい、杏子に思わず感心した。こんなにも、計画を練るようなタイプだとは思わなかった。
「なんか今日は、熱量がすごいね」
そう言えば、気恥ずかしくなったのか、杏子は視線をテーブルへと落とした。
「それは、まぁ――いろはちゃんを追い詰めた、張本人かもしれないから」
きゅっ、とスカートを強く握りしめた。
あまり顔には出していなかったものの、体の奥底から、湧き上がるような怒りがあるのだろう。単なる噂であればそれでいいのだが、いまはそれが、でっちあげられた噂という証拠もない。塩野哲太本人と顔を合わせ、話を聞くまでは、僕らが彼に、多少の憤りを持つのは仕方のないことなのだ。
「噂が本当だったら、その場で塩野さん刺しちゃうかも」
突然、物騒なことを言い放った。胸が、どくんと鳴る。
固まる僕に、杏子は、冗談ですよ、なんて軽く流した。
「でも、もし本当だったら、わたしは心底彼を軽蔑します。赤ちゃんからも、いろはちゃんからも逃げたんだから」
塩野哲太――彼が、潔白であることを祈るばかりだ。
ふいに、呉宮探偵事務所の時計を見上げる。
午後一時五十分――。予約時間は午後二時のため、そろそろここを出ても良さそうだ。
行こうか、と杏子に声を掛け、呉宮探偵事務所を出る。しっかりと戸締りをし、すでに五階まで上がってきていたエレベーターに乗り込んだ。『Renaissance Beauté』があるのは、呉宮ビルの三階。行先階ボタンの【3】を押すと、かごが下に降りてゆく浮遊感を感じた。
――と、突然、杏子の腕が、僕の左腕に纏わり付いた。
驚く暇もなく、エレベーターの扉が開く。その先には、真っ白な空間と――。
「いらっしゃいませ」
エレベーターと対峙するカウンターから、塩野哲太らしき、すらりとした体型の男が僕らを迎え入れた。