「風のような女性だったねぇ」
濃紺色のコーヒーカップに口をつけながら、呉宮さんがぼんやりと呟いた。唇が触れている口縁部は、純金で覆われている。ソーサーも、縁の部分は純金のようだ。以前、三万円はすると聞いたことがある。
ここにある物はすべて、豪華絢爛。あれもこれも、呉宮財閥の御曹司である呉宮さんが、大学の卒業祝いで父から贈呈された調度品らしい。ここ――『呉宮探偵事務所』も、そのうちのひとつだ。
平々凡々な大学生である僕が、なぜこんな場所にいるのかを説明するには、時間を少し遡らなければならない。
青春を犠牲にして、勉強に明け暮れていた僕は、晴れて第一志望の大学に入学し、その校門をくぐった。
勧誘合戦に巻き込まれ、両手いっぱいにチラシを抱えながらキャンパス内を歩いていると、興味をそそられるサークルを発見した。それが、ミステリー研究会だ。『ミス研』と大きく書かれた幟は、いまにも風で飛ばされそうだったが、台で固定され、何とか持ちこたえている。
他のサークルが活発的に勧誘を行う中で、ミステリー研究会は隅っこで長テーブルと椅子を並べ、そこに座る三人全員が手元の本に目を落としていた。
果たして、彼らは新入生を勧誘する気はあるのだろうか。そんな疑問を抱きながらも、僕はおそるおそる、高そうなスーツを身に纏った、顧問のような男に声を掛けた。
「あの……すみません、」
「はい?」
その男は本から視線を上げると、僕の顔をまじまじと見つめた。
「ミステリー研究会、ですよね。ちょっと気になったんですけど――」
「加賀恭一郎シリーズの作者は?」
僕の声を遮り、その男は唐突に問題を出してきた。
「えっ?」
困惑する僕に構わず、男はカウントダウンをし始めた。
これは、試されている――。
「東野圭吾」
そう答えれば、他の二人も視線をこちらへと向けた。
間違えた? ――いや、そんなはずがない。加賀恭一郎シリーズは、僕がミステリー小説にハマったきっかけでもある。間違えるはずがない。
「正解」
そう言われ、ほっと胸を撫でおろす。
易しすぎたかな、と男が呟くと、次はその隣に座っていた、細身で眼鏡の男が口を開いた。
「宮部みゆきの代表作を、三作答えてください」
「あぁ、えっと――『模倣犯』『火車』『レベル7』……で、いいですか」
「えぇ、問題ありません」
眼鏡の男は、満足げな表情で頷く。一目見たときには気がつかなかったが、かなり顔が整っている。眼鏡からコンタクトレンズに移行すれば、かなりモテそうな気がした。
最後に、気難しそうな女が、おぼろげに口を開く。
「綾辻行人先生の館シリーズに共通して出てくる、名探偵の名前は?」
うわっ、なんだっけ。
思い出せ、思い出せ――。
「えっと、たしか……島田――島田潔!」
「……正解よ」
答えると、女は悔しそうな表情で、ふたたび本に視線を落とした。
対して、眼鏡の男はにこやかにその場から立ち上がると、僕の手を取り、固い握手を――と、その瞬間、抱え込んでいた勧誘のチラシが数枚、手から離れ宙に舞った。
「うわぁ、それはまずいっ!」
眼鏡の男も、さすがに焦ったのか、僕の手を離した。強風に煽られ、高く空へと舞い上がってゆくチラシに手を伸ばす。女は、呆れたような顔でその光景を見つめていた。
しかし、僕がチラシを掴むよりも先に、違う誰かの手が伸びてきた。
チラシと共に、華麗に宙を舞っていたのは、スーツを身に纏った男だった。椅子から軽々と飛び、長テーブルを超え、僕のすぐ後ろで着地した。その手には、先ほどまで遥か遠いどこかへと飛んでいきそうだったチラシ数枚。
「すごっ」
思わず、声が出た。
「あっ、ありがとうございます」
こちらに振り向いた男に礼を言い、チラシを受け取ろうとした――が、男は手に持っているチラシを、いっこうに寄越そうとしてこない。
「あぁ……っと、あのぅ」
戸惑う僕を前に、その男はチラシを丁寧に折りたたみ、スーツの内ポケットにしまいこんだ。
「君、合格だよ」
「合格……?」
「君は、栄秀大学ミステリー研究会の通過儀礼であるミステリークイズを見事全問正解した。今日から、ミステリー研究会の一員さ」
よろしく、と手を掴まれる。
「わたしは、呉宮真之進。この大学のOBで、探偵さ」
探偵、という言葉に、思わず震えた。
ドラマや映画でしか聞いたことのないその言葉に、とてつもない高揚感を覚え、僕はこれからのキャンパスライフに胸を膨らませた。
「君の名前は?」
「咲間――咲間春彦です」
「咲間くんか。改めて、よろしく」
熱く固い握手に、身が引き締まった。
呉宮さんの後ろでは、桜の花びらが儚く散っていた。
彼との出会いは、三年前の春。強い風が吹く日だった。