妊娠してた、って――。最終電車に揺られながら、岸の言葉を(はん)(すう)する。乗っている号車はすっからかんで、僕と日南さんの二人きり。日南さんは項を垂らし、束の間の睡眠に入っている。一人で熟考するには、最適な環境だった。
 寝始めようとしている町を車窓越しに眺めながら、僕は五年前の夏祭りの日を思い出していた。
 わたしは、たったの一人も守れない、弱い人間だから――。
 そのときは、何のことについて言っているのかさっぱりわからなかった。しかし、岸の話を――いや、岸から聞いた、バスケ部内で広まっていたという噂を信じるのであれば、当時、お腹にいた我が子のことを言っていたと推測される。
 わからない。この話に(しん)(ぴょう)(せい)があるのか、ないのか。結局、最後まで彼女のことがよくわからないまま、彼女は僕たちの前から消えてしまった。
 不意に、ポケットの中のスマートフォンが震えた。岸からのメッセージだった。

〔今日は本当にありがとう。また近々飲みに行こう! 他のみんなも誘って!〕

 他のみんな、というのは、二年生のときのクラスメイトか、三年生のときのクラスメイトか、どちらだろう。どちらにせよ、僕には友達と呼べそうなクラスメイトが居ないのには変わりない。
 そうだね、と肯定的な返事をする気にもなれず、かと言って、やめておくよ、なんて白けるようなことは簡単に送れない。行動的で人気者の岸のことだから、人はすぐに集まる。僕がメッセージを送っても、既読すらつかなかった人たちでさえ、すかさず返事をするに違いない。
 なんて返せばいいのかわからず、既読すらつけないままアプリを閉じると、次に検索エンジンアプリを開く。
 ふと、隣に座る日南さんに視線を送る。寝息を立てているのが確認できた。今日は大学の授業もあって、加えて夜遅くまで酒の場(日南さんは飲んでいないが)にいたとなると、相当疲労しているに違いない。彼女の家の最寄り駅に着くまでは、そっとしておこう。
 視線を手元のスマートフォンに落とし、検索窓をタップする。そこに【西園いろは】とワードを入れて、検索を掛ける。一番上に出てきたサイトに入ると、スマートフォンの画面に、でかでかと彼女の顔写真が映し出された。こちらに向かって、無邪気に微笑みかける彼女の姿に、胸がじんわりと温められた。
 元気そうだね――。心の中で言ったのか、声にまで出していたかはわからない。だが、僕の頬はわかりやすく緩んでいたに違いない。他に乗客がいなくてよかった。
 画面を下へとスクロールしてゆく。【メッセージ】と記された下の入力フィールドをタップすると、ソフトウェアキーボードが表示される。文章を打ち込んで消し、打ち込んでは消し――四度目の入力で、ようやく【送信】をタップする。
 ――その瞬間、項を垂らしていた日南さんが、むくりと顔を上げた。

「あっ、ごめん。起こした?」

 慌ててポケットにスマートフォンをねじ込む。
 そんな僕は気にも留めず、目をこすると、まだ睡魔の残る細い目で僕を見てきた。

「いえ。最寄り駅の二駅前になると、自然と目が覚める性質なんです」

「へぇ。それは便利だね」

「……本当は、目覚めたくありませんでした」

 向けられていた視線が切れ、日南さんは先ほどの僕と同じように、車窓から見える夜の町を眺め始めた。

「いろはちゃんの夢を見たんです――小さいころ、泥遊びをして、両親にこっぴどく叱られたことがありました。そのときの夢です」

 泥遊び――いまの日南さんの風貌からは想像できない、かなりやんちゃな遊びだ。対して、西園さんが天真爛漫に泥と戯れる光景は、安易に想像出来た。

「わたしからお願いして付き合ってもらった遊びなのに、いろはちゃん、嘘ついたんです。『わたしから誘ったことだから、おじさんとおばちゃん、杏ちゃんには怒らないで』、って」

「ははっ。西園さんなら、そんなこと言いそうだね。誰に対しても、優しいイメージだったから」

「もっとも、いろはちゃんらしいですよね。久しぶりにいろはちゃんと話せた気がして……だから、本当は起きたくなかったんです」

「そっか」

 電車が停まり、扉が開く。他の扉から乗ってゆく人が数名いたものの、僕たちのいる号車には誰も乗ってこなかった。扉が閉まり、またゆっくりと、電車が走り出した。

「会いに行きませんか? この調査が終わったら」

「いや、僕はいいよ。行っても、話すことないだろうし」

「付いてくるだけでいいです。一人で行くのは、ちょっと勇気がいるというか」

 乞うような瞳で見つめられ、小さな迷いが生じた。彼女を前にしたら、僕はきっと、感情をむき出しにしてしまう――が、ここでかたくなに拒否をしても、勘繰られてしまうだろう。

「……まあ、うん。付き添いって形なら、いいよ」

「本当ですか?」

 ありがとうございますっ、と目をきらきらさせた日南さんを見て、思わず笑みがこぼれた。
 しかし、この調査のことを彼女に話したら、どんな反応をされるだろう。
 なんで勝手なことをするんだと、怒られるだろうか。はたまた、真実を知ろうとしてくれてありがとう、と感謝されるだろうか。考えてみても、怒った顔も、嬉しそうな顔も、思い浮かばない。
 ただ、光を宿さない暗い瞳で、僕を見つめる彼女しか想像出来なかった。