彼女は、泣いていた。
 目は潤んでおり、鼻は真っ赤に染まっている。しかし、彼女は、あっけらかんとして僕に微笑みかけた。

「――あ、咲間くんだ」

 どこからともなく聞こえてきた和太鼓と陽気な音楽を聞き、すっかり「屋台の焼きそば舌」になった家族のため、僕は自転車を走らせた。祭りが幕開けしたばかりということもあり、屋台の品揃えは豊富で、僕は焼きそばを購入して、すぐ帰るつもりだった。
 しかし、焼きそば屋のすぐ横――境内へと続く石段にちょこんと座り、放心状態の彼女を見つけときには、サドルに乗せかけていた尻を降ろした。
 いつもと雰囲気が違う。それは、紺色の浴衣を身に纏っているからではなく、普段は下ろしている髪を括っているからでもない。触れたら消えてしまいそうな儚さが、そこにあったからだ。
 一瞬、声を掛けるか迷った理由も、それだ。彼女は、そんな僕の気の迷いを知ることもなく、必死に取り繕った、壊れかけの笑顔を向けている。

「……なんで、泣いてるの」

 彼女のために、あえて触れないでおこうとも思ったが、さすがに無理がある。その涙の理由を、聞かないわけにはいかなかった。

「泣いてないよ」

 もはや、誤魔化しきれないところまで来ているというのに、彼女は強がる。
 僕はその場に自転車を停めると、一人分の間を空けて、彼女の隣に腰を下ろした。

「何か、あった?」

 僕ごときが、彼女の支えになれるわけがない。頭ではわかっていたつもりなのに、そんなセリフが口から溢れていた。
 僕たちの周りを、蝉の大合唱が囲んでいる。少しでも気を抜けば、彼女の言葉を拾えない。普段は出来ないくせに、彼女の横顔をじっと見つめたまま、その唇が動くのを待った。
 やがて、彼女の口角が力なく上がった。実はね――。

「彼氏にフラれちゃったんだぁ」

 恥ずかしそうに首を傾げ、また、弱々しく微笑んだ。
 彼氏――。そりゃ、いるか。いるよな。叫びたいところではあったものの、その事実を飲み込む。

「……そっか」

 どう慰めるべきか、そもそも僕が慰めてもいい立場なのか――悩んだ末、相槌を打つことしか出来なかった。
 よく考えてみれば、僕は彼女のことを何一つ知らないのだ。「それは辛かったね」なんて同情することも、「こうしたほうがいい」なんて具体的な解決案を出すことも、僕には出来ないのだ。単なる好奇心と、無責任な親切心で、中途半端なことをしてしまったことに後悔する。

「話聞こうか、とか言わないんだね」

「……ごめん」

 謝る僕に、そうじゃくて、と彼女がかぶりを振った。

「それでいいの。ありがとうね」

「えっ?」

「そっちのほうが、気が楽だから」

 虚空を眺める彼女の横顔には、嘘や強がりといった色はいっさい見られなかった。その代わり、いまもなお充血したままの瞳には、この世の全てを悟ってしまったような、諦めの色が浮かんでいた。
 いつも、学校にいるときの彼女は、明るくて、優しくて、あんなにも希望に満ちた顔をしているというのに――。目の前にいる彼女は、まるで別人のように思えた。あんなに人の話に耳を傾け、親身になって聞いてくれるような人が、発する言葉ではない。

「なんか、意外だな」

 思わず、声が出た。大きな瞳が、こちらを向く。
 目がばっちりと合った。そのまま、彼女の顔を見続けていたら、頬が緩んでしまいそうで、僕のほうから視線を逸らした。

「西園さん、いつもみんなの話聞いてるよね」

「うん。人の話聞くのは、嫌いじゃないから」

「だから、西園さんも、話聞いてほしい人だと思ってた」

 蝉の鳴き声だけが、鼓膜に響く。彼女の声を聞き逃したわけではない。
 おそるおそる、隣に視線を向けてみる。彼女の瞳はまだ、僕を捉えていた。しかし、その瞳は、心なしか泳いでいるように見えた。
 何か、おかしなことを言ってしまっただろうか――。口を開けたり閉じたりして焦る僕を前に、彼女はふっ、と笑みを溢した。移り変わってゆく彼女の表情に、心が右に左にと大きく揺さぶられる。

「やっぱり、好きだな」

 彼女が何気なく口にした一言に、僕は心をガシッと掴まれた。

「咲間くんって、目に見えるものだけじゃなくて、見えないものも覗き込んでくれるよね。なんだかそれ、すごく安心する。好き」

「……ってことは、話、聞いたほうがいい?」

「ううん。それは大丈夫。そうやって、わかってくれる人がいるってだけで、わたしは大丈夫」

「西園さんは、本当に――いい人だよね」

「そんなことない。わたしは全然、いい人じゃないよ」

 僕たちの前を、多種多様な人々が過ぎ去ってゆく。しかし、僕たちのように、神妙な面持ちで歩いている人は一人もいない。皆、楽しそうに笑っている。その手には、わたあめだったり、あんず飴があり、時折それを口に運びながら、友人や恋人、家族と他愛もない話をしているのだ。
 ここは、夏祭りの会場だ。賑やかなのは当たり前で、僕たちが異質な空気を放っているのがおかしい。しかし、僕は――僕たちは、この人たちのような、「自分が楽しければそれでいい人」に日々苦しめられている。すれ違う人々が、どんな人間なのかも知らないくせに、自分以外の人間の大半が、そういった思考の持ち主であると感じてしまう。
 彼女が、そんな人々の姿を見て、何を感じていたかはわからない。しかし、小さな声で言ったのだ。

「わたしは、たったの一人も守れない、弱い人間だから」