しばらく逡巡したのち、岸は重い口を開いた。

「いまから話すことは、俺らバスケ部の間で一時的に広まった、根拠のない噂だ」

「うん」

「その噂に気づいた顧問が、すぐに歯止めをかけたから、出どころも、それが本当なのかどうかも、わかんねぇ」

「大丈夫です。それでもいいです」

 諦める気配のない僕たちに、岸はようやく話す覚悟をしたのか、ふたたびジョッキに手を伸ばす。それを一口飲むと、吐き出すように言った。

「――妊娠してた(・・・・・)、って」

 思わず、息を呑んだ。
 岸の言葉に現実味を感じず、置いてきぼりにされる。それは、日南さんも同じなようで、開いた口が塞がらない。そんな僕たちには目もくれず、とりあえずこの話題を早く終わらせようと、岸は言葉を続ける。

「一年の春から二年の夏まで付き合ってた人がいて、そいつとの子を(はら)んだんじゃないかって。でも結局、相手が(おろ)してくれって言ったから、中絶せざるを得なくなった。それで、あんなことになったんじゃないか、って。わざわざクリスマスを選んだのも、相手に対しての戒めでもあったんだろうな。毎年クリスマスが来るたびに、いろはのことを思い出しちまうんだから」

 想像よりも深刻な話に、鬱々とした空気が流れる。その空気を打ち砕くように、日南さんが口を開いた。

「付き合っていた人がいたっていうのは、本当なんですか?」

「あぁ、それは本当。俺も知ってる人だったし。でもまさか、一年以上も続いてたとは驚きだったな。もし、いろはがその人と付き合ってるって知ってたら、俺も告ることはなかったんだけど」

「その、西園さんと付き合ってた人って、僕も知ってる人?」

「あぁ、どうだろう」

 (しお)()っていう、二個上の先輩なんだけど――。
 初めて聞く名前だった。

「ウチの学校の先輩。俺が一年のとき、キャプテンもやってた。いわば部内恋愛ってやつだよ。まぁ、(てっ)()先輩――塩野先輩は、群を抜いたプレイボーイで有名だったから、そんな噂が流れてきたら、信じちゃう人は信じちゃうんだよな」

 となると、あの夏、西園さんを苦しめたのは、その塩野哲太という男なのだろうか。そして、そのときにはすでに、西園さんの腹の中には、その男との赤子がいたのだろうか。
 ――気づけなかった。気づけるはずもないのだが、気づけなかった自分に対して、無性に腹が立った。先ほどまで気にしていなかった店内の喧騒にさえ、苛立ってくる。

「その塩野って人、会えないかな?」

「えっ?」

「会って、その噂が本当なのかを確かめたい」

「まあ、会えなくはないと思う。あの人、燈色町で美容師やってるから」

 ちょっと待って、と岸がリュックのポケットからスマートフォンを取り出した。そして、何やら操作をすると、こちらに画面を向けてきた。
 そこに映っていたのは、Instagramのプロフィールだった。濡れ感のある紫髪をし、整った容貌の男が丸いアイコンの中から、こちらを見つめている。名前は【塩野哲太/Tetta Shiono/美容師/燈色町/東京/メンズカット/メンズパーマ/マッシュ】と、検索に引っかかりやすくするためか、様々なワードが羅列されている。
 そして、僕が一番驚いたのは、自己紹介欄に書いてあった、美容室の名前だった。
Renaissance(ルネサンス) Beauté(ボーテ)】――呉宮ビルのテナントに入っている、評判のいい美容室だった。

「これ、ダイレクトメッセージとかでも予約受け付けてるみたいだから、一回、客として様子見に行くのもアリなんじゃね?」

「なるほど」

 すぐさま自分のスマートフォンを取り出し、Instagramを開く。ほぼ閲覧目的で使っているアカウントのため、フォロー数とフォロワー数の差はかなり極端だ。とりあえず、岸に見せられたアカウントをフォローする。すでに百を超えたフォロー数に、プラスで一人追加された。

「ありがとう、岸」

「いや……礼を言うのは俺のほうだわ。マジでサンキューな」

 照れ臭そうに礼を言う岸の真意がわからず、首を傾げる。

「いろはのこと思い出して、会いてぇって気持ち吐き出しても、いいんだって思えたよ。あいつだって、忘れたフリされんのキツいだろ」

「あぁ」

 五年前のあの日のことを思い出した。悪気なく、彼女への想いを吐露したあの日、岸は別室へと連れて行かれた。特別指導が行われる際、対象生徒が閉じ込められるような、小さな社会科準備室へと。
 自然と、抱かなくていい罪悪感を覚え、今日僕と話す日まで、彼女のことは口にしないように心掛けていたのだろう。岸もまた、自分の記憶から、彼女を消そうとしていたに違いない。

「こうやって、本当のことが知りてぇって気持ちで、いろはと向き合おうとしてくれてること、俺は嬉しく思う。賛否両論あるかもしれないけど、少なくとも俺はお前の味方だ」

 ガシッ、と岸の両手が僕の肩に乗った。

「咲間。俺の気持ち、お前に託すよ」