「――この件につきましては、ご家族からの要望もありまして、詳細は伏せさせていただきます。非常に悲しいことが起きてしまいましたが、このことについて、憶測や噂で軽々しく語らぬよう、皆さんにはお願い申し上げたい」

 何も、理解出来なかった。
 さすがにドッキリだとは思わなかったが、信じられなかった。
 焼売のような顔をした校長には、いつもの笑顔はなく、重力によって頬の肉は垂れ下がっていた。端から校長の話を聞いていた先生たちが天を仰ぎ、目頭を押さえているのを見たときは、これはとんでもないことが起きてしまっと思った。
 校長が話を続ける中、耐え切れなかった離脱者たちが、養護教諭や学年主任に連れられて、体育館を後にする。
 僕も、立っていることが精一杯だった。鼻がつんとして、視界が歪み始めたときは、さすがに焦った。いまにも濡れそうな顔を、誰にも見られぬようにと下げると、その瞬間、目に溜まっていた涙が、ぽつりぽつりと、滴となって落ちてゆく。
 なんでお前が泣いているんだ――そんなことを指摘されそうで、周囲に最大限の注意を払いながら、濡れた目や頬を指で拭った。
 緊急の学年集会は十五分程度で閉会した。教室に戻るまでの間、普段であれば騒々しくなるはずだが、誰一人口を開かなかった。皆一様に項を垂らし、覚束ない足取りで階段を上ってゆく。まるで、ゾンビの行列だった。途中で、足を滑らせ転倒し、そのまま泣き崩れている女子生徒がいた。たしか、彼女と一年生のときに同じクラスで、そこそこ仲が良かった――。彼女を想ってそっとしまったはずの涙が、転倒の弾みで溢れ出てしまったのだろう。その女子生徒は、あとから上ってきたクラス担任に支えられ、保健室へと連れていかれた。
 教室に戻っても、空気は変わらなかった――いや、より一層、張り詰めたものになっていたかもしれない。三時間目の授業は、自習という名の「心の整理」の時間に()てがわれた。この空気を変えようと、図々しいお調子者が出てこないか。出てきたときには、刃物のような鋭い視線を、全員で突き立てたやろうと、誰もが思っていたに違いない。

「はははっ」

 静まり返っていた空間に、誰かの笑い声が響いた。一斉に、音の根源である窓際の一番後ろの席に目をやる。
 彼女がマネージャーを務めるバスケ部のプレイヤーで、その中でも、かなり距離の近い人物――(きし)(ゆう)()だ。その手にはスマートフォンが握られており、みんなの視線に気づくと、音量を上げ、こちらに画面を向けてきた。どうやら、先ほどまで動画を観ていたようだ。
 僕は、岸とはさほど席が遠くなく、その画面は鮮明に目に入ってきた。
 廊下に、無残に散らばる弁当のおかず。その前で四つん這いになり、わかりやすく項垂れる女子生徒。おそらく、手が滑って、床に弁当を落としてしまったのだろう。そして、それを見た撮影者である岸が、わざとらしく大笑いする。その声に気づいた女子生徒が、くるりとこちらを振り向く。

『あっ、撮ってるでしょ!』

 動画の中から聞こえてきた声に、どうしようもなく胸が熱くなった。――彼女だ。
 立ち上がり、カメラに向かって走ってくる彼女が映ったあと、しばらく映像が乱れる。ボフボフ、と動画特有の風を切る音から、追いかけっこでも始まったのだろう、ということが安易に想像出来た。

『ごめんごめん、悪かったって!』

 そんな岸の声と共に、映像は彼女をふたたび映し出す。先ほどの遠くからのアングルではなく、少し上から、至近距離で撮っているものだ。目を細めて、こちらを睨みつけるような顔をしたあとに、恥ずかしくなったのか、彼女はぷっと吹き出した。

『ほら、返せ返せ!』
『返せって、これ俺のスマホなんだけどっ』
『うるさいっ』

 いつもであれば、なぜこのようなイチャイチャ動画を見せつけられなければいけないんだと、そう思っていただろう。しかし、彼女はもう、いない。僕たちの青春から、彼女は逃げ去ってしまったのだ。この動画のように、彼女の姿を収めることは、この先一生叶わない。
 動画は、彼女のとびきりの笑顔で止まった。それを見て、岸はもう一度、笑った。

「こいつ、嫌がってるくせに、こんな笑顔なんだぜ? マジでいい奴だったよなぁ。会いてぇなぁ」

 何気なく、発せられた言葉だということはわかった。何も、狙って言ったわけではない。だから、岸も、その直後の光景を、ただ呆然と眺めることしか出来なかったんだ。
 洟をすする音、嗚咽、泣き叫ぶ声、目を押さえたまま教室から飛び出す者――。
 岸が口にした言葉は、全員が胸にしまい込んでいたものだった。言葉にしてしまえば、彼女の一件が現実(リアル)であるということを身にしみて感じてしまう。いまの脆い精神状態の中で、岸の言葉は、あまりにも残酷だった。
 その日、僕のクラスで最後まで授業に参加したのは、三十六人中、僕を含め十人だけだった。それ以外の者は、保健室で休んだり、親に迎えに来てもらって早退したりした。岸は、みんなの心を余計に刺激したとして、別室移動を余儀なくされた。
 そのとき教室に残っていたのは、ある程度ダメージの少ない者だけだった。僕を除いては――。