「ねぇねぇ! あの人、この前文学賞受賞してた若手作家さんじゃないかい?」

 気づけば、僕たちのテーブルの傍に、悦子さんがやって来た。窓の外を通り過ぎていった柳原の背中を見つめながら、僕の背中を容赦なく叩く。適当に返事をすれば「なんで教えてくれんかったのぉ」と、心底悔しそうに眉を顰めた。が、新たな来客に気づくと、小走りで入口へと去っていった。
 日南さんと二人きりの空間になる。ふたたび、オレンジジュースに勢いよく吸いつくと、わずか二口で飲み干した。カラン――と氷の鳴き声が、グラスの中から聞こえてくる。

「日南さんさ、」

「はい?」

「あの態度、さすがにないよ」

 指摘すべきか迷ったが、随所で垣間見える未成熟で幼稚な言動に、(わだかま)りがどんどん大きくなっていき、つい口から本音が零れていた。日南さんは、何に対しても後ろめたさがない様子で、訝しげに眉を寄せる。

「……何のことでしょう」

「柳原からこれといった情報が引き出せないとわかった途端、不貞腐れたでしょ。そーゆーの、子どもみたいだからやめたほうがいいと思う」

「不貞腐れてはいません。あまりにも不毛だったので、落胆していただけです」

 屁理屈にため息が出そうになるも、なんとか飲み込む。少々曲がった性格は、美しい外見で覆われており、一目見ただけでは気がつかない。
 ――本当に、大丈夫なのだろうか。この先が思いやられる。

「どちらにせよ、あんな露骨に態度に出されたら、協力してくれる人もしてくれなくなるよ」

 これにも、納得のいっていない様子で口元を歪める。まるで、友達と喧嘩をし、先生に叱られているときの小学生のようだった。
 それだよ、それ――なんてことは言えず、小さく息を吐く。

「……わかりました。以後、気をつけます」

 意外にも、日南さんは素直だった。というよりかは、このままでは調査を打ち切りにされてしまうかもしれない、と焦りだったのかもしれない。すみません、と頭を下げると、垂れた横髪を耳に掛け直した。ここまで素直になられては、これ以上は何も言うことがない。
 僕が呆気に取られている間に、日南さんはオレンジジュースとチーズケーキ、それからココ特製パフェを通りすがった悦子さんに注文した。

「ちょっと、頼み過ぎじゃない?」

 そう訊けば、テーブルの上に置いてあった一万円札を拾い上げ、僕の前に突き出す。札の右下部に、渋沢栄一、と記されており、やっとその人の名前を思い出した。
 ああ、そうそう。そんな名前だった――なんて、言っている場合ではない。

「それ、もしかして使う気?」

「逆に、使わない気ですか?」

 先ほどまでの反省の色は微塵も感じられず、強気に出てきた彼女に、思わず頭を抱えてしまった。

「いやっ、それはさ、返すもんでしょ。僕、返すつもりだったし」

「なぜです? 柳原さんは調査代にでも使ってくれと、そうおっしゃっていましたよ」

「そうだけど、さすがに返さないと。調査にも協力してくれて、お金まで払わせるなんて、申し訳ないよ」

 日南さんの手から一万円札を奪取すると、自分の財布の中へとしまう。今度会うときにでも、返そう。
 目の前の日南さんはというと、不満そうにため息をつき、窓の外を見つめていた。また沈黙が始まるのかと、陰鬱な気分になる。
 しかし、視線を窓から僕に移すと、日南さんはおもむろに口を開いた。

「信憑性の高い情報を提供できなかったための、慰謝料だと思いますけど」

「いやいや、慰謝料って――」

「それに、あの人作家なんですよね? きっと、一万円なんて安いもんです。返すのは逆に失礼だと思いますよ」

 ――また、屁理屈だ。

「あのさぁ、日南さん。君はちょっと、人の言葉をそのままで受け取りすぎだと思うよ。その言葉の裏には、どんな気持ちが隠されているのかを、ちゃんと考えなきゃ」

 説教じみた物言いになってしまうのは、やはり、日南さんが子どもに見えているからだろう。
 次はどのような反抗的な態度を見せてくるのか――。身構えていると、日南さんはテーブルに両腕をつき、前のめりになった。

「咲間さんは、逆に考えすぎだと思います」

「えっ」

「言葉の裏ばかりを気にしていたら、表に見えているものを見逃すことになりますよ」

 その言葉が、すとん、と胸の中に落ちてきた。
 妙に腑に落ちてしまったことが悔しくて、苦しくて、動揺してしまった。ここで、はいそうですね、なんて言ってしまえば――僕は、いまこの調査をしている意味がなくなってしまう。
 その言葉を振り払うように、頭を軽く振った。

「とにかく、この一万円はだめだ」

「でも、もう頼んじゃいましたよ」

 ねだるような瞳が、僕を見つめる。

「はぁ。いいよ、ここは僕が払うから」

 日南さんの顔が、ぱぁっと明るくなる。美少女の幼気な笑顔に、不覚にも心がくすぐられてしまった。
 それを紛らすように、先ほど柳原から得た情報の話題にすり替える。

「さっきの話、何人か連絡先知ってるから、メッセージ送ってみるよ。返信があるかは、わからないけど……」

「お願いします」

 そのあとは、日南さんがデザートを食べる光景を、ただただ眺めていた。口の端にクリームをつけて、幸せを噛み締めるような表情を見せるその姿に、またもや僕は彼女を重ねてしまった。
 ――言葉の裏ばかりを気にしていたら、表に見えているものを見逃すことになりますよ。
 ふと、日南さんの発言が頭をよぎった。
 実際、その通りだ。僕は、すでに()(てい)したものから目を背け、自分にとって都合のいい物語を創ろうとしているだけだ。