いまいちぴんと来ていない日南さんに、柳原は幼い子どもに向けるような、温かく柔らかい笑みを浮かべる。

「とにかく、みんなのことを愛していたし、何より、愛されていたんです。差別や偏見なんて言葉、西園さんの辞書の中には、ないんじゃないかって思うくらい」

 横目で、日南さんの様子を窺う。柳原をまっすぐ見つめるその瞳は、濡れ、光っていた。ふと視線を落とすと、目の前のオレンジジュースに手を伸ばし、湧き上がってきそうな何かを体内に引き戻すように、ものすごい勢いでストローに吸いついた。そして、オレンジジュースを半分ほど体内に注入し終えると、そっとテーブルにグラスを置き、もう一度、柳原へと視線を向ける。功をなしたのか、瞳に先ほどまでの潤いは感じられなかった。

「いろはちゃんが優しいことくらい、幼馴染だったわたしがいちばん理解しています。その優しさを無碍に扱われたり、苛まれたり――つまり、《《いじめ》》のようなことは、なかったんでしょうか?」

 柳原と顔を見合わせる。
 そんなことあったか? いや、僕は少なくとも聞いたことがない。そうだよな。
 目でそのような会話をしたあとに、僕たちはただの同級生に過ぎなかったことに気がつく。西園さんのことについて、こんな真剣に語っているというのに、そのあらゆる話にも確証といえるものがない。

「……僕たちは、そのような話は聞いたことがありません」

 俯きがちに、柳原がそう言う。

「いろはちゃんから、何か相談されたことはありますか? どんな些細なことでもいいです」
「そういったこともなかったです」
「何年も前のことですよ。よく思い出してください」

 日南さんの刺々しい言葉に気圧されたのか、柳原は少々体を反らし、困ったように顬《こめ》|顬(かみ)を掻いた。

「西園さんが、間違っても僕に相談することはなかったです。僕にとっては特別な存在でも、彼女からしたら僕は、やはりただのクラスメイトに過ぎなかったんです」

 前のめりになっていた日南さんは、ゆっくりとソファの背もたれに身を預けると、あからさまに肩を落とした。
 その姿は、ねだったおもちゃを買ってもらえなかったときの子どものようだった。
 そして、彼女もまた、君と同じように子どもだ――ふと、昨日、呉宮さんに言われたことを思い出す。この数週間で、日南さんが年相応の成熟に達していない、ということは、言動を見ていて明らかだった。これと同じと言われては、心外だ。
 僕は保護者になった気分で、柳原に、ごめん、と詫びを入れる。柳原は、柔らかい表情を戻すと、ゆっくりと首を横に振った。

「ごめんね。自分が思っていた以上に、僕は西園さんのこと、何も知らなかったみたいだ」

 子どもをあやすような優しい声で、柳原は日南さんに言った。日南さんは、肩を落としたまま、ただ唇を噛み締めるだけで、柳原の言葉に反応は示さない。
 窮屈なこの状況からの出口を探るように、柳原はしばらく逡巡していた。
 そして、もしかしたら、と口を開く。その声に(いち)()の望みを感じたのか、日南さんがようやく顔を上げた。

「もしかしたら、バスケ部の人たちだったら、何か知っているかもしれない」
「……バスケ?」
「あぁ。西園さん、バスケ部のマネージャーだったんだ」

 不思議そうに首を傾げた日南さんに、柳原の言葉の補足をする。
 柳原はそのまま、言葉を続けた。

「あの日――西園さんのことが学年集会で告げられた日、放課後にバスケ部が空き教室に集まって、ミーティングしてたんだ。何を話していたのかまでは聞こえなかったけど、きっと、西園さんのことだと思う」

 初耳だった。
 あの日、帰りのHRが終わるなり、早々に学校を出た僕は、そのあとの学校の状況など知らなかった。

「バスケ部だった人に訊けば、何かわかるかもしれないってことか……」
「うん……でも、ごめん。僕、バスケ部の友達がいなくて、いま連絡取れる人は一人もいないんだ。卒業と同時にクラスのグループチャットも抜けちゃったから」

 頭の中で、思い出せる限りのバスケ部員を浮かべる。浮かぶものの、話したことがない――というよりかは、苦手意識が強く残っている人のほうが多い。三年生のころのグループチャットであれば、まだ残っている。が、突然連絡をして、返してくれるような人たちではないだろう。

「あっ。いけない」

 突然、柳原が腕時計を見て、焦ったようにスーツの内ポケットから長財布を取り出した。

「ごめんっ、そろそろ出なくちゃ――これで足りるよね?」

 ぽんっ、とテーブルの上に一万円札が置かれた。まだ見慣れない新札だった。のっぺりとした顔のおじさんが、こちらを向いている。
 あまりの羽振りの良さに、日南さんも唖然としていた。

「あ、いやっ、さすがに多すぎるよ。それに、調査に協力してくれたんだから、今日くらいは――」
「気にすんなって。残りは、調査代にでも使ってくれ」

 ――頑張れよ。
 鼓舞するように僕の肩を叩くと、柳原は片手を上げながら、ココから出ていった。