「栄転、おめでとう!! 佐伯くん!!」
「ありがとうございます! 僕が結果を残せたのは、全て平島支店の皆様によるサポートのお陰です。寂しい気持ちでいっぱいですが、東京本社に異動しても、より一層頑張って参ります!」
「………」
大手商社の田舎支店…もとい、平島支店。
従業員数12名の小さな支店から、本社に異動を命じられた人が出た。支店始まって以来、初めてのことだ。
今回異動するのは、営業担当の佐伯祐司。30歳。
かなりやり手な営業担当で、平島支店では考えられないくらいの新規顧客を捕まえ、数々の実績を積み重ねて行った。
そんな佐伯の様子を一番遠くから眺める、同じく営業担当の新開希未。28歳。
同僚たちが佐伯に花束などを渡している様子を、窓にもたれかかりながら呆然と眺めていた。
「ほら、新開。君は良いのか? 佐伯と仲が良かっただろ?」
「…仲が良かったからこそ、良いのです。ここから眺めているくらいで」
「とか言いつつ、寂しくて悲しくて、本当は沢山話したいんじゃないの?」
「なら、支店長。そう思うなら佐伯くんの異動、取り消してきて下さい」
「………それは、難しいな」
「でしょう」
軽く頭を掻きながら、支店長は佐伯を取り囲む輪に入って行った。
皆が佐伯の肩を叩きながら、思い思いに言葉を掛ける。その光景に、新開はただただ溜息をつくしか無かった。
**
誰も居なくなった静かな支店に、新開が1人。
他の従業員は皆、佐伯の送別会に向かった。
「……」
新開はデスクに置かれたお菓子の詰め合わせに軽く手を触れる。佐伯が11人全員に用意した、お礼の品だ。
その詰め合わせの外袋には、佐伯からのメッセージが書かれたカードが貼り付けられている。
《新開さんへ。体には気を付けて。 佐伯》
決して綺麗だとは言えない佐伯の文字。
メッセージカードに触れると、溢れて止まらない新開の涙が文字を滲ませ始める。
佐伯と新開は良きライバルであり、同僚であり、友人だった。
小さな支店の中で切磋琢磨し、時に支え、慰め合い、互いを鼓舞する関係。
支店が独自に行っていた実績ランキングは、いつも1位が佐伯で、2位が新開。
佐伯には勝てないと分かっていたけれど、その背中を追いかけるのが楽しくて、日々前向きに仕事に取り組めていた。
「…佐伯くんの馬鹿」
カードの文字が滲んで読めなくなるほど、零れ落ちる涙。
実は佐伯、異動辞令が出たことを新開に報告しなかった。
ずっと新開にだけ事実を隠されており、異動のことを知ったのは今朝の話。
栄転だの…異動だの…送別会だの…。
そんなことを急に言われても、全く理解が追い付かない。
だから、新開は送別会には参加をしなかったのだ。
「…馬鹿、馬鹿」
滲んで読めなくなったメッセージカードをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。
丸めたカードがきちんとゴミ箱に吸い込まれたのを確認してから、乱暴に椅子に腰を掛けてデスクに顔を伏せた。
大切なライバルであり、友人だと思っていたのに。自分だけ佐伯の異動を知らなかった事実が悔しくて、悲しくて。
何より、新開は佐伯に特別な感情を抱いていたから。
それが余計に辛くて、苦しくて、涙が止まらない。
「…何で、言ってくれなかったんだろう」
そんな、佐伯にしか分からないことを呟く。
誰もいない支店。
新開はデスクに伏せたまま、子供のように大きな声で泣き叫んだ。
**
時刻は21時を過ぎていた。
泣いてそのまま眠っていたことに気付いた新開は、飛び起きて身の回りを片付けて支店を後にする。
今頃、送別会は2次会といったところか…。
そんなことを考えながら駅に向かって歩き始めると、背後から新開を呼ぶ声が聞こえてきた。
「新開さんっ!!!」
真っ暗闇の中に見える人影。
その声の主は足早に駆け寄り、あっという間に新開の隣に立つ。
「……さ、佐伯くん? な、何で居るの」
肩で呼吸をしている佐伯は大きく溜息をついて、新開の肩に腕を乗せた。
左頬だけを上げ、苦しそうな表情の佐伯は、声を詰まらせながら言葉を発する。
「や…新開さんを探してた。……家まで行ったんだけど帰ってなかったみたいだったから。ここに戻って来たんだ」
「そ、そんなの…。連絡くれれば…」
「したよ。何回も」
「えっ」
その言葉に焦ってスマホを取り出す。
無音設定にしてあり気が付かなかった新開。スマホには佐伯からの着信が4回入っていた。
「ご…ごめん…」
「いや、結果的に会えたから良いんだ。…今日は、何で来なかったの。送別会」
「な…何でって。大体、佐伯くんが異動することを今日知ったんだよ? …いきなり送別会なんて言われても心が追いつかないよ。…な、何でさ、私に教えてくれなかったの?」
「………」
申し訳程度に設置されている街灯だけが新開と佐伯の2人を照らす。
車通りも少ないこの場所には、小さな虫の声だけが響き渡っていた。
佐伯は腕を組み、少し顔を俯かせる。
そして、小さく…小さく。虫の声よりも小さい声で囁くように口を開いた。
「…ごめん、実は言えなかった。泣く自信があったから」
「……え?」
その言葉通り、佐伯の目からは大粒の涙が1粒ほど零れ落ちる。
街灯の光が反射する涙に、いつもと違う佐伯の表情。
新開の肩に乗せたままの佐伯の腕は、小さく震えていた。
「…何で泣いているの」
「聞くなよ、そんなこと」
佐伯は溢れる涙を拭い、小さく溜息をついて上を見上げる。
空は曇っているようだ。
月がどこにあるのかさえ、分からない程に。
「…ていうか、佐伯くん。送別会に本人不在ってどういうこと。それで良いの?」
「…みんな2次会に行ったけど、送別会という名目は最初だけだよ。2次会以降は飲むだけだし。良いじゃん」
「そうだけど…何か違うじゃん」
「違わないよ」
怪訝そうな表情の新開に、佐伯は泣き笑いを浮かべる。
そしてニコッと子供のような笑顔で、新開の手を取った。
「一緒に帰ろう」
「……」
新開の返答を聞かずに歩き始める佐伯。
仄かにアルコールの匂いがするものの、酔っぱらっている素振りは無い。
いつも通りの足取りと、言葉遣い。
だけど少しだけ赤い、耳と頬。
「…新開さん、異動のことを隠していたのは、本当に申し訳なかった。…言わなくても、どこかで漏れると思っていたんだけど…そんなこと無かったんだね」
「私が外回りばかりだからじゃない? 自分のデスクに座って仕事することなんて、殆ど無いし」
「…そうだね。実はそれも、本当は分かっていた」
「……」
車も人も通らない。
この世界には新開と佐伯の2人しかいないのではないかと、錯覚をしてしまうほどの静寂に…新開はつい、時間が止まることを願ってしまう。
何気に、初めて繋いだ手。
新開の手を包み込むような佐伯の大きな手。それに意識を向けると、次第に胸が熱くなってくる。
「…佐伯くん」
「何?」
「東京、行かないでよ」
「……」
思わず漏れ出た本音。
ハッと我に返り、口元を覆う新開は、すぐに佐伯の方を向いて弁解をした。
「いや、ごめん! 何を言ってるんだろうね、私」
「………」
「栄転…凄いよ。私、ずっと佐伯くんの背中を追っていたからさ。誇らしさもあり、悔しさもあり…感動もあり…何とも言えないや。ここから東京まで、日帰りでは困難な程に距離があるけれど…。私はここで、佐伯くんのことを応援しているから。頑張ってよ、東京本社でも」
「新開さん…」
お互い握る手に力だけが入り、訪れる…無言の時間。
「……」
「……」
暫くそのまま歩き続けていると、ふと佐伯が足を止めた。
「…佐伯くん?」
そして、唐突に言葉を発する。
「新開さんのことが、好きだ」
「……えっ?」
目をまん丸に見開いて驚いている新開から手を離し、そのままゆっくりと身体を抱き締めた。
突然の出来事に、新開は頭がフリーズする。
「……佐伯くん…」
徐々に現在の状況を理解し始めると、次第にジワッと涙が滲み始めた。
滲んだ涙をそのままに、新開も同じく、そっと佐伯を抱き締める。
「………」
静かな路上に2人…。
街灯の灯りだけが、2人を静かに見守っていた。
「新開さんのことが、ずっと好きだった。だけどそれ以上踏み込んではいけない気がして…ずっと言えなかった」
「佐伯くん…私も好きだった。私も同じで…ずっと言えなかったの。ライバルとしての関係も崩したくなくて、もう長いこと…この想いを隠してた」
お互い抱き締める腕に力が入る。
両片想いだった、平島支店の営業担当の2人。
仕事を優先し続けて来た2人だからこそ、今このタイミングで想いが出てくる。
「僕さ、東京行って…新開さんと離れるのが嫌で、そんな現実から目を背けたくて。それで…東京に異動になること、新開さんに言えなかった。…馬鹿だよね。言わなくても、バレることなのに」
歩道のど真ん中に突っ立ったままの2人を、ごく稀に車が横を通り過ぎる。
しかし2人はそれに目もくれず、夢中で抱き締め合う。
「………」
佐伯はそっと腕を上げ、新開の長い髪の毛を優しく撫でた。
ふわっと香る甘いシャンプーの香りに、佐伯は思わず唇を噛む。
「…新開さんの居ない送別会なんて楽しくないし。何より、どうせ今日が最後なら伝えたいと思った。ずっと言えなかったこの想いを。…ただ、新開さんも好いてくれていたことに…驚いたけれど…」
「……不器用だね、私たち。私も気が付かなかったよ、まさか両片想いだっただんて」
「両片想いって何?」
「お互いがお互いに片想いをしていることだよ、佐伯くん…」
明日の朝、佐伯は東京に旅立つ。
別れの直前に知った相手の想いに、胸が焦がれてどうしようもない。
「…歩こうか」
「うん」
抱き締めていた腕を緩め、再び手を繋いで歩き出す。
歩いている最中、2人は沢山の思い出話をした。
営業に失敗した時のこと。
上司にめちゃくちゃ叱られたこと。
疲労が溜まりすぎて、誤って側溝に落ちたこと。
当時は笑いごとでは無かったけれど、時間が経過した今では、ただ笑い話。
新開と佐伯の2人にしか分からない。
2人だけの、共通の出来事。
ライバルとして、友人と過ごしてきた。
かけがえのない…大切な思い出。
**
歩き続けた2人は、駅前に辿り着いた。
駅舎の前に設置されている大きな噴水の縁には、沢山のカップルが腰を掛けおり、各々が逢瀬を重ねている。
「……新開さん」
「…何」
噴水から少し離れた場所にあるベンチが空いていた。
そこに新開と佐伯も腰を掛け、お互いの身体にもたれ合う。
仄かに感じる体温。
それにまた、2人とも静かに涙を流す。
「何で、泣いているの」
「そういう佐伯くんこそ」
傍から見れば、別れる寸前のカップルそのもの。
まさか先程両想いだったという事実を知り、しかも明日から片方は遠くに行ってしまうなんて、誰も予想すらできないだろう。
駅の方から電車が入って来る音楽が聞こえ始めた。
ガタンゴトン…と音を鳴らしながら、徐々に速度を緩めて停車をする電車。
それを見た新開は、ふと言葉を漏らす。
「佐伯くん、あれに乗って行くの?」
「…うん。あれに乗る」
「…そうなんだ。…今日の朝まで佐伯くんが異動することを知らなかったのに。何だか、展開が急すぎて…頭が追い付かないや」
「……」
また、2人の間に訪れる静寂。
小さく溜息をついた佐伯はそっと新開の肩を抱いて、呟くように言葉を発した。
「……遠距離は、嫌?」
「……え?」
「僕、このまま終わりにしたくない」
「……」
予想外の言葉に、新開の身体が固まる。
そしてより多くの涙を零し、佐伯の身体に抱きついた。
「…遠距離、嫌じゃない。私も…佐伯くんとここで終わりにしたくない…!」
強く、強く。痛みを感じるくらいお互いを抱き締め合い、涙を零す不器用な2人。
身体を離し、お互い顔を見つめ合う。
そして、それぞれが両手で頬に触れ、優しく微笑んだ。
「新開さん、大好き」
「私も…佐伯くん、大好き」
周りに人がいることを気に留めず。
2人は微笑んだまま、優しくそっとキスをした。
**
翌日。
誰も居なくなった静かな支店に、新開が1人。
他の従業員は皆、佐伯の見送りに向かった。
「……」
新開は佐伯の見送りには行かなかった。
顔を会わせたら、お互い泣く自信しかないと2人で話したからだ。
また必ず会おう。
そう約束をして、何度もキスをした昨夜。
そんな光景を思い出しながら、空っぽになった佐伯のデスクを撫でる。
その目には、また涙が滲んでいた。
「…別れじゃない。また、会うんだから」
そう言い聞かせながら自分のデスクに戻る。
新開のデスクの上には
昨夜別れ際に貰った佐伯のボールペンが、丁寧に飾られていた。
約束しよう、また必ず会うことを。 終
「ありがとうございます! 僕が結果を残せたのは、全て平島支店の皆様によるサポートのお陰です。寂しい気持ちでいっぱいですが、東京本社に異動しても、より一層頑張って参ります!」
「………」
大手商社の田舎支店…もとい、平島支店。
従業員数12名の小さな支店から、本社に異動を命じられた人が出た。支店始まって以来、初めてのことだ。
今回異動するのは、営業担当の佐伯祐司。30歳。
かなりやり手な営業担当で、平島支店では考えられないくらいの新規顧客を捕まえ、数々の実績を積み重ねて行った。
そんな佐伯の様子を一番遠くから眺める、同じく営業担当の新開希未。28歳。
同僚たちが佐伯に花束などを渡している様子を、窓にもたれかかりながら呆然と眺めていた。
「ほら、新開。君は良いのか? 佐伯と仲が良かっただろ?」
「…仲が良かったからこそ、良いのです。ここから眺めているくらいで」
「とか言いつつ、寂しくて悲しくて、本当は沢山話したいんじゃないの?」
「なら、支店長。そう思うなら佐伯くんの異動、取り消してきて下さい」
「………それは、難しいな」
「でしょう」
軽く頭を掻きながら、支店長は佐伯を取り囲む輪に入って行った。
皆が佐伯の肩を叩きながら、思い思いに言葉を掛ける。その光景に、新開はただただ溜息をつくしか無かった。
**
誰も居なくなった静かな支店に、新開が1人。
他の従業員は皆、佐伯の送別会に向かった。
「……」
新開はデスクに置かれたお菓子の詰め合わせに軽く手を触れる。佐伯が11人全員に用意した、お礼の品だ。
その詰め合わせの外袋には、佐伯からのメッセージが書かれたカードが貼り付けられている。
《新開さんへ。体には気を付けて。 佐伯》
決して綺麗だとは言えない佐伯の文字。
メッセージカードに触れると、溢れて止まらない新開の涙が文字を滲ませ始める。
佐伯と新開は良きライバルであり、同僚であり、友人だった。
小さな支店の中で切磋琢磨し、時に支え、慰め合い、互いを鼓舞する関係。
支店が独自に行っていた実績ランキングは、いつも1位が佐伯で、2位が新開。
佐伯には勝てないと分かっていたけれど、その背中を追いかけるのが楽しくて、日々前向きに仕事に取り組めていた。
「…佐伯くんの馬鹿」
カードの文字が滲んで読めなくなるほど、零れ落ちる涙。
実は佐伯、異動辞令が出たことを新開に報告しなかった。
ずっと新開にだけ事実を隠されており、異動のことを知ったのは今朝の話。
栄転だの…異動だの…送別会だの…。
そんなことを急に言われても、全く理解が追い付かない。
だから、新開は送別会には参加をしなかったのだ。
「…馬鹿、馬鹿」
滲んで読めなくなったメッセージカードをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。
丸めたカードがきちんとゴミ箱に吸い込まれたのを確認してから、乱暴に椅子に腰を掛けてデスクに顔を伏せた。
大切なライバルであり、友人だと思っていたのに。自分だけ佐伯の異動を知らなかった事実が悔しくて、悲しくて。
何より、新開は佐伯に特別な感情を抱いていたから。
それが余計に辛くて、苦しくて、涙が止まらない。
「…何で、言ってくれなかったんだろう」
そんな、佐伯にしか分からないことを呟く。
誰もいない支店。
新開はデスクに伏せたまま、子供のように大きな声で泣き叫んだ。
**
時刻は21時を過ぎていた。
泣いてそのまま眠っていたことに気付いた新開は、飛び起きて身の回りを片付けて支店を後にする。
今頃、送別会は2次会といったところか…。
そんなことを考えながら駅に向かって歩き始めると、背後から新開を呼ぶ声が聞こえてきた。
「新開さんっ!!!」
真っ暗闇の中に見える人影。
その声の主は足早に駆け寄り、あっという間に新開の隣に立つ。
「……さ、佐伯くん? な、何で居るの」
肩で呼吸をしている佐伯は大きく溜息をついて、新開の肩に腕を乗せた。
左頬だけを上げ、苦しそうな表情の佐伯は、声を詰まらせながら言葉を発する。
「や…新開さんを探してた。……家まで行ったんだけど帰ってなかったみたいだったから。ここに戻って来たんだ」
「そ、そんなの…。連絡くれれば…」
「したよ。何回も」
「えっ」
その言葉に焦ってスマホを取り出す。
無音設定にしてあり気が付かなかった新開。スマホには佐伯からの着信が4回入っていた。
「ご…ごめん…」
「いや、結果的に会えたから良いんだ。…今日は、何で来なかったの。送別会」
「な…何でって。大体、佐伯くんが異動することを今日知ったんだよ? …いきなり送別会なんて言われても心が追いつかないよ。…な、何でさ、私に教えてくれなかったの?」
「………」
申し訳程度に設置されている街灯だけが新開と佐伯の2人を照らす。
車通りも少ないこの場所には、小さな虫の声だけが響き渡っていた。
佐伯は腕を組み、少し顔を俯かせる。
そして、小さく…小さく。虫の声よりも小さい声で囁くように口を開いた。
「…ごめん、実は言えなかった。泣く自信があったから」
「……え?」
その言葉通り、佐伯の目からは大粒の涙が1粒ほど零れ落ちる。
街灯の光が反射する涙に、いつもと違う佐伯の表情。
新開の肩に乗せたままの佐伯の腕は、小さく震えていた。
「…何で泣いているの」
「聞くなよ、そんなこと」
佐伯は溢れる涙を拭い、小さく溜息をついて上を見上げる。
空は曇っているようだ。
月がどこにあるのかさえ、分からない程に。
「…ていうか、佐伯くん。送別会に本人不在ってどういうこと。それで良いの?」
「…みんな2次会に行ったけど、送別会という名目は最初だけだよ。2次会以降は飲むだけだし。良いじゃん」
「そうだけど…何か違うじゃん」
「違わないよ」
怪訝そうな表情の新開に、佐伯は泣き笑いを浮かべる。
そしてニコッと子供のような笑顔で、新開の手を取った。
「一緒に帰ろう」
「……」
新開の返答を聞かずに歩き始める佐伯。
仄かにアルコールの匂いがするものの、酔っぱらっている素振りは無い。
いつも通りの足取りと、言葉遣い。
だけど少しだけ赤い、耳と頬。
「…新開さん、異動のことを隠していたのは、本当に申し訳なかった。…言わなくても、どこかで漏れると思っていたんだけど…そんなこと無かったんだね」
「私が外回りばかりだからじゃない? 自分のデスクに座って仕事することなんて、殆ど無いし」
「…そうだね。実はそれも、本当は分かっていた」
「……」
車も人も通らない。
この世界には新開と佐伯の2人しかいないのではないかと、錯覚をしてしまうほどの静寂に…新開はつい、時間が止まることを願ってしまう。
何気に、初めて繋いだ手。
新開の手を包み込むような佐伯の大きな手。それに意識を向けると、次第に胸が熱くなってくる。
「…佐伯くん」
「何?」
「東京、行かないでよ」
「……」
思わず漏れ出た本音。
ハッと我に返り、口元を覆う新開は、すぐに佐伯の方を向いて弁解をした。
「いや、ごめん! 何を言ってるんだろうね、私」
「………」
「栄転…凄いよ。私、ずっと佐伯くんの背中を追っていたからさ。誇らしさもあり、悔しさもあり…感動もあり…何とも言えないや。ここから東京まで、日帰りでは困難な程に距離があるけれど…。私はここで、佐伯くんのことを応援しているから。頑張ってよ、東京本社でも」
「新開さん…」
お互い握る手に力だけが入り、訪れる…無言の時間。
「……」
「……」
暫くそのまま歩き続けていると、ふと佐伯が足を止めた。
「…佐伯くん?」
そして、唐突に言葉を発する。
「新開さんのことが、好きだ」
「……えっ?」
目をまん丸に見開いて驚いている新開から手を離し、そのままゆっくりと身体を抱き締めた。
突然の出来事に、新開は頭がフリーズする。
「……佐伯くん…」
徐々に現在の状況を理解し始めると、次第にジワッと涙が滲み始めた。
滲んだ涙をそのままに、新開も同じく、そっと佐伯を抱き締める。
「………」
静かな路上に2人…。
街灯の灯りだけが、2人を静かに見守っていた。
「新開さんのことが、ずっと好きだった。だけどそれ以上踏み込んではいけない気がして…ずっと言えなかった」
「佐伯くん…私も好きだった。私も同じで…ずっと言えなかったの。ライバルとしての関係も崩したくなくて、もう長いこと…この想いを隠してた」
お互い抱き締める腕に力が入る。
両片想いだった、平島支店の営業担当の2人。
仕事を優先し続けて来た2人だからこそ、今このタイミングで想いが出てくる。
「僕さ、東京行って…新開さんと離れるのが嫌で、そんな現実から目を背けたくて。それで…東京に異動になること、新開さんに言えなかった。…馬鹿だよね。言わなくても、バレることなのに」
歩道のど真ん中に突っ立ったままの2人を、ごく稀に車が横を通り過ぎる。
しかし2人はそれに目もくれず、夢中で抱き締め合う。
「………」
佐伯はそっと腕を上げ、新開の長い髪の毛を優しく撫でた。
ふわっと香る甘いシャンプーの香りに、佐伯は思わず唇を噛む。
「…新開さんの居ない送別会なんて楽しくないし。何より、どうせ今日が最後なら伝えたいと思った。ずっと言えなかったこの想いを。…ただ、新開さんも好いてくれていたことに…驚いたけれど…」
「……不器用だね、私たち。私も気が付かなかったよ、まさか両片想いだっただんて」
「両片想いって何?」
「お互いがお互いに片想いをしていることだよ、佐伯くん…」
明日の朝、佐伯は東京に旅立つ。
別れの直前に知った相手の想いに、胸が焦がれてどうしようもない。
「…歩こうか」
「うん」
抱き締めていた腕を緩め、再び手を繋いで歩き出す。
歩いている最中、2人は沢山の思い出話をした。
営業に失敗した時のこと。
上司にめちゃくちゃ叱られたこと。
疲労が溜まりすぎて、誤って側溝に落ちたこと。
当時は笑いごとでは無かったけれど、時間が経過した今では、ただ笑い話。
新開と佐伯の2人にしか分からない。
2人だけの、共通の出来事。
ライバルとして、友人と過ごしてきた。
かけがえのない…大切な思い出。
**
歩き続けた2人は、駅前に辿り着いた。
駅舎の前に設置されている大きな噴水の縁には、沢山のカップルが腰を掛けおり、各々が逢瀬を重ねている。
「……新開さん」
「…何」
噴水から少し離れた場所にあるベンチが空いていた。
そこに新開と佐伯も腰を掛け、お互いの身体にもたれ合う。
仄かに感じる体温。
それにまた、2人とも静かに涙を流す。
「何で、泣いているの」
「そういう佐伯くんこそ」
傍から見れば、別れる寸前のカップルそのもの。
まさか先程両想いだったという事実を知り、しかも明日から片方は遠くに行ってしまうなんて、誰も予想すらできないだろう。
駅の方から電車が入って来る音楽が聞こえ始めた。
ガタンゴトン…と音を鳴らしながら、徐々に速度を緩めて停車をする電車。
それを見た新開は、ふと言葉を漏らす。
「佐伯くん、あれに乗って行くの?」
「…うん。あれに乗る」
「…そうなんだ。…今日の朝まで佐伯くんが異動することを知らなかったのに。何だか、展開が急すぎて…頭が追い付かないや」
「……」
また、2人の間に訪れる静寂。
小さく溜息をついた佐伯はそっと新開の肩を抱いて、呟くように言葉を発した。
「……遠距離は、嫌?」
「……え?」
「僕、このまま終わりにしたくない」
「……」
予想外の言葉に、新開の身体が固まる。
そしてより多くの涙を零し、佐伯の身体に抱きついた。
「…遠距離、嫌じゃない。私も…佐伯くんとここで終わりにしたくない…!」
強く、強く。痛みを感じるくらいお互いを抱き締め合い、涙を零す不器用な2人。
身体を離し、お互い顔を見つめ合う。
そして、それぞれが両手で頬に触れ、優しく微笑んだ。
「新開さん、大好き」
「私も…佐伯くん、大好き」
周りに人がいることを気に留めず。
2人は微笑んだまま、優しくそっとキスをした。
**
翌日。
誰も居なくなった静かな支店に、新開が1人。
他の従業員は皆、佐伯の見送りに向かった。
「……」
新開は佐伯の見送りには行かなかった。
顔を会わせたら、お互い泣く自信しかないと2人で話したからだ。
また必ず会おう。
そう約束をして、何度もキスをした昨夜。
そんな光景を思い出しながら、空っぽになった佐伯のデスクを撫でる。
その目には、また涙が滲んでいた。
「…別れじゃない。また、会うんだから」
そう言い聞かせながら自分のデスクに戻る。
新開のデスクの上には
昨夜別れ際に貰った佐伯のボールペンが、丁寧に飾られていた。
約束しよう、また必ず会うことを。 終