こんな深夜にこの地域で開いている店なんて、危ないようなとこばっかりだ。
 俺たちは結局建物には入らず、近くの公園のベンチに座って話すことにした。

「はい、イチゴミルク」

 自販機で買ったそれを差し出すと、葉月は小さく噴き出した。

「ちょ、なんでイチゴミルク?」
「え? 好きだったじゃん。もしかして今は苦手? 他の買ってこようか?」
「いや大好き。大丈夫。でもさ、高校卒業してから初めて飲むから、懐かしくなっちゃって」
「ならよかった。でも、なんで飲まないの?」
「子供っぽいじゃん、なんか。私のイメージに合わないから」
「ふ、なにそれ? 大学でのお前、どんなキャラなの?」
 
 今度は俺が噴き出す番だった。
 でもその質問に、葉月は顔に影を落とした。

「あ、いやあの、無理に言えってわけじゃ、」
「ミルクティー」

 焦って言葉を紡ぐ俺を遮り、彼女は言った。

「ミルクティーが似合うような、大人っぽくてカッコよくて……高嶺の花っぽい感じ。だから大学ではミルクティーばっかり飲んでる」
「……よくわかんない。しかも葉月、コーヒー苦手じゃなかったっけ? 昔コーヒー牛乳ですら無理だったような、」
「うるさい! 頑張って飲んでるの毎日!」

 むっとしてどなった彼女は、イチゴミルクをグイッと飲んだ。そして目を見開く。そのまま、何も言わない。あ、あれ?

「どうした。不味かった? 賞味期限大丈夫だよな?!」
「……しい」
「ん?」
「……美味しい、よう」
 
イチゴミルクを飲みながらボロボロと涙をこぼす彼女に、アワアワと両手をさまよわせる。
 どうしよう。泣かせてしまった。俺のせい? イチゴミルクのせい? え、どうしよう。
 彼女はそんな俺を見て、泣きながら笑った。
 その顔が、“あの時”と重なる。


――あの時。俺が、俺たちが、高校三年生の時。
 俺たちは高校一年生の時から、クラスがずっと同じで。
 元気な姉御肌の葉月と優等生の俺。タイプは全然違ったけど、お互いに“闇”を抱えていて。その“闇”が俺たちを強く結びつけた。
 俺たちはお互いを信用しきっていたし、惹かれあっているのを自覚していた。絶対に両思いだと絶対的な自信があった。俺たちはお互いのことを一番に理解できる存在で、お互いに必要なのだと。だけど。
 高校三年生の、冬。卒業間近。
『……ありがとう。でも、ごめんね』
 俺は葉月に、振られた。
『私、一人の男の人だけを好きには、なれないから』
 え、と声を漏らした俺。
『私ね、知らないおじさんともね、キスできるの。してるの』
 頭を鈍器で殴られたかのよう、とはまさにこのことだった。
『付き合ってもずっとやめられないと思う。そんなの、嫌でしょ?』
 嫌じゃない、とは言えなかった。このとき、もし、言っていたら。
『だから、ごめんね』
 ……そのときから一度も、葉月と話すことはなく、高校を卒業してからは会うこともなかった。俺はこのとき、なぜ彼女に寄り添い、話を聞くことができなかったのかと、今でも後悔している。
 だからこうして三年間、毎日、毎日、キャバクラやホテルが立ち並ぶこの“夜の街”を訪れていた。
 今度こそ間違えない。今度こそ、彼女を一番に考える。今度こそ、と。



「ごめんごめん。なんか感極まった」

改めて決意を固め、こぶしを握り締めていると、彼女が言った。

「イチゴミルクってこんなにおいしいんだね。意地はってないで飲めばよかった」
 
 涙が光る目を細め、ありがと、と言われる。

「ねぇ」
 
 俺は問いかけた。

「イチゴミルクとミルクティー、どっちが好き?」

「イチゴミルク」

「じゃあ……イチゴミルクとミルクティー、どっちがホントの葉月?」

 輝いていた笑顔が消える。葉月は視線を落としたまま言った。

「ミルクティー、かな」

 ……葉月。葉月。
 お前は一体、何を抱えている?

「もう一つ、質問。三年前のあの日、『ごめん』『ありがとう』って言ってたよな。その理由は全部、俺自身に対するものじゃなかった」
 
 葉月がじっとこちらを見ている。

「……高校生の時、俺のこと好きだった?」

「…………すき、だよ。だいすき」

 弾かれたように顔を上げる。

「じゃあ、なんで……っ! なんでこんなことしてるんだ?! 付き合ってもやめられないってどういうことだよ? キスは好きあった人同士でするものじゃないのか? お前にとっては違うのか? 今日のあのおじさんともキスする気だったのか?」
 
 違う。責めたいわけじゃない。これじゃあの時よりたちが悪い。だめだ、落ち着け。

「葉月。聞かせてくれ……」

 震える声で懇願すると、葉月は口を閉ざした。

「……言えない……」

「なんでっ……今までお互いなんでも、打ち明けてきたのに……」

「違うよ! 優くんはそうだったかもしれないけど、私は……っ! 選んでた、作ってた。話す内容」

「え……?」

「優くんと同じくらいの内容になるように、調整してたの! 言ったら困らせるのも引かれるのもわかってたから! 実際には話してる数倍悩んでたし苦しんでたんだよ! なのに私のこと、わかってるような面しないで!!」

 は……?
 困惑、戸惑い、悲しみ、怒り、屈辱、失望。そういったものはもちろんある。でも、もっと、もっと大きな。
 ――後悔。
 まだわからない。彼女が何を抱えているのか。でも、本当に本当に大きなものを抱えているのだということだけはわかる。
高校生の自分を殴ってやりたい。なんで気づけなかった。なんで聞いてやれなかった。なんで。

「……ごめん」

「なんで優くんが謝るの……悪いの私でしょ、どう考えても」

「いや、俺だ。悪いのは全部、俺なんだ。ごめん」

「……もう、本当に優くんは、優しすぎるね」

 彼女はそう言って、目を閉じた。
 ……目を、閉じた……?
 おかしいと思った矢先、彼女の体がぐらりと前に倒れる。

「葉月!!」

 とっさに腕の中に引き込む。
 顔をのぞき込むと、唇が真っ白になっている。顔色も悪い。貧血か?

「近くの病院……! いや、救急車? ちょっと待ってろ!!」

「やめて、ゆうくん……いいから」

「はぁ?! 良いわけないだろ!」

「本当に、いいの……っ。治んないから、病院じゃ」

「は……?」

 真っ青な顔で微笑む葉月の瞳の中に、間抜け面をした俺の顔が映っていた。


【葉月Side】
ぐるぐるとまわる視界。世界から色が抜け落ち、白黒になっていく。体から力が抜けていく。

「近くの病院……! いや、救急車? ちょっと待ってろ!!」

「やめて、ゆうくん……いいから」

「はぁ?! 良いわけないだろ!」

「本当に、いいの……っ。治んないから、病院じゃ」

「は……?」

 ポカンと固まる優君。その瞳が、震えた。

「もしかして……難病にかかってる、とか?」

 そうだよね。普通はそうなるよね。予想通りの反応をする彼にちょっと笑ってしまう。

「違うよ……そうじゃない。……あーいや、そうと言えばそうなの……かな? びょーき、かぁ……うーん……惜しい、かな……。さんかく、十点満点中4点ってとこ?」

呼吸をするのが辛い。しゃべりづらいなぁ。
でも、努めて明るくしゃべる。だからそんな、つらそうな顔しないでよ、優くん。

「じゃあ、どうしてそんな苦しそうにしてるんだよ?」

 ……隠したかったのに、な。
 優くんには、知られたくなかった。

――『私ね、知らないおじさんともね、キスできるの。してるの』
 “あのとき”、あんなこと言っちゃったのがまちがいだった?
 でも、でもさぁ。
――『俺、葉月が好き。付き合ってください』
 あんなに真剣な瞳に、嘘なんてつけなかった。
 それに。
――『優くんのこと、私はそんなに好きじゃないよ』
 もし仮に、仮にね? そう、嘘をついても、絶対にバレるじゃん。
 だって私たちは本当に、本当に好きあっていたんだから。
 
 もう、隠し切れない。こんなにまっすぐな彼に隠し事をしようとしたのが、そもそもバカだったのかも。
 いつかバレていた。どこかで、きっと。
 今がその時ってだけだ。

「あのね」
 
 ゆっくりと息を吸う。呼吸を整える。

「私、私ね、自分の体で栄養が……つくれないんだ。だから、他の人の体から、栄養を貰わなくちゃいけないの。そうじゃなきゃ、生きられないの」

 優くんの頭にはてなが飛ぶ。そうだよね、何言ってるのって感じだよね。

「……親は私に無関心だ、って言ったでしょ、昔」
「あぁ」
「あれね、もともとは違ったんだぁ」

 私は乱れる呼吸の中、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 もともと親に虐待されていたこと。
 食事を抜かれる日の方が多かったということ。
 ガリガリにやせ細り、本当に病気ばかりしていたということ。
 そして……。

「それで……中学二年生の秋。お母さんに、手首をつかまれて引きずられてたときね……栄養失調もあって、死にかけてたんだと思うんだけど。つかまれた手首からね、お母さんのぬくもりが、私の中に吸い込まれる……みたいな感覚があって……」

優くんが、私の目をじっと見つめている。私はそれに応えず、下を向いたまま話し続ける。

「そしたらね、お母さんの左手……私をつかんでた方の手、壊死しちゃったの」

 息をのむ気配がした。

「逆に、私は元気になったんだ……多分、体が危機的状態になって、防衛本能みたいなのが働いちゃったんだと思う。でもお母さん、虐待してたっていう事実があるから、公には言えなかったみたい。医療機関とかに相談もしてもらえなくて。その日からあからさまに両親は、私を怖がって腫物扱いするようになったの。だから、無関心って言葉を使ってた。実際、私に全く関わってこなくなったから」

 ふうっと息をつく。沢山話して苦しい。イチゴミルクを口に含むと、びっくりするくらい甘かった。

「そこから私、どれだけ食べてもすぐ貧血になっちゃって。おかしいなって思ってた時にね、その当時付き合っていた男の子から……キス、されて。そのときに、またあの感覚があって」

 声が震える。鼻の奥がツンといたい。

「気づいたら、その男の子、倒れてた」

今でもはっきりと思い出す。自分がおかしくなってしまったのだと気づいた、あの日。
幸いその子は、軽い栄養失調で済んだけど。

「貧血になるほど我慢しなければ、普通に触れ合っても大丈夫なの……。でも、ギリギリの状態だと、体が勝手に吸っちゃう。だから、もう大切な人を誤って傷つけないために、一週間に一回、さっきみたいに変な男の人を捕まえて、栄養を吸うようになったんだ。……もちろん、毎週別の人。そうじゃなきゃ、一人に負担がかかりすぎちゃうもん」

 優くんは、身じろぎ一つしない。

「あは、信じられないよね、こんな話」
 
 そう言って笑うと、彼は私を抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。

「信じるよ……ごめん、ごめん、あのときちゃんと、聞いてやらなくて……ごめん」

抱きしめられていて顔は見えないけど、切ない声。

「もう……だから、優くんが謝ること、何一つないじゃん」

……ううん、ある。ひとつだけある。
それは、私の前に現れたこと。私に優しくしたこと。私を好きにさせたこと。
男の子を倒れさせちゃったあの日、恋愛はもうしないって決めたのに、好きになっちゃったじゃん。
もう二の舞にはならないと、好きな人なんて作らないと、大学ではあえてみんなと壁を作っているけど。その必要はないかもって、最近の思う。
だって優くん以上に好きになる人なんて、大学にも、どこにも、いない。絶対にいない。そして、優くんへの想いを断ち切ることもできない。

「なぁ、俺の栄養を吸ってくれよ。もうあんな危険なことしなくていい。俺がいくらでもやる。毎日でも。だから、」

「優くんなら」

 涙があふれる。

「優くんなら、そう言うと思ってたよ……だから言わなかったの」

本当は、信じてくれないとも、引かれるとも思ってなかった。きっと受け入れてくれると思っていた。
 ただ、自分が犠牲になると言い出すんじゃないかって、それだけが不安だったんだ。……予感、的中。

「私はそれが嫌」
「俺が良いって言ってるんだから……っ」
「それでも、嫌。耐えられない」
 
 彼が唇をかむ。
 
「じゃあ、いい。お前が誰とキスしててもいい。だから俺と一緒にいて」

懇願するような瞳の温度に、胸が張り裂けそうになった。

「それも無理。誠実な優くんに申し訳なくなる」
「じゃあ不真面目になる。俺も女遊びしまくる。それでwinwinだろ」
「ぜーんぜん違う」

 あは、必死な優くん、かわいいなぁ。

「お願い。葉月がいないこの数年が辛かった。今日会えて本当にうれしかったんだ。これからも一緒にいたい。友達としてでもいいから」
「ううん。わたし、優くんと違ってずるいから、そしたら優しさに付け込んじゃうと思う。だからだめ」

 優くんは、「でも」とか「じゃあ」とかばっかり言ってる。あぁ。

……好きだなぁ。

「ごめんね。ありがとう」

私は痛む体を起こして、優くんに口づける。
驚きに固まる彼。
 唇を離すと、優くんは意識が朦朧としているようだった。
そんな彼に語り掛ける。

「ねぇ、優くん。愛のカタチってさ、沢山あると思うんだよね。好きだから付き合ってる人、でもだんだん好きじゃなくなっていく場合もある。好きじゃないけど一緒にいる人たちもいる。だから」

今にも意識を手放そうとしている彼に、微笑む。

「私たちは好き同士。だから、一緒にいない方がいいんだよ。それが私たちのカタチ」
 
 大切な人との最初で最後のキスは、イチゴミルクの甘い味がした。