翌朝学校に行くのは死ぬほど気が重かった。鮫原先生と顔を合わせるのが怖かった。それなのに鮫原先生は今までのことは全部夢だったとでも言うように普通だった。気が動転した状態で模擬授業を行う僕と対照的に、私情の「し」の字もないほど淡々と評価された。酷評されることはなかった。それでますます訳が分からなくなった。
 女装した僕にだけ用があったということは、男性恐怖症か何かだったのだろうか。だとしたら、僕は最低なことをしてしまった。でも、それならばどうして先生はわざわざ男子校を選んで教師になったのだろう。
「恋の病かあ?」
 思い悩んでいると、渡辺君が僕の背中を小突いた。
「ち、違うよ!」
 図星をつかれて焦る僕を渡辺君は笑った。
「犬っちが鮫ちゃんのこと好きだって、みんな知ってるよ。鮫ちゃんも鋭いから絶対気づいてるだろうな。いつも生徒に告られそうになる前に牽制してるし」
 最終日ということで生徒たちからもらった寄せ書きにも「当たって砕けろ」や鮫原先生との相合傘がふざけ半分に書かれていたことを思い出し赤面する。
「隠すなって。俺もそうだし仲間仲間。春に親が離婚したんだけど、その時相談に乗ってくれた鮫ちゃんに恋しちゃってさ。今は普通に先生として好きだけど。鮫ちゃんがいなかったら、引きこもりになってたかも」
 渡辺君の口調が照れ臭そうなものに変わっていく。
「ただ犬っちってどう考えても鮫ちゃんの好みじゃないからなあ。ドンマイ。フラれたらA組のみんなで慰めパーティーしてやるよ。犬っちの大学押しかけるから覚悟しとけよー」
「好み?」
 キーワードを思わず復唱してしまった。
「鮫ちゃんって昔、錦先生と付き合ってたんだよ」
 僕はそれを聞くなり、体育科準備室に向かった。

 錦先生は親子ほど年が離れている。いい父親になりそうなのに、未だに独身であることが不思議でならない。筋骨隆々、堀の深い顔立ちで、豪快なスポーツマン。貧相な体と女顔のせいで学生時代はミスコンと称した女装コンテストに出場させられた僕とは正反対だ。
 僕は錦先生に渡辺君の話が本当か聞かずにはいられなかった。
「鮫原先生と付き合ってたって本当ですか?」
「誰から聞いた? 渡辺か?」
 錦先生は情報源の生徒を探った後、ため息をついた。
「悪いこと言わないから、唯華……鮫原先生はやめとけ」
 僕の気持ちは錦先生にも見破られていた。穴があったら入りたい。
「言っておくが、嫉妬じゃないぞ。アイツの教育実習の時から面倒見てて、二年くらいそういう仲だったけど、全然踏み込めなかったよ。犬宮の手には負えないだろ」

 帰り際、数学科準備室から出てくる鮫原先生を見かけた。これが最後のチャンスだ。
「鮫原先生! 待ってください! ごめんなさい! 話だけでも聞いてください!」
 大声で鮫原先生を呼び止めた。生徒も教師も一斉に振り返った。鮫原先生はぎょっとした表情をした後、僕を数学科準備室に迎え入れて施錠した。部屋には他に誰もいなかった。
「公共の場で何を口走るつもりですか。本当に訴えますよ」
「すみませんでした」
 僕は深く頭を下げた。
「昨日のことも、ごめんなさい。どうしても謝りたくて。本当にすみませんでした」
 先生が深くため息をついた。
「犬に噛まれたと思って忘れることにします。それより、一つ聞きたいことがあります」
 僕は顔を上げた。その瞬間、先生は独り言のように呟いた。
「やっぱり顔だけはセンセイに似てるのね」
「センセイって誰ですか?」
「貴方には関係ありません」
 先生は僕の質問を一刀両断した。
「話を戻しますね。昨日の子守唄のことだけど、もしかして、鳥取か北海道のご出身? って、犬宮家の御曹司様だし違うか……」
「子守唄って地域差あるんですかね? 僕はこのあたりの幼稚園出身です」
 僕は家庭で子守唄を歌ってもらった記憶がない。僕の中では幼稚園で聞いた歌だと自己解決していた。
「じゃあ、お母様が北海道か鳥取のご出身だったりする?」
「母に子守唄を歌ってもらったことなんてないですよ。僕、家庭環境めちゃくちゃなんで」
 母の話題は僕にとって地雷だった。このタイミングで自分語りをするのは筋違いだが、親の離婚にまつわるあれこれを気づけば吐き出していた。錦先生に父親の温もりを求めていたことだけは言えなかった。
「家に居場所がなかったんです。だから、学校だけが僕の居場所でした」
「学校に居場所があるだけマシじゃない。私は、家にも学校にも居場所がなかったから」
 突然の打ち明け話に面食らった。社長令嬢の鮫原先生も家庭に何か思うところがあるのだろうか。
「鮫原社長と私は血が繋がってない。中学の時に母が結婚しただけの赤の他人。本当の父親は誰だか分からない」
 先生は再婚とは言わなかった。僕が昼間に向けられている厳しい眼差しの何千倍も冷たい目と抑揚のない声。錦先生が、アイツは心の扉を閉ざしていると言っていたことを思い出す。
「学校では同級生からも教師からも水商売の子って後ろ指刺されてた。だから、基本的に教師って人種は今でも嫌い」
 僕には想像がつかなかった。教師とは学校が好きだった子供がなる職業だと思いこんでいた。
「学校行きたくないって言ったら、母に教育支援センターに連れていかれたの。学校と違って給食費がタダだから、アンタがいじめられてくれて助かったってあの女は笑ったの」
 不登校の子供のための支援施設。僕にはいい意味でも悪い意味でも縁のない場所だった。幸いにも不登校になるようなトラブルはなかったが、仮にあったとしても父はそんなところにいくなんて犬宮の名前に傷がつくと一蹴しただろう。
「支援センターのセンセイが、私の恩師。センセイみたいになりたかった」
 その話題を出した途端、“生徒思いの鮫原先生”の優しい表情になった。
「実のお子さんがいても私を本当の娘みたいに大切にしてくれた。センセイだけが、私の名前を呼んでくれた。唯華ちゃんは悪くないよって言ってくれた。センセイだけが私の希望だった。本当にお星さまみたいな人だった」
 いかにセンセイが素敵な人だったかを語り続ける。
「センセイが勉強を教えてくれたから高校に受かったのに、私の卒業式の三日前に亡くなってしまったの。通りすがりの子供をトラックから庇って。制服姿、見せたかったのに」
 先生はそう言った後、しばらく泣き続けた。消えそうに小さな声で先生が言う。
「支援センターの宿泊行事の時にセンセイが歌ってくれた子守唄、貴方が歌ってたのと同じだった。だから、少しでも先生のことを知れたらって思ったの。センセイが本当に私のお母さんだったらよかったのに」
「僕はセンセイの代用品だったんですか?」
 震える声で尋ねる。否定の言葉を心のどこかで望んでいた。しかし、無情にも先生は頷く。
「貴方の見た目がセンセイに似ていたから。頭の撫で方まで同じだとは思わなかったけれど」
 先生は父の愛を求めて錦先生と付き合い、母の愛を求めて僕をここに連れ込んだのだ。先生は僕を利用した。しかし、僕を弄んだ先生を責めることはできない。僕たちは同じアダルトチルドレンだから。母に捨てられた僕は、年上の女性である鮫原先生に母の面影を求めたのではないかと問われれば、首を横に振れるだろうか。
「でも、貴方の中身はセンセイと全然違う。貴方は学校を逃げ場にするために教師の道を選んだだけ。まともな育ちじゃない人間がまともな教師になれるわけがない」
 先生は残酷な事実を僕に突きつけた。図星で反論のしようもない。最後の一言は、先生自身に対しても刃を突き立てているかのようにも聞こえた。
「最後にもう一度言います。貴方は教師に向いていません。さようなら」
 出会った日と同じ、教師という存在に対する壁を具現化したような口調で僕に告げた。

 僕は翌日、家の蔵を漁った。愛された記憶がない僕は、物心つく前に愛されていた可能性を探してアルバムを探した。たとえ覚えていなくても、物的証拠があればまともになれると信じたかった。しかし、弟の名前のアルバムしかなく、母の写真は一枚もない。僕は自分のルーツすら分からない。
「勝手に散らかすんじゃない」
 父に見つかり、叱られた。父は僕の名前すらろくに呼ばない。
「僕を産んだ母さんの写真ってないの?」
 父が協力してくれるとは思えないが、一縷の望みにかけた。僕の言葉に父の顔が引きつった。
「それは教育実習と関係があるのか?」
「どういうこと?」
 僕は父から強引に母の話を聞きだした。

 土曜日、先生の家を訪れた。インターホン越しに冷たく「帰りなさい」と言われたが、僕は引き下がらない。
「支援センターの先生、星敦子って名前じゃありませんか?」
 僕が核心を突いた瞬間、先生はドアを開けた。僕はそれを肯定と受け取った。
「僕は星敦子の息子です」
 父から話を聞いた翌日、市役所で戸籍を取り寄せた。母の出身は北海道。大学卒業直後に結婚、僕を出産。在学中の婚前妊娠と思われる。僕が三歳の時に離婚し、先生が十五歳の年に鳥取で事故死。父曰く、小学校と中学校の教員免許を所持していたものの就職せず家庭に入ったとのこと。
「母方の祖父母からの手紙で知ったんです、母に捨てられたわけじゃないって」
役所経由で住所を調べ、祖父母に手紙を出した。返事は比較的早く来た。
結婚に反対した手前、会いに行けなかったことへの謝罪と、母の生涯について書かれていた。離婚の際はまだ一人っ子だった僕は犬宮の跡取りだったので、父方の親族は親権を死守して母を追い出した。その後、母は実家に帰らず鳥取で教育支援センターの職員となった。僕は母が“センセイ”だと確信した。
「だから、知りたくなったんです。母のことを」
「どうして、センセイに手紙の返事を出さなかったの?」
 先生は僕を問い詰めた。
「手紙?」
「離れ離れになった息子さんがいて、何度も手紙を出したけど読んでくれてるかは分からないって」
 手紙なんて知らない。そんなの見ていない。先生の言葉に頭の中が一気にぐちゃぐちゃになる。なんとか整理しようとすると呼吸が乱れた。
「父か義母が勝手に捨てたんだと思います」
 最初に湧いてきたのは怒りの感情だった。
「鮫原先生、教えてください。その手紙、何て書いてあったんですか。ねえ、教えてくださいよ!」
 僕は思わず先生の肩を掴んだ。
「分からない、ごめんなさい」
「今まで母は僕を捨てた最低な人だと思ってたのに、手紙の返事も出さなかったどころか読みもしなかった最低な息子だったのは僕の方じゃないですか!」
 全身の力が抜ける。僕は二度と母に謝れない。
「母さんはもう僕のことなんて忘れていると思っていました。でも、こんなのってないじゃないですか」
 涙が止まらなくなった。胸が痛い。息が苦しい。
「センセイは貴方を恨んでなんていないし、怒ってもいないよ。幸せでいてくれたらそれでいいって」
 錯乱する僕を先生が宥める。
「僕は愛される唯一のチャンスを逃しました。そんな僕が幸せになる資格なんてないんです」
「光はちゃんと愛されていたよ」
 先生は泣き喚く僕を抱きしめた。先生の綺麗な手が僕の頭を撫でた。僕はこの優しい手つきを知っている。
「センセイは最期まで光を愛していた。だから、きっとわかってくれてる。大丈夫、光は悪くない」
 僕は気づいた。僕も先生も母に頭を撫でられたことを覚えていた。僕は幼すぎて頭から記憶が抜け落ちていても、ちゃんと心が覚えていた。子守唄もそうだった。
僕たちが出逢ったのは偶然だとしても、こういう関係になったのは必然だ。お互いに相手を通して天国の母に会っていた。僕たちはちゃんと母に愛されていたのだ。
肺が空っぽになるまで泣き叫んだ後、僕は先生に伝えた。
「母に会いに行きたいんです。一緒に来てくれませんか」

 飛行機の最終便で北海道へと発ち、夜行列車を乗り継いで、祖父母に教えてもらった母の眠る場所へと向かう。朝になってようやく霊園へとたどり着いた。「星家之墓」と刻まれた墓石を見ると、鼻の奥がツンとした。
 僕を愛してくれた人。僕に温もりをくれた人は目の前で眠っている。
「母さん、僕は貴女に愛されて幸せでした。ありがとう」
 僕は昔この人をママと呼んでいたのかお母さんと呼んでいたのか覚えていない。それでも、温もりは確かに僕の中にある。
「センセイ、貴女だけが私の先生で、お母さんでした」
 先生は大粒の涙を流しながら、深く頭を下げた。
「一度だけお母さんって呼んでもいいですか……?」
「呼んであげてください、きっと喜ぶと思います。それに、本来呼ぶべき僕が呼べなかったから」
 母ならきっと頷いて先生を抱きしめると思ったから、僕は勝手に母の気持ちを代弁した。
「お母さん、お母さん……」
 先生は子供のように泣きながら母を呼び続けた。
「お母さん、大好きです」
 最後にそう言った先生の顔は涙で化粧も崩れていたけれど、どこかすっきりしたように見えた。

 僕たちは黙って手を繋いで墓をあとにした。このまま本州に帰ったら、僕たちの関係はどうなるのだろう。
 僕たちをめぐり合わせてくれたのはきっと母さんだ。だから、この縁を終わりにしてはいけない。僕は勇気を出して先生の手を強く握った。
「姉さんって呼んでもいいですか」
 あどけない笑顔で、先生は答えた。
「いいよ、光」
 僕は鮫原唯華に恋をしていた。彼女を聖母として偶像崇拝していたのはほんの数日前のことなのに、遠い昔のことのように感じる。今は等身大の彼女を、同じ母を持つ弟として支えたい。
「姉さんはあの学校に絶対必要な存在だと思う。姉さんに救われた子、いっぱいいるから」
 歩きながら言葉を絞り出す。僕たちの母があまりにも偉大過ぎたゆえ、その星の前では霞んでしまうのかもしれない。けれども、鮫原先生だって確かに少なくとも一人の生徒の心を救ったのだ。
「それと、僕あの学校に六年いたけど、先生みんないい人だからさ、もうちょっと心開いてもいいんじゃない?」
 僕たちはもう愛を知らない可哀想な子供じゃない。だからもう世間から自分を守るための虚勢はいらない。
「随分と生意気になっちゃって。でも、善処する」
 苦笑されたが、その口調は柔らかかった。
「あのさ、姉さん。僕やっぱりあの学校で教師になるよ」
「いいんじゃない? 色々厳しいこと言っちゃったけど、A組のみんなは光との学校生活を楽しんでたよ。お姉ちゃんが保証する」
 生徒たちから貰った寄せ書きを思い出す。今なら僕は母校以外の場所が怖いからという理由ではなく、前向きな理由で教師を目指せる。
「僕も母さんみたいになれるかな?」
「一緒に頑張りましょう」
 僕らはもう必死になって居場所を探して迷わなくたっていい。愛し方も幸せも知った僕らはようやく誰かのために生きていける。
 だから今度は僕が今悩んでいる誰かの居場所になりたい。母が姉さんにとってそうだったように、暗闇に輝く一番星になりたい。

 爽やかな風が僕たちの間を吹き抜けていった。少し離れたところにある木の葉がふわりと舞った。
「姉さん、あの木まで競走しない?」
 子供のような僕の気まぐれに、姉さんはいたずらっぽい微笑みを返す。
「うん、負けないよ」
 ヨーイ、ドンの合図で、僕達は太陽の下を走り出した。