一人、また一人と乗客の減っていく姿をぼんやりと眺めあくびを噛み殺す。窓の外に目を向けると見慣れない景色が徐々に見慣れたものへと変わっていく。こうしてバスに揺られ地元に帰るのも半年ぶりだ。
 特にやることもなく、なんとなくメッセージアプリを開いて終点を待つ。一番上にピン留めされた彼とのトーク画面は既読の付かないおはようで終わっている。

昨日も遅くまで仕事だって言ってたし、まだ寝てるのかな……

 高校二年から付き合い始めた一つ年上の彼・絢人(あやと)は現在地元の会社に勤めている。交際六年目にもなれば高校生だった私たちも当たり前に年を取って、当たり前に社会人になっていた。
 彼が高校を卒業して地元の大学に進学し、私が高校を卒業して別の地元の大学に進学して、彼が大学を卒業して地元の会社に就職して。縮まることのない一年の壁があっても順調な交際が続いた。
 私が県外の会社に就職すると決めたとき、初めて不安になったが「距離なんてただの数字じゃん。毎日だって連絡はとれるし、会えるときの喜びが増えるよ」と笑顔で背中を押され、悩むのも馬鹿馬鹿しくなった。
 実際、遠距離交際を始めて半年が経ったが私たちの関係は良好で、私は寂しさを感じたことがなかった。
 あと五分で終点に着くという頃、スマホが新着メッセージを知らせる。

茉那(まな)おはよう。休みだから今起きたよ】

 もう日は暮れ始めおはようというには遅いが、やっと来た返信に口角が上がる。今日は予定ないのか尋ねると家から出る予定はないと返信が来る。

計画通り行きそう!驚いてくれるかな……

 地元を離れて半年、やっと今の生活に慣れた。久々に三日間休みが被ると分かったとき私はサプライズで会いに行く計画を立て、ついに今日実行できる。
 急に迷惑かなと思ったけれど、少しの時間だけでも良いから会いたいという思いと「茉那にされることならなんでも嬉しい」と言われていたことを思い出し、実行を決めた。

ちょっと早めだけど、今年も一緒にお祝いできるな

 ちょうど一週間後は私たちが付き合い始めた記念日だ。高校生の頃は一か月単位で祝っていたことが懐かしい。一年記念日からは年単位で、学生ながらもちょっと贅沢をして祝っていたのも今年は無理だと半ば諦めていた。早く彼に会いたくなってアルバムを見返していると運転手が終点を告げる。
 バスを降りると完全に日は落ち、少し肌寒さを感じる。キャリーケースを引きずりながら歩くこと十五分。荷物を置くため実家へ帰る。

「ただいま」
「あら、思ったより早かったね」

 チャイムを鳴らすとお母さんが出迎えてくれた。お父さんはまだ帰ってないけど晩御飯いるのかという問いに、準備したらすぐ出かけるからと答え部屋に足を進める。

「うーん、やっぱりこっちだよね」

 バッグから取り出した香水を二つ並べる。一つは自分へのご褒美で買った柑橘系の香り。もう一つは何度目のリピート買いか分からないフローラル系の香り。フローラル系の香りを手に取り、手首とうなじにワンプッシュする。

この香り、久々だな

 しばらく付けていなかったこの香りに一瞬でいろんな思い出が蘇る。高校生の頃、友達が言っていた、運命の人からは落ち着く、好きな香りがするという言葉を、当時の私はそんなわけがないと聞き流していた。それでもまだ青かった私は、心のどこかでそんな運命を夢見ていた。
 彼と付き合ったばかりで、一番運命だと思いたかった時期だったのだろう。今思えば滅茶苦茶だけれど、背伸びして少し高めのフローラルの香水を買い、彼と会うたびにつけていた。
 柑橘系の香りが大好きな私は初めてその香水をつけたとき、甘いなと感じたのを今でも鮮明に覚えている。その甘さも彼は気に入ったようで、初めて香水の香りに気付いてくれた。

六年も経ったら、この香りにも慣れるもんだな

 香りに包まれて思い出に耽っているとスマホのアラーム音が鳴った。画面を見ると十九時半を知らせている。二十時頃に彼の家に着くためにはもうそろそろ家を出なくてはならない。前髪を軽く撫でバッグを持つ。

「いってきます」

 気持ちが華やぐのを隠すこともせず家を出ると、隣の家にちょうど入ろうとしている人と目が合う。

「あ、茉那?帰ってたんだ」
「悠真こそ」

 悠真は物心ついたときには一緒にいた幼なじみだ。大学が離れてからはあまり会わなくなったが、親同士が仲良いこともあってなんとなくの近況は知っていた。

「俺はじいちゃんの見舞いに」
「そっか。ちょっと時間ないから、また!」

 時計を確認すると予定よりも時間が経っていることに気付き、再会に喜ぶ間もなく別れを告げる。

「また話そうなー」
「また会えたらね!」

 悠真の声に振り返りもせずに答える。相変わらず適当だな、と聞こえた後ガチャリとドアの閉まる音が聞こえた。


「家にいるって言ってたよね」

 もうすぐ二十時をまわる町はすっかり暗く、街灯の下でスマホを手に呟く。彼の家まであと五分もあれば着くという場所まで来た。メッセージアプリから【絢人】を選択し、通話ボタンをタップする。

「出ない……」

 数コールした後、機械の声で応答なしを告げられる。忙しいのかとメッセージを送ろうと文字を入力していると、次は彼から通話がかかってくる。

「もしもし。忙しかった?」
『ごめん、トイレ行ってた』
「そっか。今、家だよね?」
『そうだけど、どうかした?』

 数日ぶりに聞く声に一呼吸置く。彼が家にいることに一安心し、再度立ち止まっていた足を進める。

「ううん。ちょっとまた後でかけるね!」
『えっ』

 彼の家の前に着いたらまたかけ直そうと通話を切る。混乱する彼の声にクスリと笑みがこぼれる。人通りない道を進んでいくと、あっという間に彼の家が見えてくる。
 残り数メートルの距離をまっすぐ進むと向かい側から二人、腰を抱いて歩く人影が近づく。この道で人と会うの珍しいなと考えていると徐々に姿がはっきりとしていく。

「……え?」

 私の声がこぼれたのとほぼ同時に向かい側の一人と目が合う。相手は目を大きく開いてから顔を歪めた。私の足は鉛のように重く、動かない。動かせない。

「絢人」

 やっとの思いで口にした言葉はあまりにも弱々しく、きっと誰にも届かなかった。彼は隣の女性に耳打ちをし、女性は反対側へと歩き出した。女性の姿が見えなくなると彼がこちらへ足を進める。

「茉那」

 彼が名前を呼ぶと止まっていた時間が動き出した感覚になった。
 笑顔で駆け寄ることなんてできず、急いで踵を返す。何度か私を呼ぶ声がしたが、ドクドクと心臓がうるさくて聞こえないふりをする。


「痛っ……」

 振り返らないで走り続けた足が限界を迎える。彼の家からはすっかり遠くなり、もうすぐ実家に着く。こんな姿で帰るわけにもいかず、近くの公園に足を進める。
 公園には人の気配はなく、ベンチと少ない遊具が寂しげに存在している。私はベンチに座り、息をつく。
 何件もの通知を知らせるスマホが煩わしくなり電源を落とす。深く呼吸をして冷静になるが冷静になればなるほど、先ほど見た光景が鮮明に思い出される。

隣の女性……誤魔化しようがないよね

 嘘だと思いたいけれど、二人の距離はかつての私たちの距離と同じだった。ただの友達だとは考えられない、特別な距離だった。

順調だと思っていたのは私だけだったんだ

 ベンチの背にもたれ掛かり天を仰ぐ。いつの間にか月が綺麗に輝いていて、その眩しさに目を瞑る。

「最悪だよ……」
「何が?」

 不意の問いかけに体を起こすと見知った顔がある。タイミングが良いのか悪いのか、予期せぬ再会に腐れ縁という言葉が頭に浮かぶ。

「悠真……」

 さっきぶり、と片手をあげ当たり前のように隣に座ってくる。文句を言う元気もなく、無言でその姿を目で追う。俺はコンビニ帰りなのだと手に持ったビニール袋を見せびらかす。

「で、どうした?予定あったんじゃなかったのか」
「……私、浮気されてた」

 初めて口にした言葉が妙に腑に落ちて、やはりこれが現実なのだと思い知らされる。 どこまでを言葉にするか頭を悩ませるが、悠真の前で取り繕っても無駄だと口をついて出た。一度口を開いてしまえば淀みなく言葉が出ていく。
 悠真が何も言わないのをいいことに、私が帰ってきた理由や先ほど見た光景をぽつりぽつりと話始める。涙も出ないほど心は枯れても、感情は言葉にできるものかと他人事のように考える。

「寂しかった、のかな」

 全てを話終えると、なぜこうなってしまったのかぼんやりと思い及ぶ。

「それだけで?」

 率直な物言いだが、長年の付き合いから悠真が私を心配していることは感じ取れた。

「それだけのことが、大事だったんだよ」

 付き合いたての頃、彼から聞いた話が思い出される。体の弱い弟と二人兄弟の彼は、両親が弟のことばかりで幼い頃から我慢ばかりだった。弟が元気に過ごせるようになっても幼い頃の記憶は薄れず、きっと人一倍寂しがり屋になってしまったのだと苦笑交じりに打ち明けられた。私がいるからもう心配ないね、と誇らしげに伝えるとそうだねと穏やかに笑ったのを覚えている。
 私が就職先で悩んでいるときに背中を押してくれたから、離れていても傍にいると言ってくれたから、大丈夫だって信じていた。

「逃げてきたんならちゃんと話せていないんだろ?いいのか」
「いいもなにも……」

 今更、何を話せばよいのか分からない。話してしまえば彼を責めてしまいそうで、そんな自分も責めてしまいそうだ。
 六年間、彼との思い出が多すぎてこの関係が終われば私は空っぽになってしまう気がする。六年という月日は重すぎて、高校生だった私は二十二歳になってしまった。大人になってしまったけれど、年を取っただけで心は六年前とあまり変わらない。ただ少しずつ夢が霞んで現実が見えてきただけ。今日だってそうだ。

「せめて、本人の口から教えてほしかったな……」

 偶然知ってしまうのではなく、いくら傷つけられても彼の口から聞きたかった。

「ほら、よくないだろ」
「……本人から聞きたかったけど、本人から聞くのはこわい」

 無意識のうちに口に出ていた言葉は悠真に届いていたようで、私は開き直り本心を口にする。話したいけど話したくない、勇気が出ない自分が情けない。

「あーもう!ちゃんと話して思いっきり振ってやれ!」

 はっきりしない様子の私にそう言い放つ。先に進むためにもそうするしかないんじゃないか、と投げやりに聞こえる言葉の暖かさを感じる。

「そうだよね。私、話すよ」
「よく言った。頑張れ」

 悠真は笑顔を見せ、泣きたくなったら肩貸してやるよとおどけてベンチを立つ。そのままブランコへ座りに行ったところを横目で確認しスマホの電源をつける。

「……すごいな」

 電源が付くと何件もの不在着信とメッセージが画面に表示される。

「こんな大量の連絡、初めてじゃん」

 ふぅと息を吐きだし、心を落ち着かせてから通話ボタンをタップする。一コール目を遮って通話が繋がる。

『茉那っ!なんで、帰って……』
「ねえ絢人。いつからだったの?」

 ひどく声を荒げた彼の声を遮り尋ねる。最初に出た言葉はなぜ帰ってたのかということなのだと落胆する。嘘でも、私の勘違いだと言ってほしかったのかもしれない。

『……ちょうど二か月くらい前かな』
「そっか。どうして」
『寂しさを埋めたかった、多分』

 やっぱりという虚しさと寂しい思いをさせてしまっていた後悔に黙り込んでしまう。この無言をどう読み取ったのか、彼は続けて話す。

『茉那が働き始めて大変なのはわかってた。だから、段々と減っていく通話も中々返ってこないメッセージにも何も言えなかった。寂しいとか言えないだろ。最近また元に戻ったけど、今更遅かったんだよ』

 冷たく感じる通話越しの声。今、彼がどんな表情をしているのか分からない。

「もう、気持ちが冷めてたんだね」
『いや、好きだったよ、ずっと。でもその想いだけじゃ寂しさは埋まらなかった』

 綺麗事ではどうにもならないのが人の心だと知ってしまったから、今更彼を責める気も起きない。その資格もきっと私にはないのだろう。
 私が寂しさを感じなかったのは好きという想いだけではない。忙しくて、余裕がなくて、寂しさを感じる暇がなかっただけかもしれない。

『茉那が大切なのは変わらないんだ。俺が寂しいって言えたら変わってたのかもしれない』
「……もしもの話なんて、やめよう」

 もし彼が寂しさを伝えていたら、もし私がちゃんと連絡をしていたら、もし私たちが遠距離にならなければ。起こらなかったもしもの話は、終わってしまった今となっては全て無意味だ。

「絢人、別れよっか」
『ごめんね』
「ううん、ありがとう。さよなら。」

 私がしてあげれなかったことに謝るより、彼に感謝を伝えたかった。ごめんの代わりにありがとうで終わりたかった。
 通話終了を告げる無機質な音で私たちの関係も完全に終わる。最後に見た顔は歪んでいて、最後に聞いた声は震えていた。最後に聞いた言葉は謝罪の言葉で、割り切るには十分だった。

 ずっと重い空気の中うまく呼吸できなかったが、やっと思いっきり息ができる気がする。
 心を落ち着かせようと瞼を閉じると手のひらに水滴が落ちてくる。夜空を見上げると綺麗な月と星が輝いていて、これが雨ではないことに気付く。一度意識してしまえば涙腺が壊れてしまったように涙が止まらない。

「頑張ったじゃん」

 いつの間にか隣に戻っていた悠真から水を手渡される。

「……あっち向いてて」
「夜だし暗いから何も見えないわ」

 悠真のバレバレな嘘に甘え、私はしばらく泣き続けていた。止まることのない涙を手で拭う度、香水の甘さが香って六年間の思い出が蘇る。きっとこの香水をつけるのも今日で最後。夜に隠れて涙するのも今日で最後にしよう。


「そろそろ帰るか」
「私、お腹すいたー」

 私が落ち着いてきたころに悠真が手を引き立ち上がる。私の顔を見ることがないのも、きっと優しさだ。私も明るい声色で立ち上がり、斜め後ろを歩き始める。

寝て起きたら忘れられる恋だったらよかったのに――

 きっと、明日起きてもこの六年間を忘れてはいない。そのくらい甘くて苦い、長い夢だったから。
 それでもいつか、新しい夢を見られるように、今日流した涙も無駄じゃなかったって笑える明日が来るように。
 足を進めればこの夜も明けるから、また笑える未来のためだと思えば、このお別れも大切なものだって、そう感じられる気がした。