その日、私は傘をどこかに忘れて来た。黒い傘で、開くと中が青空になっているちょっと面白い傘だ。
どこに忘れたのか全く思い出せなくて、置いた瞬間はきょう一日の中でたくさんあった。出勤前に寄ったコンビニ、会社の傘立て、帰りに寄った駅のトイレ、友達と待ち合わせたフレンチレストラン。
帰りの電車の中で気づいた。傘をどこかに忘れて来てしまった、と。
帰宅すると恋人の純が風呂上りでテレビを観ていた。まだ髪が濡れている。
「ただいま」
「晴ちゃんお帰りー。どうだった? 楽しかった?」
嬉しそうにニコニコ笑顔で訊ねて来た。
「うん、楽しかったよ。でも傘をどこかに忘れて来ちゃったみたいでー」
「え、あのお気に入りのやつ?」
「そうなんだよねぇ。どこに忘れて来ちゃったんだろう……」
ヒールを脱ぐと、一気に疲労感で身体が重怠く感じた。
「見つかるかなぁ」
さっきまでニコニコしていた表情が一気に暗くなる。まるで自分のことのように悲しんでいるように見えた。
こういうところが、大好きだ。
きっと犬なら帰って来たらしっぽをブンブン振って、寂しくなるとくーんと鳴いて耳を下げるのだろう。いや、私には純にもふわふわの尻尾や耳が生えているように見えなくもない。
「元気出して?」
純は玄関先で立ち尽くす私をぎゅっと優しく抱きしめる。私はシャンプーの香りを堪能した。甘くていい香り。なぜ、同じシャンプーリンスを使っているのに、純の髪の匂いは私と違っていい香りがするのか。不思議だ。
「お風呂入る? 僕が髪の毛洗おっか?」
「えー? いいよ、ひとりで洗えるし」
嬉しいくせにー、と純は怪しげに笑う。
幸せだ。
私たちは半年後――夫婦になる。
ベッドの中で、純の寝息を聴きながらフレンチレストランで食べたメニューを思い出し、友達の邑子のことを思い出していた。
「いいなぁ、純くん。最高の彼氏捕まえたよね」
邑子は学生時代の先輩と結婚したものの、2年でその結婚生活に終止符を打った。原因は浮気でも不倫でもない。ただお互いに興味がなくなってしまい、会話もなくなり、当然身体の関係もなくなってしまった。ただの同居人になってしまったため、お互い自然に離婚を切り出した。邑子は「円満離婚」と笑って言う。
「今は晩婚化が進んでるし、私の年齢ならまだまだ結婚相手なんて山のようにいるし」
私たちは今年27歳になる。私の周囲では二十代頭で結婚ラッシュが来て、今もまた結婚ラッシュだ。私もそれに乗ったような感じだろう。
「お祝儀だけで給料なくなっちゃうよぉ」
「ほんと、ごめんね?」
「本音じゃないくせに」
私たちは小学生、いや、幼稚園の頃からの友達だ。どうやって友達になったのかさえ、お互い覚えていないくらいのときからずっと一緒にいる。高校からは別々だけれど、時々会って近況報告をしあうのは暗黙のルールになっていた。それは社会に出ても変わらない。邑子と会うと、今自分がいる環境を超えて、たったふたりだけの柔らかくて優しい空間にいるような気分になる。うまく説明できないけれど、とにかく落ち着くのは間違いない。
私は幸せだ。愛してくれる恋人がいて、なんでも話せる親友がいる。30までには結婚したい、という密かな夢も叶いそうだ。
――でも。
時々、私は昔を思い返す。
中学校の校庭。響く生徒たちの声。白いユニフォームについた泥。大きなスポーツバッグ。中に入っていた教科書は砂まみれで、あちこち折れ曲がっていた。そんな、同級生の野球少年を。
彼はその当時と変わらない姿で、今も私の夢に時々現れる。そしてこう、訊ねる。――俺と付き合ってくれないか?
目が覚めると、コーヒーのいい香りがした。フライパンの上で卵が焼ける美味しそうな音も聞こえる。
時計を見ると、もう朝の九時だ。すっかり寝坊してしまったらしい。
「おはよう」
目をこすりながらキッチンへ行くと、純がお皿を並べてトーストにバターを塗っていた。こんがりときつね色に焼けたトーストに、バターがじゅわっと溶けている。お腹が空いた。
「ごめん、寝坊しちゃって」
「いいよ。お腹空いちゃって、僕はもう食べちゃった」
私の分だけできたてを作っているのか。私はキッチンに向かう純の後ろ姿にハグをした。
「ありがとうー! 美味しそう」
「きょうは僕の帰りが遅くなっちゃうけど、ひとりで大丈夫?」
「大丈夫だよ、楽しんできて」
きょうは土曜日。私はなんの予定もないけれど、純は夜から大学時代の友達と飲み会だ。
「子どもじゃないんだから、大丈夫だよ」
「なにか買って来ようか?」
「いいよ、夜も適当に済ませるし」
そう? と純はバターが染みたトーストをお皿の上に乗せる。スクランブルエッグとサラダ。コーヒーはこの間ふたりで買いに行ったコーヒー豆だ。
「いただきます」
「どうぞどうぞー」
私たちの部屋は小さな2人掛けのテーブルしかなく、向かい合って座るとかなり狭い。でもこの距離感が私にはとてもいい。純も向かいに座ってニコニコきょうも嬉しそうだ。
お互い会社務めで平日は忙しい。土日は決まってふたりで買い出しや掃除、洗濯でまた忙しい。梅雨のこの季節、雨ばかりで毎日気が病む。だけどきょうは朝から暑すぎるくらいの晴天だった。もう夏はすぐそこだ。
溜まった洗濯物を洗い、ベッドのシーツや枕カバーも一気に洗う。一通り家の中の掃除が済んだら、ふたりで歩いて近くの安いスーパーへ行く。なるべく安い食材を買って、帰ったらお弁当用の作り置きをふたりで作る。
生活感しかない私たちの日常は、それでも愛おしくて、大切な時間だった。
――俺と付き合ってくれないか?
心の中で丸刈り頭の野球少年が言った言葉が浮かぶ。
これは、浮気じゃないよね?
心の中がざらついた。
彼のことが、好きだった。中学時代の3年間。それから高校時代の3年間も。大学生になって初めて彼氏ができたが、初めての恋人のことはちっとも夢に出て来ない。たぶん、彼とは付き合うことなく自分の想いを伝えることなく終わってしまったのが、いけなかったんだと思う。だからきっと、彼は今も夢に出て来る。
「きょう、魚が安いねぇ」
カートを押しながら純が魚を見る。鯵を手に取り「フライにしたら美味しそう」となにやら想像しているようだった。
もし、彼に想いを伝えていたら、どんな未来があっただろう。私たちは付き合っただろうか。おそらく、そうだろう。でも、その後はどうなっただろうか。あっという間に別れてしまって、思い出したくもない恋愛の山に埋もれていただろうか。
「ね、美味しそうじゃない?」
「あ……うん、そうだね。お昼ご飯はフライにしよっか」
「いいねいいね。あ、お蕎麦とフライにしようよ。絶対美味しい」
お蕎麦、お蕎麦と純は麺の売り場へ歩いていく。
もし彼と付き合っていたら、純とは結婚しない未来だっただろうか。
今の自分に十分満足している。不満なんてひとつもない。それなのに、時々こんなことを考える自分は酷い女だろうか。
少しでもきょうまでの自分と違う選択をしていたら、私の人生はどんなふうに変わっていたのか。
「お蕎麦、あったよー」
私は慌てて純の隣へ行く。私の居場所は間違いなく今ここにある。それ以外はない。もし、なんていうものは存在しないのだ。
純が出かけたあと、きのう行ったフレンチレストランに電話をした。駅にも連絡してみた。しかし、答えはどちらも同じ。きのうだけで何本も傘の忘れ物をお預かりしています、だった。きのうは朝から雨が酷かったが、夜にはすっかり晴れていた。だから忘れる人が多かったのだろう。私も同じだ。
フレンチレストランの店員さんは丁寧で、傘の柄をすべて教えてくれた。その中に青空の傘はなさそうだった。駅の方は、フレンチレストランよりはるかに多い数の忘れ物があるだろうから、直接行くしかない。
私は小さな鞄に財布と定期券とスマホだけを入れて、簡単な恰好で外に出た。
昼間は天気がよかったのに、今はどんよりと曇った空が覆っている。月も星も全く見えない。どうか、雨が降りませんようにと祈りながら小走りで駅まで向かった。
フレンチレストランは自宅と会社のちょうど中間あたりにあった。たしか、トイレの中で傘を置いた気がしたがまさか置いたままになってないだろうか、とトイレの中を覗くも傘はなかった。駅員さんに訊ねると、何本も傘を見せてくれたが私の青空の傘はなかった。厄介なのは、私の傘は広げてみないと中の青空が見えないことだ。私は何本も黒い傘を広げては畳んだ。
せっかくだから、フレンチレストランにも直接見に行こう。もしかしたら、黒いから中の柄に気づいていないかもしれない。
私は駅員さんにお礼を言って、地下から地上へ上がった。
外は雨が降っていた。傘も持っていない私は、とにかく走って駅からすぐ近くにあるフレンチレストランまで向かった。
しかし、そこにもなかった。
仕方なく私は元来た道を戻る。この季節の雨はなんだか重たく感じた。服に染み込んで、余計身体が重たい。
居酒屋やバーがずらりと並ぶ店先で、ふと一本の黒い傘に目が留まる。黒い傘の中が青く見えた。あれ、と立ち止まる。
もしかして、誰かが持って行ったかもしれない。
落とし物は拾った誰かが届けてくれるとは限らない。私はそこまで考えつかなかった。
見知らぬ店先の傘置きをジロジロと眺める。〈一夜〉と書かれた看板。小さなグラスの電飾。バーだろうか。
ガラス張りの店は店内の様子が丸見えだ。中で黒いシャツを着た男性と店員らしき男性が話をしているのが見えた。
あまりに私が見つめすぎたせいか、店内にいたふたりと目が合う。そして男性店員が店の扉を開けて私の方を見た。
「どうぞ」
客と間違えられてしまったらしい。私は慌てて首を振る。
「あ、もしよければ傘を御貸ししましょうか?」
ガラスに映る私はバケツ水でも被ったみたいにびしょ濡れだった。髪の毛から雨がぽたぽたと落ちる。
「天気予報だと、あと一時間もしないで止むそうなので、雨宿りしていかれます?」
優しい店員さんだ。微笑むと目尻にできる皺がくっきり浮かび上がる。笑った口元が柔らかい。
「あ、あの……この傘……」
そこまで言葉が出かかって、口を閉じる。
なんて言えばいいのか。お客さんの傘を広げて中を見るわけにはいかない。同じ傘なんてこの世界にはたくさんある。もし広げたら青空の傘だったとしても、それが私の傘だという証拠はなにもない。
「傘?」
「いや……なんでもないです」
私は慌ててその場を去ろうとした。
「……森谷?」
店内から出て来たのは、体育会系っぽい雰囲気の男性だった。浅黒い肌。黒いシャツからも筋肉の付き具合がよくわかる。いかにも、運動しています、という感じだ。
私は彼の顔を見ても誰なのかさっぱりわからなかった。名前を知っているということは、知り合いには違いない。でも、一体誰なのか。
「俺、わかんない?」
必死に思い出そうとする私に、彼は困ったなぁと眉を下げる。
「ほら、同じ中学だった、山下悠斗」
「え? 山下……?」
そんな、と私は山下悠斗と名乗る男性の真ん前で顔をじぃっと見つめる。三角眉毛に奥二重。分厚い唇。丸刈り頭ではないが、間違いない。私がその名前を忘れるはずがなかった。だって、彼は――山下悠斗は私の初恋の人だから。今もあの頃と変わらない姿で私の夢に現れる彼だから。
「こんな偶然ある?」
私は真面目に質問した。
「いや、俺もなんか見覚えのある声と顔だなって思って。まさかだよ。でも、変わってないか」
「どういう意味よ」
山下はへへ、と笑う。その笑顔こそ、あの頃のまま、なにも変わっていなかった。
「お知り合いだったようで。もしよろしければ、どうぞ」
私はどうしようか迷った。でも、こんな偶然あり得ない。山下とは成人式の同窓会でちらっと顔を合わせたきり、もう7年会っていない。
「せっかくだから、なにか奢らせてよ」
「じゃあ、せっかくだし……」
店内はカウンターが4席あるだけの小さな店だった。奥から2番目の席に座ると、山下がメニューを私に渡す。
美味しそうなメニューが並んでいた。バーだとばかり思っていたが、メニューから見てどうやら喫茶店のようだ。
「じゃあ、私はコーヒーをお願いします」
「コーヒーも美味しいけど、ここはソーダ水がおすすめなんだよ」
「……ソーダ水?」
言われてもう一度メニューを見る。〈一夜を注ぐソーダ水〉という名がある。これのことか。
「それじゃあ、この〈一夜を注ぐソーダ水〉をお願いします」
「はい、ありがとうございます」
カランカラン、と氷がグラスの中を転がる音がした。いい音だ。この蒸し暑い季節に聞くと、なんとなく気持ちがさわやかになる。
「このあたりに住んでるの?」
「いや、きょうはたまたま用事があって……」
店の前にあった傘は山下の傘だろう。山下が落とし物の傘を拾ってそのまま使うとは、考えにくい気がした。私が知っている、野球少年の山下のままならば。
「そうか。こんな土曜日の夜にひとりでその恰好だから、てっきり近所なのかと」
私は自分の姿を確認した。確かに、酷い恰好ではある。ポロシャツにチノパンで、おまけにずぶ濡れだ。
「酷いなぁ、そこまではっきり言い切るなんて」
「冗談だよ、冗談」
中学時代、いつも揶揄われていたことを思い出す。変な髪型、変な服装、変な声。私がやることなすことすべて、変なの、と笑っていた。
「相変わらず、ひねくれてるんだね」
「悪かったな」
そう言って薄っすら笑う。空気が読めないというか、正直というか。単純という言葉がよく似合うのは相変わらずそうだ。
「どうぞ」
店員さんが私の目の前にしゅわしゅわと弾けるソーダ水を置く。見た目はただの透明な炭酸水だ。
「こちらが特製シロップです」
小さなガラスのカップに、キラキラと輝くシロップがたっぷりと注がれている。まるで夜空だ。今にも流れ落ちそうな星々が見える。こんなシロップを、一体どうやって作るのか。
「綺麗ですね」
「このシロップをゆっくりと注いでください。夜が広がっていきますよ」
私はこぼさないよう慎重にカップを持ち、ソーダ水の中へゆっくりと注いだ。じんわりと透明なソーダ水に夜がやって来る。徐々に夜が深まっていき、美しい夜がグラスの中で輝いていた。
「あの、どうして〈一夜を注ぐソーダ水〉って言うんでしょうか。確かに夜空みたいなソーダ水ですけど」
私は気になって訊ねる。
「このソーダ水は、注文されたお客様にとって今夜一晩だけでもいい、逢いたいと想う人とめぐり逢えるといいな、と思って付けた名前なんです」
「今夜一晩だけでもいい、逢いたい人……」
私は店員さんの言葉を小さな声で口ずさんだ。
「誰か、いらっしゃいますか?」
「え……?」
私はしゅわしゅわ、ぱちぱちと音を立てるソーダ水を前にして固まった。
「どうぞ、召し上がってください」
私は言われるままストローで夜を吸い上げる。口に入った瞬間、一気に気分が晴れ渡る。ちょうどよい甘さ。そしてレモンの酸味が効いている。
「美味しいです」
「だろ?」
なぜか山下が得意げに答えた。
「俺もさっき注文したんだ」
「そう……なんだ」
山下には今夜一晩だけでもいい、逢いたい人はいるのだろうか。土曜日の夜。たったひとりでこんなところにいる様子からして、恋人や奥さんはいないのか。それとも、私と同じようにたまたま今夜はひとりだっただけか。
なんとなく、山下の左手薬指を見る。ゴツゴツした指に指輪はなかった。
「本当に、久しぶりだな」
「……うん」
7年、いや、中学を卒業してからほとんど会っていない同級生だ。ふたりきりで一体なにを話せばいいのだろうか。私は頭の中で色々文章を考えては消して、それを繰り返して黙っていた。
元気だった?
それじゃあありきたりすぎるか。
私に告白したの、覚えてる?
そんなことを聞いたら一気に気まずくなってしまう。
「ちょっと奥にある荷物を取りに行くので、少し失礼しますね」
店員さんが気を利かせてか、店の奥へと消える。消えた瞬間、山下はすぐに口を開いた。
「俺が告白したこと、今も覚えてるか?」
まさかの質問に、私は呆然とする。
さすがにその話題には触れないだろうと思っていた。なんの前置きもなく、急にその話題からいくなんて。
「え……」
言葉を失う。
なんて返すのが正しいだろうか。
もちろん、覚えている。いまだに夢に出て来るくらいだ。でも、覚えてると言ったらなんだかおかしな展開になりそうで怖い。
「覚えてないか、そんな昔のこと」
笑いながら首の後ろを掻いた。
私はそのまま苦笑いする。
告白された日も、同じような感じだった。山下は唐突に自分の気持ちを打ち明けて来て、私は返事ができなかった。私は山下のことを想っていたけれど、まさか両想いだなんて想像もしていなかった。それに、いつもバカにされていたからむしろ嫌われているのかとまで思っていた。
私も頑固だった。せっかく自分の気持ちを打ち明けてくれたのに、正直に「私も好き」と答えることができなかった。恥ずかしさもあったのかもしれない。誰かと付き合うってことがどういうことなのかも、気持ちを伝えることがどういうことなのかも、あまりよくわかっていなかった。
「どうして、そんなことを?」
私はあえて訊き返す。
「いや、なんとなく」
なんとなく、久しぶりに会った同級生にそんな話題を振るか? 私はまた苦笑いする。
「その顔、あのときとおんなじ顔」
人の顔を指さして笑った。
「ちょっと、失礼でしょ」
「ほんと、森谷は全然変わってないな」
「山下だって……」
不器用な男だ。でも、真っすぐ。山下が投げるボールみたいにストレートだった。
「そういえば、野球部のキャプテンだったよね」
「今もまだ野球やってるよ。だからこんなに真っ黒」
腕をまくって見事に焼けた腕を見せてくれた。半そでをめくったところは白い。
「ほんとだ」
私は笑う。
何度か友達と野球部の試合を応援しに行った。山下は勉強はできなかったが、運動神経はずば抜けてよかった。足も速かった。たぶん、女子にも人気があったんじゃないだろうか。
「何人かに告白されたでしょ、中学の頃に」
「まあな。バレンタインとか」
なんだよ、自慢かよ、と私は唇を尖らせる。
「一番欲しかったチョコはもらえなかったけどな」
「一番欲しかったチョコ?」
トリュフチョコとか生チョコとか、チョコレートの種類を想像していた私は「森谷からのチョコが一番欲しかったんだよ」と言われてまた言葉を失くす。
せっかく話題が少しずつ逸れていっていたはずなのに。
「昔の話でしょ」
「まあ、昔の話だな」
カラン、とグラスの中の氷が鳴る。
「でも、あの頃の返事、ちゃんと聞きたかった」
私の目を真っすぐ見て言う山下は、あの頃のままだ。あの日、暑い夏の日。大きな入道雲。誰もいない学校のグラウンド。ひぐらしが鳴く木の下で、私の目を真っすぐに見つめて言った。――俺と付き合ってくれないか? と。
私が素直になって、山下に自分の気持ちを伝えて、付き合うことになったとしたら。きっと山下は私を大切にしてくれただろう。不器用なりに、ちゃんと向き合ってくれただろう。今の山下の瞳を見れば、あるはずのなかった未来が見える気がした。
今もまだ山下の夢を見ると言ったら、どうなるだろう。山下は喜ぶだろうか。
いや、どうしてそんなことを考えるのだろう。きょうの私はおかしい。
「あの頃、俺のこと好きだった?」
ドクン、と自分の鼓動が耳元で聞こえた気がした。手のひらを見ると、じんわり汗をかいている。
窓の外は土砂降りだった。本当に一時間もしないで雨が止むのかと疑うほど、雨脚は強かった。
確かに私は、山下のことが好きだった。告白されたのに、両想いだったのに自分の気持ちを伝えられなかったことで、そのあと高校三年間も引きずった。
でも。
「……ないしょ」
私はベーっと舌を出してソーダ水を飲んだ。きっと、私の下はこの夜空みたいな色をしているだろう。
「内緒か」
奥の扉から店員さんが戻って来ると「お会計を」と山下は私の分も払ってくれた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。また、お待ちしております」
店員さんの温かい笑顔を見て、私たちは土砂降りの外へ出る。
山下が持っていた傘は、ただの真っ黒い傘だった。私の見間違いだった。
「一緒に入って行くか?」
山下の傘は肩と肩を寄せ合えば、大人ふたり入れそうな大きさだった。
だけど私は首を横に振った。
「大丈夫。ありがとう」
未だにあの頃の夢を見るのは、おそらく私があの頃をただ懐かしんでいるだけだ。山下とどうこうなりたいわけではない。確かに告白されたのに答えられなかったことには、当時の私は後悔していた。だけど、今は後悔していない。私は、いや、私たちは、今目の前にあるちょっとした出来事を選択して積み重ねて来た。もし山下と付き合っていたなら、それはそれで楽しい青春を送ったのかもしれない。でも、今の私とは全くの別の人生を辿ることになる。純にはめぐり逢えなかったかもしれない。
「じゃあ、またな」
「うん」
またどこかで、私たちは出会うだろうか。そのときの私は、きょうの私を思い出すだろうか。
雨は止みそうになかった。走って地下鉄まで行こう。最寄り駅に着くころには、止んでいるかもしれない。
私はさっき飲んだソーダ水とは違う、星ひとつない空を見上げた。
「お嬢さん、濡れますよ」
聞きなれた声がした。後ろを振り返ると、純がいた。
「あれ、どうしてこんなところに?」
「それは僕のセリフだよ。どうして傘もささずに、こんなところにいるの?」
私はさっと純の傘の中に入り込む。
「きょう、この辺りで飲んでたんだ。早く帰ろうと思って、ちょうど駅に向かってるところだったよ」
「偶然だね」
嬉しい偶然だ。私はぎゅうっと純の腕を掴む。
「どうした? なにかあった?」
「ううん、なんにも。傘を探してたの」
「見つかった?」
私は小さくため息ついて「見つからなかった」と答えた。
「そう思って、これ」
純は鞄の中から小さな折り畳みの傘を取り出した。
「広げてみて?」
広げると、傘の中は青空が広がっていた。私が失くした傘と同じ柄だ。
「晴の傘は、これじゃないとね」
純はそう言って嬉しそうに笑った。
この青空の傘は、私にとって大切な思い出だ。
「ありがとう……」
純と初めて出会った日は、きょうみたいな雨の日だった。傘を忘れてしまい、カフェの軒先で雨宿りしていると、見知らぬ私に純が傘を貸してくれた。傘を広げると青空で、気持ちがぱっと晴れ渡るようだった。それがきっかけで私たちは会うようになった。
「さて、帰りましょうか」
私はあえて傘を折り畳み、また純の傘の中に入った。
「きょうはこのまま一緒に帰りたいな」
「しょうがないなぁ」
しょうがない、と言いつつも純はにっこり笑っていた。私にはやっぱり、純に犬のしっぽが生えているように見えた。
「あしたはなにしようね」
「うーん、なにしようね」
邑子が言った通り、私は最高の恋人を捕まえたらしい。
最寄り駅で降りたとき、雨は上がって空には小さく星が光っていた。
完
どこに忘れたのか全く思い出せなくて、置いた瞬間はきょう一日の中でたくさんあった。出勤前に寄ったコンビニ、会社の傘立て、帰りに寄った駅のトイレ、友達と待ち合わせたフレンチレストラン。
帰りの電車の中で気づいた。傘をどこかに忘れて来てしまった、と。
帰宅すると恋人の純が風呂上りでテレビを観ていた。まだ髪が濡れている。
「ただいま」
「晴ちゃんお帰りー。どうだった? 楽しかった?」
嬉しそうにニコニコ笑顔で訊ねて来た。
「うん、楽しかったよ。でも傘をどこかに忘れて来ちゃったみたいでー」
「え、あのお気に入りのやつ?」
「そうなんだよねぇ。どこに忘れて来ちゃったんだろう……」
ヒールを脱ぐと、一気に疲労感で身体が重怠く感じた。
「見つかるかなぁ」
さっきまでニコニコしていた表情が一気に暗くなる。まるで自分のことのように悲しんでいるように見えた。
こういうところが、大好きだ。
きっと犬なら帰って来たらしっぽをブンブン振って、寂しくなるとくーんと鳴いて耳を下げるのだろう。いや、私には純にもふわふわの尻尾や耳が生えているように見えなくもない。
「元気出して?」
純は玄関先で立ち尽くす私をぎゅっと優しく抱きしめる。私はシャンプーの香りを堪能した。甘くていい香り。なぜ、同じシャンプーリンスを使っているのに、純の髪の匂いは私と違っていい香りがするのか。不思議だ。
「お風呂入る? 僕が髪の毛洗おっか?」
「えー? いいよ、ひとりで洗えるし」
嬉しいくせにー、と純は怪しげに笑う。
幸せだ。
私たちは半年後――夫婦になる。
ベッドの中で、純の寝息を聴きながらフレンチレストランで食べたメニューを思い出し、友達の邑子のことを思い出していた。
「いいなぁ、純くん。最高の彼氏捕まえたよね」
邑子は学生時代の先輩と結婚したものの、2年でその結婚生活に終止符を打った。原因は浮気でも不倫でもない。ただお互いに興味がなくなってしまい、会話もなくなり、当然身体の関係もなくなってしまった。ただの同居人になってしまったため、お互い自然に離婚を切り出した。邑子は「円満離婚」と笑って言う。
「今は晩婚化が進んでるし、私の年齢ならまだまだ結婚相手なんて山のようにいるし」
私たちは今年27歳になる。私の周囲では二十代頭で結婚ラッシュが来て、今もまた結婚ラッシュだ。私もそれに乗ったような感じだろう。
「お祝儀だけで給料なくなっちゃうよぉ」
「ほんと、ごめんね?」
「本音じゃないくせに」
私たちは小学生、いや、幼稚園の頃からの友達だ。どうやって友達になったのかさえ、お互い覚えていないくらいのときからずっと一緒にいる。高校からは別々だけれど、時々会って近況報告をしあうのは暗黙のルールになっていた。それは社会に出ても変わらない。邑子と会うと、今自分がいる環境を超えて、たったふたりだけの柔らかくて優しい空間にいるような気分になる。うまく説明できないけれど、とにかく落ち着くのは間違いない。
私は幸せだ。愛してくれる恋人がいて、なんでも話せる親友がいる。30までには結婚したい、という密かな夢も叶いそうだ。
――でも。
時々、私は昔を思い返す。
中学校の校庭。響く生徒たちの声。白いユニフォームについた泥。大きなスポーツバッグ。中に入っていた教科書は砂まみれで、あちこち折れ曲がっていた。そんな、同級生の野球少年を。
彼はその当時と変わらない姿で、今も私の夢に時々現れる。そしてこう、訊ねる。――俺と付き合ってくれないか?
目が覚めると、コーヒーのいい香りがした。フライパンの上で卵が焼ける美味しそうな音も聞こえる。
時計を見ると、もう朝の九時だ。すっかり寝坊してしまったらしい。
「おはよう」
目をこすりながらキッチンへ行くと、純がお皿を並べてトーストにバターを塗っていた。こんがりときつね色に焼けたトーストに、バターがじゅわっと溶けている。お腹が空いた。
「ごめん、寝坊しちゃって」
「いいよ。お腹空いちゃって、僕はもう食べちゃった」
私の分だけできたてを作っているのか。私はキッチンに向かう純の後ろ姿にハグをした。
「ありがとうー! 美味しそう」
「きょうは僕の帰りが遅くなっちゃうけど、ひとりで大丈夫?」
「大丈夫だよ、楽しんできて」
きょうは土曜日。私はなんの予定もないけれど、純は夜から大学時代の友達と飲み会だ。
「子どもじゃないんだから、大丈夫だよ」
「なにか買って来ようか?」
「いいよ、夜も適当に済ませるし」
そう? と純はバターが染みたトーストをお皿の上に乗せる。スクランブルエッグとサラダ。コーヒーはこの間ふたりで買いに行ったコーヒー豆だ。
「いただきます」
「どうぞどうぞー」
私たちの部屋は小さな2人掛けのテーブルしかなく、向かい合って座るとかなり狭い。でもこの距離感が私にはとてもいい。純も向かいに座ってニコニコきょうも嬉しそうだ。
お互い会社務めで平日は忙しい。土日は決まってふたりで買い出しや掃除、洗濯でまた忙しい。梅雨のこの季節、雨ばかりで毎日気が病む。だけどきょうは朝から暑すぎるくらいの晴天だった。もう夏はすぐそこだ。
溜まった洗濯物を洗い、ベッドのシーツや枕カバーも一気に洗う。一通り家の中の掃除が済んだら、ふたりで歩いて近くの安いスーパーへ行く。なるべく安い食材を買って、帰ったらお弁当用の作り置きをふたりで作る。
生活感しかない私たちの日常は、それでも愛おしくて、大切な時間だった。
――俺と付き合ってくれないか?
心の中で丸刈り頭の野球少年が言った言葉が浮かぶ。
これは、浮気じゃないよね?
心の中がざらついた。
彼のことが、好きだった。中学時代の3年間。それから高校時代の3年間も。大学生になって初めて彼氏ができたが、初めての恋人のことはちっとも夢に出て来ない。たぶん、彼とは付き合うことなく自分の想いを伝えることなく終わってしまったのが、いけなかったんだと思う。だからきっと、彼は今も夢に出て来る。
「きょう、魚が安いねぇ」
カートを押しながら純が魚を見る。鯵を手に取り「フライにしたら美味しそう」となにやら想像しているようだった。
もし、彼に想いを伝えていたら、どんな未来があっただろう。私たちは付き合っただろうか。おそらく、そうだろう。でも、その後はどうなっただろうか。あっという間に別れてしまって、思い出したくもない恋愛の山に埋もれていただろうか。
「ね、美味しそうじゃない?」
「あ……うん、そうだね。お昼ご飯はフライにしよっか」
「いいねいいね。あ、お蕎麦とフライにしようよ。絶対美味しい」
お蕎麦、お蕎麦と純は麺の売り場へ歩いていく。
もし彼と付き合っていたら、純とは結婚しない未来だっただろうか。
今の自分に十分満足している。不満なんてひとつもない。それなのに、時々こんなことを考える自分は酷い女だろうか。
少しでもきょうまでの自分と違う選択をしていたら、私の人生はどんなふうに変わっていたのか。
「お蕎麦、あったよー」
私は慌てて純の隣へ行く。私の居場所は間違いなく今ここにある。それ以外はない。もし、なんていうものは存在しないのだ。
純が出かけたあと、きのう行ったフレンチレストランに電話をした。駅にも連絡してみた。しかし、答えはどちらも同じ。きのうだけで何本も傘の忘れ物をお預かりしています、だった。きのうは朝から雨が酷かったが、夜にはすっかり晴れていた。だから忘れる人が多かったのだろう。私も同じだ。
フレンチレストランの店員さんは丁寧で、傘の柄をすべて教えてくれた。その中に青空の傘はなさそうだった。駅の方は、フレンチレストランよりはるかに多い数の忘れ物があるだろうから、直接行くしかない。
私は小さな鞄に財布と定期券とスマホだけを入れて、簡単な恰好で外に出た。
昼間は天気がよかったのに、今はどんよりと曇った空が覆っている。月も星も全く見えない。どうか、雨が降りませんようにと祈りながら小走りで駅まで向かった。
フレンチレストランは自宅と会社のちょうど中間あたりにあった。たしか、トイレの中で傘を置いた気がしたがまさか置いたままになってないだろうか、とトイレの中を覗くも傘はなかった。駅員さんに訊ねると、何本も傘を見せてくれたが私の青空の傘はなかった。厄介なのは、私の傘は広げてみないと中の青空が見えないことだ。私は何本も黒い傘を広げては畳んだ。
せっかくだから、フレンチレストランにも直接見に行こう。もしかしたら、黒いから中の柄に気づいていないかもしれない。
私は駅員さんにお礼を言って、地下から地上へ上がった。
外は雨が降っていた。傘も持っていない私は、とにかく走って駅からすぐ近くにあるフレンチレストランまで向かった。
しかし、そこにもなかった。
仕方なく私は元来た道を戻る。この季節の雨はなんだか重たく感じた。服に染み込んで、余計身体が重たい。
居酒屋やバーがずらりと並ぶ店先で、ふと一本の黒い傘に目が留まる。黒い傘の中が青く見えた。あれ、と立ち止まる。
もしかして、誰かが持って行ったかもしれない。
落とし物は拾った誰かが届けてくれるとは限らない。私はそこまで考えつかなかった。
見知らぬ店先の傘置きをジロジロと眺める。〈一夜〉と書かれた看板。小さなグラスの電飾。バーだろうか。
ガラス張りの店は店内の様子が丸見えだ。中で黒いシャツを着た男性と店員らしき男性が話をしているのが見えた。
あまりに私が見つめすぎたせいか、店内にいたふたりと目が合う。そして男性店員が店の扉を開けて私の方を見た。
「どうぞ」
客と間違えられてしまったらしい。私は慌てて首を振る。
「あ、もしよければ傘を御貸ししましょうか?」
ガラスに映る私はバケツ水でも被ったみたいにびしょ濡れだった。髪の毛から雨がぽたぽたと落ちる。
「天気予報だと、あと一時間もしないで止むそうなので、雨宿りしていかれます?」
優しい店員さんだ。微笑むと目尻にできる皺がくっきり浮かび上がる。笑った口元が柔らかい。
「あ、あの……この傘……」
そこまで言葉が出かかって、口を閉じる。
なんて言えばいいのか。お客さんの傘を広げて中を見るわけにはいかない。同じ傘なんてこの世界にはたくさんある。もし広げたら青空の傘だったとしても、それが私の傘だという証拠はなにもない。
「傘?」
「いや……なんでもないです」
私は慌ててその場を去ろうとした。
「……森谷?」
店内から出て来たのは、体育会系っぽい雰囲気の男性だった。浅黒い肌。黒いシャツからも筋肉の付き具合がよくわかる。いかにも、運動しています、という感じだ。
私は彼の顔を見ても誰なのかさっぱりわからなかった。名前を知っているということは、知り合いには違いない。でも、一体誰なのか。
「俺、わかんない?」
必死に思い出そうとする私に、彼は困ったなぁと眉を下げる。
「ほら、同じ中学だった、山下悠斗」
「え? 山下……?」
そんな、と私は山下悠斗と名乗る男性の真ん前で顔をじぃっと見つめる。三角眉毛に奥二重。分厚い唇。丸刈り頭ではないが、間違いない。私がその名前を忘れるはずがなかった。だって、彼は――山下悠斗は私の初恋の人だから。今もあの頃と変わらない姿で私の夢に現れる彼だから。
「こんな偶然ある?」
私は真面目に質問した。
「いや、俺もなんか見覚えのある声と顔だなって思って。まさかだよ。でも、変わってないか」
「どういう意味よ」
山下はへへ、と笑う。その笑顔こそ、あの頃のまま、なにも変わっていなかった。
「お知り合いだったようで。もしよろしければ、どうぞ」
私はどうしようか迷った。でも、こんな偶然あり得ない。山下とは成人式の同窓会でちらっと顔を合わせたきり、もう7年会っていない。
「せっかくだから、なにか奢らせてよ」
「じゃあ、せっかくだし……」
店内はカウンターが4席あるだけの小さな店だった。奥から2番目の席に座ると、山下がメニューを私に渡す。
美味しそうなメニューが並んでいた。バーだとばかり思っていたが、メニューから見てどうやら喫茶店のようだ。
「じゃあ、私はコーヒーをお願いします」
「コーヒーも美味しいけど、ここはソーダ水がおすすめなんだよ」
「……ソーダ水?」
言われてもう一度メニューを見る。〈一夜を注ぐソーダ水〉という名がある。これのことか。
「それじゃあ、この〈一夜を注ぐソーダ水〉をお願いします」
「はい、ありがとうございます」
カランカラン、と氷がグラスの中を転がる音がした。いい音だ。この蒸し暑い季節に聞くと、なんとなく気持ちがさわやかになる。
「このあたりに住んでるの?」
「いや、きょうはたまたま用事があって……」
店の前にあった傘は山下の傘だろう。山下が落とし物の傘を拾ってそのまま使うとは、考えにくい気がした。私が知っている、野球少年の山下のままならば。
「そうか。こんな土曜日の夜にひとりでその恰好だから、てっきり近所なのかと」
私は自分の姿を確認した。確かに、酷い恰好ではある。ポロシャツにチノパンで、おまけにずぶ濡れだ。
「酷いなぁ、そこまではっきり言い切るなんて」
「冗談だよ、冗談」
中学時代、いつも揶揄われていたことを思い出す。変な髪型、変な服装、変な声。私がやることなすことすべて、変なの、と笑っていた。
「相変わらず、ひねくれてるんだね」
「悪かったな」
そう言って薄っすら笑う。空気が読めないというか、正直というか。単純という言葉がよく似合うのは相変わらずそうだ。
「どうぞ」
店員さんが私の目の前にしゅわしゅわと弾けるソーダ水を置く。見た目はただの透明な炭酸水だ。
「こちらが特製シロップです」
小さなガラスのカップに、キラキラと輝くシロップがたっぷりと注がれている。まるで夜空だ。今にも流れ落ちそうな星々が見える。こんなシロップを、一体どうやって作るのか。
「綺麗ですね」
「このシロップをゆっくりと注いでください。夜が広がっていきますよ」
私はこぼさないよう慎重にカップを持ち、ソーダ水の中へゆっくりと注いだ。じんわりと透明なソーダ水に夜がやって来る。徐々に夜が深まっていき、美しい夜がグラスの中で輝いていた。
「あの、どうして〈一夜を注ぐソーダ水〉って言うんでしょうか。確かに夜空みたいなソーダ水ですけど」
私は気になって訊ねる。
「このソーダ水は、注文されたお客様にとって今夜一晩だけでもいい、逢いたいと想う人とめぐり逢えるといいな、と思って付けた名前なんです」
「今夜一晩だけでもいい、逢いたい人……」
私は店員さんの言葉を小さな声で口ずさんだ。
「誰か、いらっしゃいますか?」
「え……?」
私はしゅわしゅわ、ぱちぱちと音を立てるソーダ水を前にして固まった。
「どうぞ、召し上がってください」
私は言われるままストローで夜を吸い上げる。口に入った瞬間、一気に気分が晴れ渡る。ちょうどよい甘さ。そしてレモンの酸味が効いている。
「美味しいです」
「だろ?」
なぜか山下が得意げに答えた。
「俺もさっき注文したんだ」
「そう……なんだ」
山下には今夜一晩だけでもいい、逢いたい人はいるのだろうか。土曜日の夜。たったひとりでこんなところにいる様子からして、恋人や奥さんはいないのか。それとも、私と同じようにたまたま今夜はひとりだっただけか。
なんとなく、山下の左手薬指を見る。ゴツゴツした指に指輪はなかった。
「本当に、久しぶりだな」
「……うん」
7年、いや、中学を卒業してからほとんど会っていない同級生だ。ふたりきりで一体なにを話せばいいのだろうか。私は頭の中で色々文章を考えては消して、それを繰り返して黙っていた。
元気だった?
それじゃあありきたりすぎるか。
私に告白したの、覚えてる?
そんなことを聞いたら一気に気まずくなってしまう。
「ちょっと奥にある荷物を取りに行くので、少し失礼しますね」
店員さんが気を利かせてか、店の奥へと消える。消えた瞬間、山下はすぐに口を開いた。
「俺が告白したこと、今も覚えてるか?」
まさかの質問に、私は呆然とする。
さすがにその話題には触れないだろうと思っていた。なんの前置きもなく、急にその話題からいくなんて。
「え……」
言葉を失う。
なんて返すのが正しいだろうか。
もちろん、覚えている。いまだに夢に出て来るくらいだ。でも、覚えてると言ったらなんだかおかしな展開になりそうで怖い。
「覚えてないか、そんな昔のこと」
笑いながら首の後ろを掻いた。
私はそのまま苦笑いする。
告白された日も、同じような感じだった。山下は唐突に自分の気持ちを打ち明けて来て、私は返事ができなかった。私は山下のことを想っていたけれど、まさか両想いだなんて想像もしていなかった。それに、いつもバカにされていたからむしろ嫌われているのかとまで思っていた。
私も頑固だった。せっかく自分の気持ちを打ち明けてくれたのに、正直に「私も好き」と答えることができなかった。恥ずかしさもあったのかもしれない。誰かと付き合うってことがどういうことなのかも、気持ちを伝えることがどういうことなのかも、あまりよくわかっていなかった。
「どうして、そんなことを?」
私はあえて訊き返す。
「いや、なんとなく」
なんとなく、久しぶりに会った同級生にそんな話題を振るか? 私はまた苦笑いする。
「その顔、あのときとおんなじ顔」
人の顔を指さして笑った。
「ちょっと、失礼でしょ」
「ほんと、森谷は全然変わってないな」
「山下だって……」
不器用な男だ。でも、真っすぐ。山下が投げるボールみたいにストレートだった。
「そういえば、野球部のキャプテンだったよね」
「今もまだ野球やってるよ。だからこんなに真っ黒」
腕をまくって見事に焼けた腕を見せてくれた。半そでをめくったところは白い。
「ほんとだ」
私は笑う。
何度か友達と野球部の試合を応援しに行った。山下は勉強はできなかったが、運動神経はずば抜けてよかった。足も速かった。たぶん、女子にも人気があったんじゃないだろうか。
「何人かに告白されたでしょ、中学の頃に」
「まあな。バレンタインとか」
なんだよ、自慢かよ、と私は唇を尖らせる。
「一番欲しかったチョコはもらえなかったけどな」
「一番欲しかったチョコ?」
トリュフチョコとか生チョコとか、チョコレートの種類を想像していた私は「森谷からのチョコが一番欲しかったんだよ」と言われてまた言葉を失くす。
せっかく話題が少しずつ逸れていっていたはずなのに。
「昔の話でしょ」
「まあ、昔の話だな」
カラン、とグラスの中の氷が鳴る。
「でも、あの頃の返事、ちゃんと聞きたかった」
私の目を真っすぐ見て言う山下は、あの頃のままだ。あの日、暑い夏の日。大きな入道雲。誰もいない学校のグラウンド。ひぐらしが鳴く木の下で、私の目を真っすぐに見つめて言った。――俺と付き合ってくれないか? と。
私が素直になって、山下に自分の気持ちを伝えて、付き合うことになったとしたら。きっと山下は私を大切にしてくれただろう。不器用なりに、ちゃんと向き合ってくれただろう。今の山下の瞳を見れば、あるはずのなかった未来が見える気がした。
今もまだ山下の夢を見ると言ったら、どうなるだろう。山下は喜ぶだろうか。
いや、どうしてそんなことを考えるのだろう。きょうの私はおかしい。
「あの頃、俺のこと好きだった?」
ドクン、と自分の鼓動が耳元で聞こえた気がした。手のひらを見ると、じんわり汗をかいている。
窓の外は土砂降りだった。本当に一時間もしないで雨が止むのかと疑うほど、雨脚は強かった。
確かに私は、山下のことが好きだった。告白されたのに、両想いだったのに自分の気持ちを伝えられなかったことで、そのあと高校三年間も引きずった。
でも。
「……ないしょ」
私はベーっと舌を出してソーダ水を飲んだ。きっと、私の下はこの夜空みたいな色をしているだろう。
「内緒か」
奥の扉から店員さんが戻って来ると「お会計を」と山下は私の分も払ってくれた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。また、お待ちしております」
店員さんの温かい笑顔を見て、私たちは土砂降りの外へ出る。
山下が持っていた傘は、ただの真っ黒い傘だった。私の見間違いだった。
「一緒に入って行くか?」
山下の傘は肩と肩を寄せ合えば、大人ふたり入れそうな大きさだった。
だけど私は首を横に振った。
「大丈夫。ありがとう」
未だにあの頃の夢を見るのは、おそらく私があの頃をただ懐かしんでいるだけだ。山下とどうこうなりたいわけではない。確かに告白されたのに答えられなかったことには、当時の私は後悔していた。だけど、今は後悔していない。私は、いや、私たちは、今目の前にあるちょっとした出来事を選択して積み重ねて来た。もし山下と付き合っていたなら、それはそれで楽しい青春を送ったのかもしれない。でも、今の私とは全くの別の人生を辿ることになる。純にはめぐり逢えなかったかもしれない。
「じゃあ、またな」
「うん」
またどこかで、私たちは出会うだろうか。そのときの私は、きょうの私を思い出すだろうか。
雨は止みそうになかった。走って地下鉄まで行こう。最寄り駅に着くころには、止んでいるかもしれない。
私はさっき飲んだソーダ水とは違う、星ひとつない空を見上げた。
「お嬢さん、濡れますよ」
聞きなれた声がした。後ろを振り返ると、純がいた。
「あれ、どうしてこんなところに?」
「それは僕のセリフだよ。どうして傘もささずに、こんなところにいるの?」
私はさっと純の傘の中に入り込む。
「きょう、この辺りで飲んでたんだ。早く帰ろうと思って、ちょうど駅に向かってるところだったよ」
「偶然だね」
嬉しい偶然だ。私はぎゅうっと純の腕を掴む。
「どうした? なにかあった?」
「ううん、なんにも。傘を探してたの」
「見つかった?」
私は小さくため息ついて「見つからなかった」と答えた。
「そう思って、これ」
純は鞄の中から小さな折り畳みの傘を取り出した。
「広げてみて?」
広げると、傘の中は青空が広がっていた。私が失くした傘と同じ柄だ。
「晴の傘は、これじゃないとね」
純はそう言って嬉しそうに笑った。
この青空の傘は、私にとって大切な思い出だ。
「ありがとう……」
純と初めて出会った日は、きょうみたいな雨の日だった。傘を忘れてしまい、カフェの軒先で雨宿りしていると、見知らぬ私に純が傘を貸してくれた。傘を広げると青空で、気持ちがぱっと晴れ渡るようだった。それがきっかけで私たちは会うようになった。
「さて、帰りましょうか」
私はあえて傘を折り畳み、また純の傘の中に入った。
「きょうはこのまま一緒に帰りたいな」
「しょうがないなぁ」
しょうがない、と言いつつも純はにっこり笑っていた。私にはやっぱり、純に犬のしっぽが生えているように見えた。
「あしたはなにしようね」
「うーん、なにしようね」
邑子が言った通り、私は最高の恋人を捕まえたらしい。
最寄り駅で降りたとき、雨は上がって空には小さく星が光っていた。
完