茜の三つ年下の妹は、幼い頃から周りがよく見える子どもだった。大人の顔色を伺い、周りの求める態度を取る。妹は無意識にやっているようで、何度か指摘したことがあるが、本人に心当たりはないようだった。
「そんなに周りの顔色を気にしなくていいんだよ」
 茜が妹にそう言ったのには理由がある。
 妹は周りがよく見えるが故にとても繊細で、傷つきやすかったからだ。気遣い疲れなのか、体調を崩してしまうことも多かった。
 茜はそんな妹が心配で堪らなかった。三つ年下の大事な妹。顔は茜にそっくりなので、かわいいかと言われると、まあ普通かな、と答えるしかない。でも、茜にとっては特別かわいい妹だった。

「お姉ちゃん! あのね、私、彼氏ができたの!」
 もうすぐ大学生になる妹が嬉しそうに報告してきたとき、ついにこの日が来てしまった、と茜は笑顔の裏で涙を飲んだ。よかったね、と言葉を返しながら、ずきずきと痛む胸に気づかないふりをする。
 いつかこんな日が来ると分かっていた。妹のかなでは、茜と違って愛嬌がある。表情がころころ変わるせいだろうか、茜とほとんど同じ顔なのに、茜よりもずっとかわいく見えた。それは姉のひいき目もあるかもしれないけれど、妹をかわいいと思っているのは自分だけではないと、茜は知っている。
 九条咲夜、三つ年下の幼馴染。かなでの同級生で、子どもの頃からずっとかなでのことを好きでいる、不器用だけど一途な男の子だ。
 茜はてっきり咲夜がかなでに告白をし、その恋が実ったものだと思って話を聞いていた。しかし、かなでの言う彼氏がどうやら咲夜ではないらしい、と気づき、慎重に訊ねた。
「えっ、その彼氏って私の知らない人?」
「んーと、知ってるかもしれないけど、会ったことはないと思うよ」
 会ったことはないのに知っている、という意味はよく分からなかったが、かなでのその言葉で確信した。妹の恋人は、咲夜ではないらしい。茜は咲夜と何度も会ったことがあるからだ。
「かなで、ごめん。私ちょっと出かけてくるね」
「えっ、お姉ちゃん、もう外真っ暗だよ?」
「大丈夫。かなでは彼氏と電話でもしてな」
 茜の言葉に、かなでは頰を真っ赤に染めた。ちょっとからかっただけで赤くなってしまうなんて、茜の妹は随分純粋なまま育ったらしい。相手の男が手の早いやつじゃないといいけど、と心配しながら、茜は外に飛び出した。

 目的地はそう遠くない。幼馴染である咲夜の家だ。カーテンの合間から明かりが漏れているので、家の中に誰かしら人がいることは分かる。しかし玄関のインターホンを押すには遅い時間だ。何より、茜が咲夜に会いに来たというのを、咲夜の両親には知られたくなかった。
 茜は小さな声でお邪魔します、と呟き、幼馴染の家の庭に足を踏み入れる。庭にはたくさんボールが落ちている。野球ボールだ。まだ幼かった頃、茜はよく咲夜とキャッチボールをしていた。妹のかなでは運動が苦手なので見ているだけだったが、茜は身体を動かすのが好きなので、よく幼馴染と遊んだものだ。咲夜は男の子だが三つ年下だったので、茜にとっても遊びやすい相手だった。同い年の男子とでは運動能力に差があったけれど、年下の幼馴染ならばキャッチボールの相手にはちょうどよかったのだ。
 野球ボールの他にもゴムボールが落ちていたので、茜はそれを拾い上げる。そして咲夜の部屋の窓に向けて、ぽん、と優しく投げた。久しぶりに投げたゴムボールは上手く窓に当たらず、壁に当たって跳ね返ってきた。落ちてきたボールを拾い、もう一度投げる。今度は窓の桟に当たった。惜しい、と呟いて茜がボールを再び構えるのと、カーテンが開き、窓から咲夜が顔を出したのはほぼ同時だった。
 妹ほどではないが、茜も運動が得意な方ではない。投げかけたボールを止めることができず、「やばっ」と思わず口にしたけれど、もう遅い。さっきまでは窓に当たらなかったくせに、こんなときに限ってさっきまで窓のあった場所、つまり咲夜の顔めがけてボールが飛んで行く。しかしそのボールが顔面に当たることはなかった。大きな手がボールを難なくキャッチし、それから咲夜は目を瞬かせる。
「…………え? 茜さん?」
「あはは……、ごめん」
 咲夜は驚いた表情で茜を見つめ、それから分かりやすくため息を吐いた。

 九条家の庭から出て、門の外で待っていると、玄関が開く音がした。
「あんたこんな時間にどこ行くの」
「ランニング。たろ連れてくな」
「はいはい。気をつけてね」
 玄関から聞こえる咲夜と母の声。それからわん! と元気な声で鳴く犬に、咲夜が「たろ、夜だから静かに」と注意していた。
 門から出てきた咲夜は、先ほど窓から見えた学校指定のジャージではなく、黒の半袖シャツに着替えていた。
 走るの? と茜が訊くと、着いて来られるの? と生意気な言葉が返ってくる。咲夜の頭に軽くデコピンをして、茜は歩き出した。九条家で飼っている大型犬のたろは、茜も一緒に散歩をしたことがある。その散歩コースでいいだろう。
「で? 不法侵入して人の顔面にボール投げてきた茜さんはどうしたんすか」
「いやー、ナイスキャッチだったね。さすが野球部」
「元っすよ。それに俺はプロになれるほど上手くはないし」
 プロになれるほど野球が上手い人なんて、ほとんどいないだろう。そうでなければ世の中プロ野球選手で溢れかえっている。それほど野球というスポーツは経験者が多く、人気も高いのだ。高校野球の大会、夏の甲子園は日本の夏の風物詩と言っても過言ではないだろう。
「かなでから聞いたけど、甲子園優勝したんでしょ? おめでとう」
 妹から聞いて初めて知ったかのように装っているけれど、茜も甲子園の中継をずっと見ていた。プロになれるほど実力はないと咲夜は言っているけれど、夏の甲子園で優勝を勝ち取れるのは全国でたった一校。そのレギュラーメンバーだったのだから、咲夜が上手くないはずはない。咲夜はぶっきらぼうに「どうも」と答えた後、そっぽ向いてしまった。

「で、結局何しに来たんすか」
 咲夜は茜の方を見ないまま、問いかける。妹に彼氏ができたということは、咲夜が失恋してしまったということだ。いてもたってもいられなくなって家を飛び出してきたが、咲夜はかなでに恋人ができたことを知っているのだろうか。切り出し方に困っていると、咲夜が再び口を開いた。
「正直、今は茜さんの顔見るのもしんどいんすけど」
「…………かなでに似てるから?」
 茜の問いかけに、ようやく咲夜が茜を見た。その表情がどこか苦しそうで、茜は悟ってしまう。
 咲夜はかなでに恋人ができたことを知っているのだ。
「さっきかなでから話を聞いて、咲夜のことが心配になってさ」
 言葉を選びながら口にしたが、咲夜は棘のある口調で「失恋野郎だから?」と自虐的に呟く。自暴自棄になっているように見えた。長い付き合いだが、咲夜のそんな姿は初めて見る。
「違うよ。私が咲夜のことを好きだから、心配になったんだよ」
 茜の言葉に、咲夜は目を見開いた。


 大人になってしまえば、三つくらいの年の差はあってないようなものだと聞く。でも学生時代の三歳差はとても大きい。少なくとも、茜にはそう感じた。
 三つ年下の幼馴染のことが好きかもしれないと気付いたのは、妹に向けられる優しい表情を見て、いいなぁと思ったのがきっかけだった。茜は妹のかなでのことを何より大事にしてきたし、可愛がってきたつもりだ。だからこそ、妹に嫉妬なんてしたことは一度もなかった。少し心が弱くて傷つきやすい妹は、姉の茜よりも親に心配されることが多かったけれど、当然だと思っていた。だって妹は、一人で生きていくには繊細過ぎたから。
 妹が一人にならないよう、茜はよく妹と年の近い子に声をかけて遊んでいた。咲夜もそのうちの一人だ。最初は他の相手同様、咲夜に対してもすごく気をつかっていたが、かなではいつの間にか咲夜と仲良くなっていた。咲夜がぐいぐいと距離を詰めてきて、かなでも心を開いたらしい。気安く遊べる友達ができたならよかった。そう思っていたはずだった。
 あれは茜が中学二年生のときだ。茜は友達と公園でジュースを飲みながら、何気ない話をしていた。中学生にもなれば、女の子はおしゃべりだけで何時間も過ごせてしまうものだ。
 同じ公園に妹の姿が見えたので、たまにかなでの様子を見るようにしていた。かなでは一人ぽつんとブランコに揺られている。いつも遊んでいる友達は、サッカーをして遊んでいるようだった。かなでは運動が苦手なので、サッカーはしたくないと言ったのだろうか。そう考えて、すぐに茜は違うだろうなと気づく。かなでは周りの人の表情をよく見ている。自分の一言で空気が悪くなるようなことは言わないはずだ。それならば、かなでが一人でいる理由は? きっと、友達にサッカーのメンバーから外されてしまったのだ。
 茜は友人に声をかけてから、かなでの元に駆け寄った。でもその直前、サッカーをしていたはずの咲夜が、かなでに何かを渡してまた駆けて行く。
「かなで! どうしたの、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
 かける言葉を間違えた、と茜は後悔した。妹は大丈夫でないときでも大丈夫だと言ってしまうのだ。もっと違う聞き方をするべきだった。ふとかなでの手元に視線を落とすと、花冠を持っている。茜がそれどうしたの、と訊ねると、かなでは咲夜がくれたと答えた。
「貸して。いいじゃん、似合う」
 頭に花冠を乗せてあげると、妹は嬉しそうに笑った。これなら戻っても大丈夫だな、と茜が友人の元へ戻るとき、視界に入った。
 見たことのない優しい表情で、咲夜がかなでを見ているところを。
 一度意識したら、その後は何度も視界に入ってきた。咲夜がかなでのことを好きなのだと気づくのに、時間はかからなかった。そして同時に、茜は自分の気持ちにも気づいてしまった。三つも年下の幼馴染に恋をしている、と。そのことは誰にも言わなかった。自分の心に嘘を吐いて、彼氏を作ったこともあった。でもいつも上手くいかない。大学の友達は彼氏と幸せそうに笑っているのに、茜の恋は長く続かない。
 理由なんてものは分かりきっている。


「お互いさ、恋を忘れるために今日だけ協力しようよ」
 茜の言葉に、咲夜は戸惑った表情を見せる。
「協力ってなんすか。っていうか、さっきの」
「私がかなでのふりをするから」
 咲夜の言いかけた何かを遮って、茜は自分の提案を口にする。今はまだ、咲夜の返事は聞きたくなかった。
「何言って、」
「咲夜は私をかなでだと思って好きって言って。私も好きって言うから」
 そうすれば、咲夜はかなでに告白できる。かなでに好きって言ってもらえる。茜だって、咲夜の口から好きという言葉が聞ける。お互いいいとこ取り。もちろん茜はかなでにはなれないし、かなでには他に好きな人がいるので、どちらの恋も叶わない。でも、一晩限りでも恋が叶うならば、それだけでも幸せなのではないか、と茜は思ってしまうのだ。
「私、結構かなでの真似上手いよ? 顔はそっくりだし、身長もそんなに変わらない」
「茜さんをかなでだと思うなんてそんなの、」
「ねー、咲夜、どうしたの?」
 ちょっとのんびりした喋り方。茜よりも少し高い声。自分より背の高い咲夜を覗き込むように、上目遣いに見つめる。
「…………っ!」
 咲夜が息を飲んだのは、茜にも伝わってきた。足元では大型犬のたろが、心配そうに飼い主を見上げていた。
 躊躇して足を止めたまま動かない咲夜の手を引き、茜は無邪気に笑う。
「ね、喉渇かない? ジュース買って半分こしよ」
 他人に対して遠慮がちなところがある妹も、咲夜に対しては素直で、わがままだって言える。茜がかなでのように振る舞っていると、後ろから咲夜の呟く声が聞こえた。かなで、と小さく呼んだ声。どうやら茜はちゃんとかなでに似せられているらしい。少しだけ安堵して、行こ! と茜は咲夜に笑いかけた。

 犬のたろの散歩ルートを辿りながら、何気ない話をした。最初は戸惑っていた咲夜も、少しずつ茜のことを『かなで』と呼び始め、敬語も抜けてきた。
 でもただ会話をするのでは意味がない。それならば、かなでと咲夜が実際に言葉を交わせば済む話だ。かなでには言えないこと。それを茜にぶつけてもらわなければ、せっかくの妹のふりも意味がなくなってしまう。咲夜がなかなか話を切り出そうとしないので、茜はしゃがんでたろの頭を撫でながら、咲夜を見上げた。
「ねぇ、咲夜の話したいことってなあに?」
「…………っ、ずる……」
「え? なにが?」
 今のずるいという言葉は間違いなく茜に向けられたものだが、気づかないふりをして茜はかなでの真似を続ける。
 きょとん、とした表情は、かなでが話においていかれてしまったときによく浮かべる表情だ。
 咲夜は茜の表情を見て、一瞬だけ泣きそうな顔をした。これには茜も驚いて、大丈夫? と声をかけるが、慌てていたせいで素の茜に戻ってしまった。
「茜さん、かなでに似過ぎ、マジで……。双子かよ」
「それはよかった。自信満々に真似できるって言ったけど、家族の前でしかやったことなかったから」
「そりゃそうでしょ」
 咲夜が小さく笑って、茜の隣にしゃがみ込む。茜におとなしく撫でられていた犬のたろは、迷わず飼い主の方に頭を向けた。さすがに飼い主には敵わない。
 先ほど見せた咲夜の泣きそうな表情が、茜の脳裏に焼きついて離れなかった。咲夜を傷つけるだけなら、かなでの真似なんてやめた方がいいのかもしれない。そう思ったときだった。咲夜がたろをじっと見つめながら、ぽつりと呟く。
「…………今夜だけ」
「えっ?」
「今夜だけ、いい? さっきのやつ」
 かなでのふりをしてほしい、とは言いにくかったのかもしれない。茜もあえてその言葉は口にせず、うん、とだけ頷いた。

 咲夜と二人、公園の端の草むらに座り、犬を撫でながらぽつりぽつりと言葉を交わしていく。
「…………かなで」
「んー、どしたの?」
「ずっと…………、聞いて欲しかったことがあるんだけど」
「うん。なあに?」
 茜は無邪気に笑ってみせる。咲夜が真剣に話を切り出してきたら、きっとかなでならそうする。咲夜が話しやすいように、なんでも聞くよ、とやわらかく笑うのだ。
 ずっとたろに向けていた視線を上げ、咲夜が茜の顔を見た。そして茜越しに、かなでへ呼びかけた。
「かなでって陸のこと好きなくせに野球興味ないじゃん」
 陸というのは、かなでの彼氏の名前だろうか。もしそうだとしたら、かなでの恋人も咲夜と同じ野球部だったのかもしれない。そして、咲夜の友達なのかも。
 咲夜はどんな気持ちでかなでのことを見守っていたのだろう。ずっとかなでを守ってくれていた咲夜が、かなでの好きな人に気づかないはずがない。それが自分と同じ野球部の仲間だと知って、咲夜はどれだけ傷ついたのだろう。想像するだけで、ずきんと茜の胸が痛んだ。
 それでも茜はかなでのふりを続ける。
「だってルール分かんないもん」
「何回も説明してるけどな」
「ややこしいの! もっと野球はルールを簡単にした方がいいと思う!」
 自分でも無茶苦茶なことを言っていると思ったが、妹ならばそんな無茶なことも言いそうだ。咲夜は目を丸くした後、「かなでのために野球のルール変えんのかよ」とおかしそうに笑った。それから、かなでに向けるような優しい表情を浮かべ、咲夜が茜を見つめる。
「でも、甲子園の決勝、見にきてくれたじゃん。すげぇ嬉しかった」
 それは茜の知らない話だった。かなでは昔から、何度咲夜に誘われても、試合の見学に行ったことはなかったはずだ。
 ルールも分からないのに応援に行くのは、真剣にやっている人に対して失礼な気がするから。
 いつだか妹が言っていた言葉を茜は思い出した。スポーツに興味のないかなでが、自分の考えを捨てでも、応援に行きたかった理由。それはきっと、咲夜たちにとって高校最後の試合だったからだ。
 かなでが一番応援したかったのは、陸という名前の好きな人かもしれない。でも茜は確信していた。一番は別の人だったとしても、かなでは絶対に咲夜のことも見ていた。応援していた。それだけは間違いないだろう。茜はふわりとやわらかく笑い、自信を持ってその言葉を口にした。
「咲夜、かっこよかったよ」

 夜はすっかり更けていて、公園の中はとても静かだった。近くの街灯がたまにぱちっと音を立てるくらいで、周りには誰もいない。酔っ払ったサラリーマンも、女の子を引っ掛けようとしているタチの悪い男も。公園にいるのは咲夜と茜、それから犬のたろだけだ。たろは散歩が中断されて暇なようで、草むらでぺたりと伏せてしまっている。
 咲夜がかなで、と呼んだ。茜はなあに? と首を傾げてみせる。再び沈黙が流れるが、茜は急かそうとは思わなかった。幼い頃からずっと言えずに抱えてきた気持ちを口にしようとしているのだ。時間がかかるのも無理はない。
「話したいこと、なんだけど」
「んー、なんだろ」
 茜は優しい口調で咲夜の言葉を待つ。
「……俺、本当はずっと……かなでのこと好きだった」
 紡がれた言葉は、茜の胸をぎゅうと締め付けた。妹のふりをすると言い出したのは茜の方なのに。胸の奥が苦しくて、泣き出してしまいたかった。
 でもそんなこと、できるはずはない。茜は今夜だけ、かなでのふりをしなくてはいけないのだから。
「え、っと……」
 妹が告白をされている現場を、茜は見たことがない。どんな反応をするのが正解か分からず、茜は曖昧な反応を返してしまう。咲夜は気にすることなく言葉を続けた。
「かなでが俺の気持ちに気づいてなかったのは知ってる。陸のことを好きなのも知ってる」
 え、と茜の口から戸惑いの声が漏れる。
 かなでのふりをして、咲夜のことが好きだと言うはずだったのに。
「かなでにも、……陸にも。幸せになってほしいって思ってるし、二人の仲を邪魔するつもりもない」
「……咲夜、?」
「でもかなでのことを好きって気持ちは捨てたくない。だから、許してほしい」
 なにを、と訊きたくなかった。でも訊くしかなかった。茜は今、かなでなのだから。妹なら絶対に、何を許してほしいの? と純粋な瞳で訊くからだ。
「他に好きな人ができるまで……、かなでのこと、まだ好きでいさせて」
「…………っ!」
「お願い、かなで」
 茜は聞いたことのない、縋るような声で咲夜は言った。
 お願い、ともう一度繰り返された言葉に、茜の目から涙がこぼれた。これが茜の本心からこぼれたものか、それともかなでになりきって流れた涙なのか、茜には分からなかった。
 胸の奥が痛くてたまらない。これ以上切なくなることなんて、きっとない。茜はそう思いながら、かなでとしての言葉を口にする。
「……私、咲夜の気持ちには応えられないけど、でも、いいよ」
「かなで……」
「咲夜が私を好きでいてくれたら、私も嬉しいもん」
 姉なのに妹のふりをして、泣きながら笑って、告白を断りながら好きでいてほしいと言う。何もかも無茶苦茶だった。
「ごめん、かなで」
「ううん、ありがとね」
 咲夜の手が、茜の頰に流れる涙を掬っていく。それから一瞬。ほんの一瞬、茜は咲夜に抱きしめられた。すぐに離れてしまったけど、腕の力強さとあたたかな体温は、茜の脳に刻まれてしまった。

「帰ろ、茜さん」
 咲夜はもう茜のことを、妹の名前では呼ばなかった。でも公園に向かうときは敬語だったのに、今は少しフランクになっている。咲夜との心の距離が少しだけ縮まったのかもしれない。喜んでいいことなのに、素直にはしゃげる気分じゃない。
「茜さんって優しいよね」
 寝ているたろを起こし、咲夜が立ち上がる。茜も咲夜の手を借りて立ち上がり、スカートについた草を払った。
「そう? あんまり言われないけど」
 それを言うならかなでの方が、と言いかけてやめた。妹の方が優しいことは、咲夜だって分かっているはずだ。
「優しいじゃん。わざわざ嘘まで吐いて、俺のこと励ましに来てくれたし」
「嘘?」
「そ、俺のこと好きって、あれ、嘘なんでしょ」
 これ以上痛くならないと思っていたのに、ずきんずきんと頭にまで響きそうなほど、胸が痛い。胸をざくりと切り付けられたような気がした。
 嘘じゃない、と叫びたかった。でも言えなかった。
 咲夜は茜をまっすぐに見つめていた。その目が、かなでに向けられるものと同じくらい優しくて。だから、気づいてしまった。咲夜の言葉が、茜に向けられた精一杯の優しさなのだ、と。
 茜が咲夜のことを好きだと言っても、咲夜は茜の気持ちに応えられない。かなでのことが、好きだから。咲夜は選ばせてくれているのだ。
 素直に好きだよともう一度伝えて、みっともなく振られるか。
 そう、嘘だったの、と笑って誤魔化して、小さなプライドを守るか。
「嘘でした、って言ったら、怒る?」
「まさか、むしろありがと。幼馴染のためにここまでしてくれて」
 ほら、やっぱり気づいてる。普通はただの幼馴染に、ここまでしないって。茜にとって咲夜が特別な存在だから、妹のふりまでして気持ちを引き出したのだ、と咲夜は気づいている。
 それでも茜のちっぽけなプライドを守るために、告白をなかったことにしてくれているのだ。妹が好きだからという理由で振られた、可哀想な姉にならないように。茜がこれ以上、惨めな気持ちにならないように。
「茜さん。今晩のこと、かなでには秘密にしといてよ」
「当たり前じゃん。恥ずかしくって言えないよ」
 私、好きな人に好きって言ってもらいたくて、あなたの真似をしてたの、なんて。そんなこと、妹に言えるはずがない。

 咲夜は茜を家まで送ってくれた。家の外には妹が立っていて、茜の姿を見つけて大きく手を振る。
「お姉ちゃん! 咲夜とたろちゃんも一緒だったの?」
「……かなで。外で何してんの」
「えっ? お姉ちゃんが帰ってこないから、まだかなぁと思って」
 咲夜が不機嫌な声で呼びかけたのに、かなではあっけらかんとしている。妹の危機感のなさに、茜も心配になってしまう。
「あのねぇ、かなで。女の子なんだから、夜中に一人で外に出ないの」
 危ないでしょ、と茜が言うと、お姉ちゃんだって出てたのに、と不満そうに口をとがらせる。
「お姉ちゃんはいいの。もう二十歳過ぎてるし立派な大人なんだから!」
「えー? 三つしか変わらないのに」
 かなではそう言いながらも、茜の腕にぎゅっと抱きついてくる。心配してくれていたのは本当らしいので、茜は妹の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「じゃ、俺はこれで」
 咲夜が背を向けるので、茜とかなでは二人で声を揃える。ありがとう、と。どうしてかなでがお礼を言うのか分からなかったが、声が重なったことが面白かったようで、咲夜は笑いながら振り返った。
「本当、そっくりな姉妹だよな」
 そっくりでも好きにはなってくれないのにね。
 茜の心の中に浮かんだのは、かわいくない言葉だった。かなでを玄関の中に押し込んで、名残惜しくてもう一度振り返る。咲夜はまだこちらを見ていて、茜は首を傾げた。「忘れもの?」と茜が訊ねると、咲夜は眉を寄せる。
「いや、一応言っておこうと思って。二人はそっくりだし、茜さんもそういうとこ抜けてそうだから」
「何が?」
 普段かなでにしか見せない優しい笑みを浮かべ、咲夜は茜に言った。
「茜さんも、大人でも女の人なんだから、一人で夜出歩いちゃダメっすよ」
 咲夜の言葉は、茜を女性として心配するものだった。
 とくん、と胸が高鳴る。同時にずるいな、と茜は心の中で呟いた。かなでのことが好きなくせに。まだ好きでいさせて、って言ってたくせに。茜の気持ちに応えられないって、遠回しに振ったくせに。優しくするのは、ずるい。
「ま、夜中でもちょっとくらいなら付き合いますよ。たろの散歩のついでに」
 いつの間にかまた敬語に戻っている。三歳差の幼馴染。その関係に戻ったのだ。
 去っていく咲夜の後ろ姿を見ながら、茜は小さく呟いた。

「行かないで…………」
 誰にも聞かれることなく闇に溶けていった言の葉。
 たとえ今夜だけでも、この恋が叶えば幸せ、なんて。そんなのは嘘だ。
 茜はまだ、この恋を忘れられないだろう。