運命って言葉がある。
 俺はその言葉が嫌いだ。
 運命は、一瞬で人間を希望にも絶望にも振り分ける、理不尽な力に思えてならないから。

☆☆☆

 その電話が鳴ったのはレジ締めを終え、床にモップ掛けをしていたときだった。
 昔ながらの商店街の中ほどに建つこの喫茶店は、周りの店に比べて閉店時間が遅い。だから俺が戸締りをしていたその時間、商店街の中で明かりがついていたのは、この喫茶店だけだったろう。
 コール音は、最後に残ったその光を手繰り寄せたいというかのように執拗に鳴り続ける。
 こんな時間に一体誰だ、と俺はちらっと時計を見上げる。俺にこの店を任せてくれているオーナーの趣味である年代物の鳩時計は、先ほど十時を知らせるために鳴き終わっていて、今はただ静かに十時の先の時間を刻み続けている。
「はい、アンティーク」
 ぶっきらぼうにそう名乗ると、電話の向こうでふっと誰かが息を吐いた。安堵が深く染みたその吐息に聞き覚えがあった。
朝陽(あさひ)?」
 短く問うと、電話の向こうで朝陽は今度こそはっきりとため息をついた。
『スマホめっちゃ鳴らしたのに。なんで出ないのよ』
「仕事中だからに決まってるだろ。ばーか」
 別に罵倒する必要なんてないのについ憎まれ口を叩いてしまう。が、朝陽はむっとした様子もなく、そりゃそうか、と呟いた。
『どうでもいいけど、アンティークって名前、なんか懐古主義って感じするし、変えたほうがいいよ』
「……俺はただの雇われ店長だ。オーナーがつけた名前に口出しできるか。そもそも、世の中にアンティークって名前を持つ店はうちだけじゃないはずだ。お前は今、それら全部の店にけんかを売っている。覚悟はできてるんだろうな」
『知らないよ。そんなよその店のことまで』
 熟考せず言葉を口にするところは本当に昔とちっとも変わらない。やれやれと肩を落とした俺はそこでふと気づく。
 電話の向こうから強い風の音が聞こえることに。
「朝陽、お前今、どこいんの? こんな時間にふらふらしたら倉田さんが心配するぞ」
 俺の言葉にふっと朝陽が口を噤む。ひゅうひゅう、と高い音で風が彼女の背後で渦巻いている。
『今さあ、旅に出ててさ。なんていうの? 独身最後の一人旅? で……今日帰るつもりだったんだけども』
「だけども?」
『時刻表読み違っちゃってさあ、なんか無人駅でひとりひもじく夜明かししようとしてた』
「はああ?!」
 こいつは一体なにをしているのだろう。二十代女子が真冬の無人駅で夜明かし? 命知らずにも程がある。
「どこだよ。遠いの?」
 問いかけた俺に朝陽が告げたのは北関東にあるとある駅の名前で、その駅名に俺はわずかに息を呑んだ。
「お前……なんでそんなとこ」
『なんでだろうねえ』
 茶化すような口調にいらっとする。その間にも朝陽の背後では風が吹き荒れている。
「待ってろ。迎えに行くから」
 付き合っていたときも甘えを口にすることはまずなかった朝陽だ。そんなんいらないよ、と軽口が返って来ると思っていた。
 けれど、俺じゃない誰かと幸せになる予定の彼女は、俺の予想に反し、ありがと、と気弱に囁いた。
 いつもの彼女じゃないその口調と、彼女が告げた駅名に急き立てられるようにして俺は店を走り出た。

☆☆☆
 
 どんなに飛ばしても朝陽がいる駅に辿り着くには二時間はかかる。けれど街灯もまばらなあんな駅に彼女を置いておくことが不安で、俺は途中途中何度も電話をした。スマホ、充電切れるっての、と呆れた声を出しつつ、電話を取る瞬間のほっとしたような朝陽の息遣いに俺も安堵した。
「朝陽」
 やっとのことで朝陽がいる駅へと到着すると、朝陽はふきっさらしのホーム上でコートの前を掻き合わせつつ、やあ、と片手を上げてみせた。
「悪かったね。こんなところまで」
 えへへ、と笑う彼女に俺はいつものように渋面を作ってみせる。
「そう思うならひとりで来てんじゃねえよ。倉田さんと……」
 言いかけて俺は口を閉じる。
 その俺の間をどう受け取ったのか、朝陽はちらっと笑みを閃かせると、ホーム上のベンチから立ち上がり、ホームの先へと歩き出した。
「おい! 車あっち! 帰るぞ。なにしてんだよ」
 焦って朝陽の後を追うと、首を捻じ曲げるようにして彼女は俺を振り返った。
「馬鹿だねえ。ここまで二時間運転し通しなんでしょ。トンボ帰りなんて疲れるし、事故の元だよ」
 言いつつ彼女はホームの端にある自販機の前に立つ。相変わらずマイペースな奴だ。溜め息まじりに彼女の隣に進み、俺は目を見張る。
「やっば。全部100円じゃん。今時あるんだな。衝撃」
「ふふ。どれでも好きなの言いなよ。買ってあげる。お姉ちゃんが」
 さらっと付け加えられた、おねえちゃんが、に胸がずくり、と痛んだ。
「ありがとよ、姉ちゃん」
 でもその痛みに気づかぬふりをして俺は緑茶を選んで指さす。わかったよ、と言った彼女が買ってくれたのは……その隣にあったしそジュースだった。
 本当に……いつもこいつはこんな調子だ。
 ふざけてばっかりで、真面目な話が苦手で。
 でも、そんな朝陽がこんなところにひとりで来たのはきっと、俺のせいだ。

☆☆☆

 朝陽と初めて会ったのは八年前で、場所は居酒屋だった。
 俺はその店でアルバイトとして働いていて、朝陽は団体客のひとりとしてやってきた。
 職場の仲間同士と思しき彼らは、俺が働くこの居酒屋が二軒目だったらしく、皆かなり出来上がった状態で来店した。
「おう、兄ちゃん! ビールな! みんなビールでいいよな!」
 集団の中でも恰幅の良い男がどら声で注文する。はい、と素直に頷き、人数分のジョッキをテーブルに運んだ俺の耳に、集団の中のひとりが言う声が聞こえた。声の主は二十代前半と思しき、ボブカットの女性だった。
「え! 中峯(なかみね)さんって一人暮らしなんですか? 実家から通ってるんだと思ってました」
 中峯さん、とボブカットの彼女に呼ばれた女性が曖昧な笑顔で、まあ、と頷いている。その頷いた彼女の隣にいた男がしみじみと言う。
岡上(おかがみ)ちゃん、知らないの? 中峯さんは苦労してるんだよ。子どものときからご両親いなくてひとりでずうっと頑張ってきたんだから」
「え」
 岡上と呼ばれた彼女がはっとしたように口を手で覆う。
「なんか、あの、ごめんなさい。私、知らなくて。あの」
「別にいいです。言われるほど苦労してないんで」
 すぱっと返された言葉に俺は思わずビールジョッキを置く手を止める。中峯と呼ばれた彼女の発した声は強いものではなかったが、周りを退けるには十分な冷たさを孕んだもので、テーブル上がすうっと凍るのがわかった。
「少し、失礼します」
 言いながら中峯が立ち上がる。すたすたと座敷を出て行く彼女の背中で、怒らせちゃったかなあ、俺が無神経だったわあ、あとで謝っとくかあ、と囁きが交わされたが、俺はそれよりも中峯のことが気になった。
 さりげなく彼女の後を追うと、彼女は店の横手に無造作に作られた喫煙スペースで気だるげに煙草を吸っていた。さらりとした長い髪やふわりとしたシルエットのAラインワンピースという、どちらかというと清楚系の彼女と煙草が結びつかず一瞬驚いたものの、俺は思い切って彼女に声をかけた。
「面倒ですよね」
 彼女の目が不審そうに眇められる。内心、なにを初対面の人間に語ろうとしてるんだ俺、と思いつつも俺は口を動かした。
「苦労してるとかしてないとか、決められたくないじゃないですか。そういうのかえって傲慢だって俺は思う」
 彼女は無言だ。眼差しには怪しい者を見る色がくっきりと刻まれている。そりゃあそうかあ、と俺はうなだれつつ白状した。
「俺も言われ慣れてるんで。親いなくて苦労したよね、とかなんとか」
 ふっと彼女の目が見開かれる。数秒その目で俺を見上げてから彼女はなにを思ったのか煙草の箱をひょい、と俺に差し出してきた。
「一本、吸いなよ。お仲間さん」
「いや、仕事中なんで」
「仕事中に女に声かけてる時点でさぼりでしょうに」
 呆れた口調で言われ、俺は苦笑しながら煙草に手を伸ばす。
 ピンクのパッケージのスリムタイプの煙草だ。蓮っ葉な顔で吸っていたわりには可愛い趣味だな、となんだか笑えた。
「なに、なんで笑ってんの」
「いえいえ、別に。いただきます」
 断って一本もらう。無造作にライターが投げてよこされる。火を点けて吸い込むと甘い果実の香りがした。
「正直さ、赤ん坊のころから親なんていなかったから、そんなもんだって思ってるのよ。私はさ。でも周りから言われるじゃない。大変だったね、苦労したね、嫌なこと言ってごめんなさいとかとかさ。そう言われるたび、思っちゃうんだよね」
 彼女がふうっと白い煙を吐く。ため息みたいな色だと思った。
「憐れんでるんじゃねえよ、って」
「ああ、うん、わかる」
 そうなのだ。確かに俺は普通に親がそろっている家庭と比べたら制限が課されるような環境に育ったのかもしれない。けれどそういうものだと思って生きてきた側としては、苦労したね、と労われるたび思い知らされてしまうのだ。
 自分は数多いる人間の中で、恵まれていない不幸側のポジションにいる人間として認識されているのだ、と。
 多数決によって不幸な人間と決められているのだと。
 それが腹立たしくて、たまらない。
 そして彼女もまたそうだったのだろう。
 話を聞いてみると、俺と彼女、中峯朝陽の境遇は実によく似ていた。
 同じ年齢であること。
 赤ん坊のころに親に置き去りにされ、養護施設で育ったこと。
 十八で施設を出て働き始めたこと。
 名前はおくるみに書いてあったそうだが、苗字がなかったので規定により市長がつけた苗字になっていること。
「なんか中峯ってとこに捨てられてたっぽくてさ。そこからつけられたんだけど。もっといいつけ方なかったのかね」
「確かに。でも一般的だから鈴木がいいんじゃね? でつけられた俺からすると、意味があるだけまだましなような気もする」
 善意の顔で取り囲んでくる世間にほとほと嫌気が差していた者同士、俺と彼女はすぐに打ち解けた。ふたりで飲んだり、遊んだりを繰り返しているうちに、俺は彼女のことを意識するようになり、彼女もまたそうだと言ってくれた。
 ほどなくして俺たちは付き合うこととなった。
 別に同じ立場じゃなければわかりあえない、なんて寂しいことを言うつもりはない。そもそもみんなそれぞれに違う人生を歩いているのだ。
 でも彼女とはぴったりとはまるパズルのピース同士みたいに呼吸が合った。彼女とならどんな苦難であろうと乗り越えていけると思った。
 だが、その幸せな確信はある日、崩壊する。
 ぶち壊してくれたのは、一通の手紙だった。それは俺を捨てた母親が俺と会いたいと施設に連絡してきたというものだった。
 正直悩んだ。今更母親なんて言われたって受け入れられるわけがない。もやもやを自分の胸に仕舞っておくことも苦しくて俺は朝陽に手紙のことを打ち明けた。
──そんなの無視しちゃいなよ。
 軽やかにそう言われると思っていたのに、朝陽の反応は違った。
 彼女は真っ青になって言った。
「私にも、同じ手紙、来た」と。
 お互いの手紙を見せ合い、俺たちは知った。
 俺たちの母親が同じ人物だったのだと。
「気が合うはずだ。私たち、双子のきょうだいじゃん」
 朝陽はそう言って、笑って、泣いた。

☆☆☆

「意外と美味いな。これ」
「うそ、私にも一口頂戴」
 寒空の下、しそジュースをなめながら車まで歩く俺の横から、朝陽の手が伸びる。奪われた缶を見つめる俺の前で彼女はしそジュースをこくり、と飲み下す。
「うん、確かに美味い。でも寒い」
 言いつつ、彼女は俺の手に自分が飲んでいたココアの缶を押し付ける。
「風邪ひくといけないし。温かいのも飲みな、弟よ」
 言われて俺は唇を引き結ぶ。缶に口をつけようとして……俺はやめた。
「いらね」
「なんで」
 不満そうに唇を尖らせる彼女の手からしそジュースを奪い、俺はココアを突っ返す。
「倉田さんに悪い」
「悪くないって、だって私たちは」
 朝陽が全部を言い切る前に俺は足を速める。駅の入り口付近に無造作に止めていた軽自動車のドアを開け、運転席に乗り込むと、一瞬遅れて朝陽も乗り込んできた。
 車の芳香剤に混じって朝陽の髪の香りがさらり、と俺の鼻先をくすぐった。
「朝陽さ、なんで俺に電話してきた? 倉田さんに頼めばいいじゃん。そもそも倉田さん、心配してるはずだ。帰るの今日って言ってたんだろ」
 朝陽の婚約者、倉田稔(くらたみのる)は一言で言って……良い人だ。
 優しさを形にしたら倉田の形をしていると言ってもいいくらい、善良な人で、他人のために躊躇なく涙を零せる類の人だ。そんな彼だから、朝陽の生い立ちだって知っていて彼女を支えようとしてくれている。
 押しつけがましくない、自然な優しさで。
 ただ……彼には俺と朝陽が付き合っていた事実は伝えていない。言わなくていいと思っている。
 もうなかったことにしようと、お互いに誓い合って、消した過去だ。伝える必要はない。
 そう、あのとき、決めたのだ。ふたりで話し合って、選んだのだ。
 恋人同士の道じゃなく、姉弟として生きる道を。
 だから……不機嫌になる俺は大人気ないし、俺自身自己嫌悪に陥ってもいる。
 そうは思っても、内心俺は朝陽を責めずにはいられなかった。
 そもそもなんで、朝陽は俺に連絡してきたのだろう。今、婚約者として生活を共にしている倉田さんじゃなくてなんで俺に頼るようなことをした?
「俺に電話するの、筋違いじゃん。倉田さんに、悪い、だろ」
 ああ、言いたくない。こんなこと、本当は言いたくない。
 あんなに泣いて、あんなに悩んで、母親のことだってふたりで許した。
 初めて会った母親は小さなおばちゃんで、正直、母親って言われてもぴんと来なかったけれど、それでも俺と朝陽を繋ぐ人だ。俺たちの関係を壊したのも人だけれど、朝陽をこの世に生み出して俺と出会わせてくれたのもまたこの人なのだ。
 だから、許したし、認めた。
 なにより……朝陽が母親を悲しませたくないと言うから。だから、これからは姉弟としての顔だけを母親に見せると俺は朝陽に誓った。
 朝陽が、そう願うから。
 でも、今日の朝陽の行動はあまりに無神経過ぎる。
 だって、俺はまだ……。
「しかもこんなとこ……なんで」
 呟いて俺はフロントガラスの向こうを睨む。
 駅舎に掲げられた古ぼけた駅名、中峯駅。
 ここは、朝陽とそして俺が捨てられていたとされた場所だ。近隣施設に空きがなく、俺だけ別の市の施設に送られたが、もともと俺たちはここにふたりでいたらしい。
 言うなればここは、姉と弟としての始まりの場所だ。
 そんな場所に呼び出され、姉の顔をされるのは、辛すぎる。
 とにかく心を落ち着けようと唇を噛んだときだった。
「もともと帰るのは明日だよ。稔にはそう言ってある」
「は……?」
 うなだれた俺の横でさらりと言われた。驚いて顔を上げると、朝陽はココアの缶を唇に当て前方を見つめていた。
 瞬間かっとなり、俺は朝陽に向かって身を乗り出す。
「なんだよ、それ。じゃあ、乗り継ぎ間違えたとかって」
「嘘。もともとここに来るつもりだった」
 ココアの缶をドリンクホルダーに置き、ふっと朝陽がこちらを見る。真っ黒な目で俺をひたと見つめ、彼女は静かに言葉を継いだ。
「凪と一緒に来たかったから。最後に」
「それ……」
 やはりそういうことか。結婚前に、もう一度口止めしたいと、そういうことだったのか。
 急に体から力が抜けた。俺はシートに背中を全部預け、息を吐く。
「大丈夫だよ。こんなことしなくても朝陽のことはちゃんともう姉だと思ってる。やましい気持ちもないし、倉田さんにもなにも言わない。心配すんなよ。こんなふうに呼び出して念押ししなくてももう……」
 そのときだった。強い力によって肩を引き寄せられた。次いでぐいっと頭を掴まれる。
 そのまま、おい、と言いかけた声を包むように……キスされた。
「忘れてんじゃないよ。あんたはもう」
 数秒後、俺の唇から唇を離した朝陽が掠れた声で言う。え、と間の抜けた声を出した俺の頭から手を引き、朝陽は早口にまくしたてた。
「ここ! ここは! 初めてあんたとキスした場所でしょ! 捨てる人がいたとしても、これからはずっとそばに俺がいるからってそう言って、あんたが!」
「あ……」
 そうだ。確かに、そうだ。
 何度目かのデートのとき、俺は彼女を連れてここに来た。彼女が捨てられていたという場所。彼女の苗字の元になったこの駅に。
 傷、というよりは、なんでそうなったのか、自分とは何者かを考えるために時々ここに来る、と語った朝陽に俺はずっと思っていた。
 考えなくてもいい、と。考えなくていいくらい、俺と一緒にいればいい、と。
 だからここでキスをした。この場所にまつわる記憶を俺で上書きしたかったから。
 そう思っていたのに……その俺が忘れていた。
 ごめん、と言いかけて俺は、鼓動が速い自身の胸に手を当てる。押さえようとしたけれど、鼓動は元に戻ってはくれなかった。
「だけど朝陽が言ったんだろ。俺たちは……もう」
「そうだよ。だってそうじゃん。私は凪の姉なんだもん。どう頑張ったって体の中はごまかせない。そうするしか、ないじゃない。……苦しみたくないし、苦しめたくもない」
 ないけど、と言った朝陽の声が車内の空気を揺らした。
「なかったことにはしたくない。私にとって凪は大事な人だった。弟としてじゃなく支えてくれていたときが確かにあった。それを……私は、忘れずにいたいの。心の中にちゃんと置いてこれから生きていきたいの。凪と離れても……ずっと」
 膝の上、朝陽がぎゅっと自身のスカートを掴む。置かれた小さな拳がふるふると、震えた。
──蘇ってきたのは、あのとき見た小さな拳だった。
 口づけた俺のシャツを、思わずと言うように握った小さな彼女の。
 ホームの上でふたりで抱き合った。朝陽の髪からはやっぱり柔らかい香りが漂ってきていて、その香りが世界で一番好きだと思った。
 だから、キスした。
 全部から守りたくて。全部、俺で埋めたくて。
 あのとき。
 朝陽は言ってくれた。
 絶対に、忘れないから。
 凪も忘れないでね、と。
「だって消せないもの。凪のおかげで生きててすっごく楽しかった記憶。捨てたく、な」
 ない、と言いかけた朝陽の頭を今度は俺が引き寄せる。ぎゅうっと抱きしめると朝陽が俺の首に腕を回してしがみついてきた。
「ごめん、ね。勝手なこと言ってるの、わかってる。自分で言い出したくせに、最低だってことだってわかってる。でも、今日だけ、今日だけでいいから、こうさせてくれないかな……。もう明日からはちゃんとするから。ちゃんとできるから。だから今夜だけ」
 震える朝陽の肩を俺は無言で抱きしめる。
 そうしながらずっと胸の中で毒づいていた。
 神とか、そういうものに。
 運命ってものがもしもあって、それを神様というやつが用意しているのだとしたら、あんたは最低最悪だ、と。
 運命だと思っていた。この人と一生一緒にいるのだと思っていた。
 ああ、広い意味では一生一緒かもしれない。けれど俺たちの運命ってやつは一緒の意味をまったく違う色に変えてしまった。
 全部捨ててこのまま車を走らせてしまおうか。どこか遠くへふたりで逃げ延びてそこでふたりだけで生きようか。
 そう言ってしまいたくなる。けれど俺は、言えない。
 全部を捨て去るには俺たちは大人になり過ぎてしまった。仕事だって人間関係だってある。お互いだけがいればいいと思えたときと、今はもう、同じじゃない。何より……全部捨てた先に待つ、相手の苦しみを今の俺は想像できてしまう。
 それは朝陽もそうなのだ。
 だからこれは、最後の抵抗で、悪あがきで、おそらくは思い出作りだ。
 本当に……俺たちはちっぽけだ。
 それでも、ちっぽけでも、俺は今、このときを絶対に忘れない。きっと一生。
 細い君の肩を抱きしめたそのぬくもりを、心の奥の誰にも触れさせない壁に刻むだろう。


 朝が来る。
 フロントガラスの向こう、すべてを暴き出そうとするように照らす陽射しの中、朝陽は助手席の上で小さく伸びをする。
「しそジュース、飲もうかな」
「朝から?」
 呆れた顔をした俺に、朝陽は朗らかに笑ってみせる。
 昨夜の心細げな様子などまるでなかったかのような晴れやかな顔で彼女は車のドアを開ける。
「凪にも買ってあげる」
 言いながら朝陽は車の外に出る。ぱたん、と軽い手つきでドアが閉められた。
 優しく、けれど硬い、その音。
 それは俺と朝陽の間に漂う夜の気配をすべて吹き飛ばそうとする彼女の覚悟の声に聞こえた。
 その音を俺は目を瞑って受け止める。
 洞窟の行き止まりに記された思い出と現実を遮る扉として、俺は彼女が残したその音を静かに記録した。