平成三十七年の夏が終わる

「平成三十七年の八月三十一日、夜十時に絶対にここに集合な!」
 その約束を十四年間心の支えにして生きてきた。やっと、その日が来た。

 二〇二五年八月三十一日日曜日の夜、幼少期を過ごした町に帰ってきた。約束の場所は裏山で一番大きな木の下。約束の時間よりだいぶ早くついてしまった。
「紗菜?」
 しゃがみこんでペットボトルの水を飲んでいると上から声がした。顔を上げると、あの頃の面影を残した幼馴染が笑っていた。
「翔!」
 中山翔。私の幼馴染で、初恋の人。
「久しぶり、会いたかった!」
 絶対泣いちゃうだろうな、と思っていた十四年ぶりの再会は自分でも驚くくらいに笑顔あふれるものだった。
「俺も会いたかったよ。相変わらず、こういう時は紗菜が一番乗りだな」
 いつも私が真っ先に待ち合わせ場所に到着してみんなを待っていた。ワクワクしすぎていてもたってもいられなかったから。翔がいつからか二番目に来るようになって、誰かが来るまで二人きりで過ごす時間が好きだった。
「えへへ、変わらないね。私たち」
 思わず顔がにやけてしまう。

 頼りになるかっこいいリーダーだった翔。家族と仲が良い優しい子だけど、遅刻にだけは厳しかった二宮萌。遅刻魔でよく萌に怒られたり、逆に萌をからかったりもしていた瀬川健。そして私の四人組。私たちはいつも一緒だった。休み時間も放課後もずっと四人で遊んでいた。あの日々は最高に楽しかった。
 小学校六年生の夏休み最後の日、私たちは四人で裏山にタイムカプセルを埋めた。私が父の仕事の都合でアメリカに引っ越してしまうから、その最後の思い出にと翔が提案してくれた。今日はそれをみんなで開ける約束の日だ。

「にしても、すごい荷物だな」
 私のキャリーケースを見て翔が笑う。しかし、翔も私以上に大荷物だ。
「荷物持ちとか罰ゲーム賭けて、大富豪やってたの覚えてる? その荷物だと今日はやりたくねえな」
「あー! 翔タイムとか37(サナ)スペシャルとかいっぱいオリジナル役作ったね!」
「そうそう、最強四天王もそのまんま役名にしたな」
 あの頃の私たちは何にでも名前を付けた。私たち四人は“最強四天王”を自称した。みんなで遊んだ大富豪ではそれぞれの名前にちなんだローカルルールを勝手に作った。そのルールを考えた自分たちを天才だと疑わなかった。私たちは特別な絆で結ばれた最強無敵の四人組。今もそう信じている。
 熱帯夜の中、翔と思い出を語らう。あの日のことは今も鮮明に思い出せる。
 父の転勤が決まって、別れの日が近づく中、私は無理して笑っていた。本当は寂しくてしかたがなかった。四年間はアメリカに滞在する、しかもそれが終われば父は東京の本社に移ることになるという。次いつ会えるかもわからない。ひょっとしたら今生の別れになるかもしれない。夜中に布団の中でこっそり泣いた。そんな私を裏山に連れ出してくれたのが翔だった。
「離れ離れになったって、大人になればまた会えるだろ。だから、待ち合わせの時間と場所決めておこうぜ。何年後かの今日、タイムカプセルを埋めた場所でってな」
「また、会えるかな」
 不安で泣きそうになる私を萌が励ました。
「会えるよ。お姉ちゃんはこの間成人式で小学校の友達に会ったって。ママも時々同窓会行ってるよ。昭和五十年に小学校卒業したから、昭和百年には大同窓会やろうって今から計画してるんだって」
「昭和って、おばちゃんいつの時代の人だよウケる。とっくに平成だっての」
 健が茶化して、萌が「空気を読め」とどつく。健が萌をからかうのも、萌が健に突っかかるのも好意の裏返しだと知っている。夫婦漫才のようなお決まりの光景を見るのも最後になるかと思うと名残惜しかった。
「平成でいうと三十七年だな。語呂合わせでサナ。その時、二十五歳か。ちょうどいいな」
 二人を横目に翔が素早く計算をする。
「確かに、二十歳になっても大学生って意外とお金ないもんね。東京からの新幹線代高いし」
 お姉さんが東京の大学に進学していた萌が現実的な理由で賛成の意を示した。
「じゃあ、決まり! 平成三十七年の八月三十一日、夜十時に絶対にここに集合な!」
 翔の掛け声で、私たちは円陣を組んで「集合!」と叫んだ。
 最強だった日々を懐かしんでいるうちに、スマホの時計は約束の時間を示していた。健が遅刻するのはいつものことだが、遅刻に厳しい萌が遅れるのはおかしい。私は心配になった。
「萌、大丈夫かな」
 怪我、病気、事故。悪い想像ばかりが頭をよぎる。
「仕方ないだろ、あいつ子供いるし」
 私の不安をなだめるように翔が言った。しかし、予想外の言葉にますます慌てふためいてしまった。
「子供?」
「出来婚したらしいよ。いつ頃だったかな」
 私の知らない間に萌と健が結婚して、子供までいる。それだけで頭がパンクしそうだ。しかし、言葉にできない何かが引っ掛かった。
「そうだったんだ」
 かろうじてそれだけ言った。私たちは先ほどまで思い出話に終始していて、最近のことについてはあまり話さなかった。それは断じて、今の私がしょうもない人生を送っているからではない。あの頃の思い出を共有する方が楽しいからだ。翔はそんな私の思いを汲んで思い出話をしていてくれていた。
「健はIT系に就職したっぽい」
「そっか。それなら健も仕事頑張んないとだね」
「いやー、大手のホワイトで羨ましいわ」
 萌のついでとばかりに健と翔の近況についても教えてくれた。
「瀬川健でググったら、会社のホームページの若手社員紹介に載っててびっくりした。萌のことはSNSで知った」
 ようやく萌の近況を教えてくれた時の違和感の正体に気づいた。「ぽい」「らしい」という不確定で伝聞体の報告。友達の人生の節目を間近で目にしたわけではなく、人伝に知ったという証明に他ならない。
「高校、ばらばらになっちゃったの?」
 どんなに仲が良くても、学校が離れてしまえば疎遠になるのは仕方がないことだ。特に、ちょうどメインの連絡手段がメールからラインに移りつつあったあの時代には。
「中二の時に転校した。父さんの店、潰れてさ。あの頃マジで金なくて携帯も解約したから連絡途絶えてごめん」
 間違っても楽しい話ではないから、翔の性格的に積極的に話さなかったことにも納得した。意図せず過去を暴いてしまったことに罪悪感を覚えた。
「いいよ、翔のせいじゃないもん。そんなこと言ったら、そもそも私が勝手にアメリカ行ったのが悪いんだし」
「それこそ紗菜のせいじゃないだろ」
 最強だと信じた私たちも、結局親の都合に翻弄された。でも、こうしてまた会えたのだから、最強の絆は運命に打ち克ったのだ。

「日付変わるまで待って、あいつらが来なかったら二人で開けようぜ」
 何時まで待つか。そのタイムリミットを翔が設定した。
「だったら、連絡とってみようよ。令和になっちゃったからさ、もしかしたら今年が平成三十七年だってわかってないかもしれないし。萌のSNSは知ってるんだよね? 萌に言えば二人とも慌てて来るよ。あっ、私から連絡したら驚くかな?」
 萌は性格的に本名でSNSをしているはずだから、「瀬川萌」とスマホで検索する。
「萌の結婚相手、健じゃねえよ」
 その言葉に冷水を浴びせられたような気持ちになった。
「だって、萌は健が好きで、健も萌が好きで」
 本人たちは絶対に認めないだろうけれど、誰が見てもバレバレだった。
「あいつら、来ないよ」
 翔の声には諦めの気持ちがこもっていた。
「だから、それは今年が平成三十七年だってわからないだけで……」
「そもそも萌が言い出したんだろ。昭和百年って。ちょっとでも俺たちのこと覚えてたら、萌の母さんの大同窓会とやらのタイミングで思い出すんじゃねえの」
 確かに、萌のお母さんは楽しいことがあったら私たちにも報告してくるようなオープンな人だった。
「健だって、IT企業にいて今年が昭和百年だって知らないわけがないんだよ。年末年始に散々ニュースでやってただろ、昭和百年問題」
 ITには詳しくないが、私でもその言葉は知っていた。
「もう忘れてるんだよ。二人とも」
 その言葉とともに、翔が設定したアラームが鳴った。午前零時。日付が変わって九月一日になった。
「結婚したり、仕事で重要なポジションついたりしたら、いつまでも昔のこと覚えてたりしないもんなんだよ。普通は」
「もうやめてよ……」
 私は翔の言葉に泣き出してしまった。悲しかった。
「普通って何? 普通はそうかもしれないけど、私たちは普通じゃないじゃん。私たちは、最強四天王だったじゃん」
 私はしゃがみこんで泣きじゃくった。私たち四人の絆は何よりも強いはずだった。優しい翔はこんなひどいことを言う人ではなかった。

「ごめん。無神経だった。これ以上待っても紗菜が傷つくだけだと思って。でも、紗菜にとっては萌も健も小学生の時のままだもんな。ごめん、もう少し配慮するべきだった」
 顔を上げると、翔は深く頭を下げていた。考えてみれば、翔は変わっていく健と萌を目の当たりにしながら生きてきた。多感な時期にそれを受け止めていたのだ。私よりずっとつらかったはずだ。
「ううん、翔は悪くない」
 私がそういうと、翔は顔を上げて親指で私の涙を拭った。泣き虫だった低学年のころ、よくこうしてくれたことを思い出す。昔より大きくなった手にドキドキして何も言えずにいると、翔はハッとした。
「悪い、さすがに手はないよな」
「ううん、ありがと」
 翔は悲しげに笑った後、意を決したように言った。
「ほら、開けようぜ。紗菜が埋めた携帯、充電しないといけないんだからさ」
 ああ、翔は覚えてくれていた。夏休みを前に、海外ではろくに使えないガラケーを解約し、iPhoneに変えた。思い出のメールや写メがたくさん入った携帯はタイムカプセルに埋めた。
「うん、覚えててくれてありがとう」
「覚えてるよ、全部」
 私も覚えている。誰が何を埋めたかも、あの日の約束も。

 タイムカプセルを掘り出して、あの日埋めた携帯をモバイルバッテリーに繋いで充電する。ガラケーにつなげるケーブルが売っているお店が少なくて大変だった。充電をしている間に、みんなが埋めたものを見ていく。
 まず手に取ったのは健が埋めたトランプだ。これでいつも大富豪をしていた。萌はプリクラ帳を埋めていた。私たちは何でもない日にも四人でプリクラを撮った。数々のプリクラと思い出のトランプを見れば、思い出話が弾む。ここにいない二人の痴話喧嘩の声は記憶の中で鮮明だ。
「健と萌、くっついてほしかったな」
「でも、もうどうにもならないんだよな。好きだけで結婚なんて絵空事なんだよ」
 翔は大きくため息をついた。
 あの日円陣を組んで再会を約束した後、私たちは二十五歳の自分たちに思いをはせた。
「お姉ちゃんね、成人式で二十五歳の時にお互い独身だったら結婚しようって男友達と約束したんだって! ロマンチックー! ウチも言われてみたーい!」
「そうか、二十五だったら結婚しててもおかしくないのか」
 考え込む翔と対照的に、健はげらげら笑った。
「萌は四十になっても結婚できなさそうだけどな」
「はあ? 健こそ一生結婚できないんじゃないの? ウチはできるけどね!」
「無理無理! 可哀想だから、このタイムカプセル開けた時にお前が独身だったら嫁にもらってやるよ」
「最悪すぎるー。でも、どうしてもって言うなら、健で妥協してあげてもいいけどー」
 それ実質プロポーズじゃん、なんて突っ込んだら絶対怒られるので私はにこにこと二人の微笑ましいやり取りを見守っていた。
「紗菜はさ、いくつで結婚したい?」
 二人が騒ぐ中、小声で翔に聞かれた。
「二十五」
 私は咄嗟に、母が結婚した年齢を答えた。
「俺も」
「じゃあ……」
 私たちも、約束の日にお互い独身だったら結婚する?とは言えなかった。そんなことが言えるならとっくに告白している。しばらくの沈黙のあと、翔が呟いた。
「健と萌と同じことする? 真似したみたいで癪だけどさ」
 夢みたいに嬉しくて、胸がいっぱいで何も言えなくて、私は黙ってうなずいた。
「じゃあ、その時お互い独り身だったら結婚しよう」
 健と萌の痴話喧嘩にかき消されそうなほど小さな声だったけれど、その約束は確かに聞こえた。私はあの頃から無意識に、健と萌の恋に私の恋の行方を重ねていた。二人が結ばれれば、私も翔と結ばれるような気がした。それはあまりにも幼く根拠のない願掛けだった。
「なあ、紗菜は今も“源紗菜”なの?」
 翔に突然質問される。翔は先ほどあの日のことは全部覚えていると言った。ならば、期待してもいいんだろうか。
「源紗菜だよ! ほら!」
 財布から免許証と保険証とマイナンバーカードを取り出して翔に見せる。ダメ押しとばかりにパスポートを開いて、自分の苗字が変わっていないことを証明した。
「ねえ、約束ってまだ有効?」
 翔はその質問には答えなかった。
「紗菜、焦りすぎ。逆に怪しいんだけど」
 軽い口調だがかすかに声が震えていた。
「まだしてない! 結婚も婚約も、本当にしてないの! 私、嘘なんてつかないもん!」
 私は大声で捲し立てた。疑われて悲しかった。
「知ってるよ。昔から紗菜、嘘はつかなかったもんな。隠し事はしても」
 遮るように私は叫んだ。
「私の好きな人は翔だよ! ずっと好きだったんだよ」
 一世一代の告白。翔と結ばれる未来を夢見ていた。だから待った。この気持ちだけは嘘じゃない。
「紗菜は昔から、隠し事下手すぎるんだよ。隠し事されるの、結構悲しいんだけどな」
 翔が意を決したように言う。冷や汗が首筋を伝った。
「俺がもう結婚してるって言ったら紗菜も本当のこと言ってくれる?」
 頭をバットで殴られたような衝撃が走った。息が苦しい。いやだ、信じたくない。
「家業立て直すためにって、今時お見合いで政略結婚だよ。平成通りこして昭和かよって思ったけど、本当に恋愛と結婚って違うんだなって。結局、しがらみ抜け出せなかった」
 翔は多くを語らなかったが、私には想像もつかないほど大変なことがあったことは容易に分かった。
「本当に、人生うまくいかないよな。政略結婚して、仕事も忙しくて、昔の思い出に浸ってる暇なんてないはずなんだよ……普通は」
 私も翔と同じだ。翔と離れて、私の人生からは色が消えた。
 アメリカでも帰国後も特別嫌な思いをしたわけではない。だからと言って、深い付き合いの友達ができたわけではない。生涯で親友と呼べるのは最強四天王のメンバーだけだ。
 コロナ禍の就活はうまくいかず、非正規雇用で実家暮らしをしていた。昭和の価値観を持った両親に「女は二十五までに結婚するもの」と言われ婚活をした。アプリでの婚活は上手くいかず、結局父が親戚のつてでお見合いをセッティングした。
 相手はいい人だった。交際は順調で、一週間前に正式な婚約を持ちかけられた。両家は乗り気であとは私が了承するだけ。返事は待ってもらった。
「私も、お見合いはしたけど、返事はまだしてないもん。だから……」
 その続きの言葉が言えない。まだ婚約はしていないと信じてほしいだけなのか、それとも奥さんと別れて私と一緒になってほしいと言うつもりなのか自分でもわからない。ただただ涙があふれて止まらなかった。
「その人のことは嫌い?」
「嫌いじゃないけど、好きじゃない。好きなのは翔だけ」
「その人は悪い人?」
「どんなにいい人でもダメなの。私は翔がいい」
 まるで子どものわがままだ。でも諦めきれなかった。十四年と、それ以上前からずっと好きだったから。
「全部捨てるつもりでここに来たんだよ」
 もし、あの日の約束が有効だったなら全部捨てるつもりでここに来た。家を捨てて二人で駆け落ちするつもりだった。そのための大荷物だ。生まれて初めて、親に逆らおうと思った。
「ははっ……俺も」
 翔が足元の荷物を指さした。
「家も仕事も全部捨てて、平成に忘れてきた初恋を取り戻しに来たつもりだった」
 ああ、翔も同じ気持ちでいてくれた。その言葉を信じて、翔の手を取ろうとする。しかし、その手は制止された。
「でも、ダメなんだよ。俺じゃ紗菜を幸せにできない」
「嫌だ、翔がいないと幸せになれない。私にとって、翔は道しるべなんだよ」
「俺は周りに流されて、好きじゃない人と結婚した卑怯な奴なんだ。紗菜のことを裏切ったんだ」
 その言葉に私は何も言えなくなった。
「そのうえ、今度は結婚相手も裏切ろうとしてたんだ。紗菜はそんな奴と一緒になっちゃいけない。きっと俺よりお見合い相手の人の方が誠実だよ」
「誠実じゃなくたっていい。悪いことだってわかってる。それでも、もう翔のこと失いたくないんだもん」
 平成二十三年の私は親に逆らって駆け落ちするにはあまりにも幼くて、翔との未来を一度失った。それを取り戻せるのならば、どんな犠牲を払ってもいいと思えた。
「好きじゃなくたって結婚できるってことは、結婚したっていつか相手を好きじゃなくなる日がくるかもしれないんだよ。結婚は永遠の保証じゃない」
 翔が私を諭す。どうしてそんな諦めたようなことを言うの。運命に立ち向かうリーダーはどこへ行ってしまったの。
「紗菜を幸せにしてくれる男がいないんだったら、俺はいくら不幸になってもよかったけど、紗菜に未来があるならそんな分の悪い賭けに巻き込めないよ。紗菜は幸せにならなくちゃいけないんだよ。俺が人生で唯一好きになった人だから。わかってほしい」
 その言葉を聞いて気づく。つまらない大人になってしまったのは私も同じだ。私はお見合いの返事を保留した。断らなかった。これから先の人生に保険を掛けた。好きじゃない人と付き合って、ずるい選択をする。どんなに少女ぶったって、私の心はとっくに汚れきっていたんだ。
「でも、逆に言えば結婚じゃない形の永遠だってあると思うんだ」
 震える声で翔が言う。
「俺たちの初恋は綺麗な思い出にしよう」
 私は頷くことしかできなかった。これが、最強じゃなくなった私たちの初恋の結末。

 この恋は思い出にすると決意したのだから、再び私たちはタイムカプセルを開けていく。
 翔が埋めていたのは手紙だった。私へのメッセージは「いつも楽しそうな紗菜の笑顔が大好きです。結婚してください」だった。本当に結婚出来たらどんなに良かっただろう。でも、今となってはそれは決して叶わない夢なんだ。
 涙をこらえて充電がたまった昔のガラケーの電源をつけた。画面の右上には圏外と表示されている。待ち受けは四人で撮ったプリクラにしていたけれど、ガラケーを開いた瞬間一瞬だけ表示される画像には翔とのツーショットを設定していた。
「この写真、俺もよく眺めてたよ」
 翔が呟く。これからするのは、私たちが平成に置いてきた初恋の答え合わせだ。
「翔からの着信はすぐわかるようにしてたの」
 翔からのメールだけ、着信音をラブソングに設定していた。着信ランプもピンク色にしてマナーモードでも一目でわかるようにしていた。
「俺も」
 メールボックスを開く。翔からのメールは全部保護していたが、途中で保存件数の上限を超えてしまったので泣く泣く一部を削除した。
「タイトルがRe:Re:ってずっと続いてすっごく長くなるの、嬉しくてドキドキしてたんだよ」
「俺も。タイトルの文字数上限超えた時ガッツポーズした」
 受信ボックスを見終えた後は、送信ボックスを開く。あの頃、メールではトランプの話題をわざと多めに出していた。
「明日は大富豪負けないからね」
 他愛もない話に、ハートの絵文字を組み込むために。ハートマークなんて恥ずかしくて送れなかったけれど、精一杯の勇気でスペードやダイヤに紛れ込ませた。
「今年の運動会、鉢巻黄色じゃなくて青だといいね」
 絵文字の候補にカラフルなハートマークがあるのをいいことに、黄色と青のハートの絵文字を入れてドキドキしながら送信ボタンを押した。メールは可愛くデコるものだから、という言い訳の予行練習をしながら。
「翔は気づいてた?」
 ハートの絵文字を指さして質問する。
「紗菜がわざとやってるのは気づかなかったけど、ハートマーク見るたびに舞い上がってたよ」
 照れた様子で翔が答えた。その後も、題名のRe:の数を数えたり、ハートの絵文字を探したりしながら数々の思い出を振り返る。
「俺が先に好きだったのにな」
 翔がぽつりと呟いた。もしあの頃、お互いあとほんの少しずつでも勇気を出していたら今とは違う未来があったんだろうか。でも、そんなもしもの話をしたって遅いんだ。そう思うと、どうしてもこらえきれなかった。
「私が先に好きだったのに」
 どうして他の女の人と結婚しちゃったの。お互い人のことなんていえないくせに、空に向かって呪詛を吐く。どちらの罪が重いか、どちらがより傷ついたかなんて知らない。
 お見合い相手と出会うずっと前から私たちは両思いだった。でも、きっと私の方がずっと好きだったし、先に好きになった。でもそれは証明できない。
 本当に好きなのに、どうして思い出せないんだろう。私はいつから翔のことが好きだったのか。どうして翔のことを好きになったのか。どうして、思い出が少しずつ消えていってしまうんだろう。どうして一番大切なことから忘れてしまうんだろう。
 平成に忘れてきた初恋の残像が少しずつ薄まっていくなんて認めたくなかった。大人になる過程で恋心が掌から零れ落ちていったなんて思いたくなかった。なのに、事実として翔と再会した瞬間、私は泣けなかった。
「好きだよ、翔」
 自分に言い聞かせるかのように、私は呟く。
「今でも好きだよ」
 何度だって言う。
「本当に好きだったんだよ」
 たとえ十四年間で初恋が色あせてしまったとしても、あの頃の私は人生全部かけてもいいくらい翔のことが好きだったのは本当だから。泣きじゃくる私を翔が抱きしめて言う。
「俺も、好き」
 翔はその感情が現在進行形であるか過去形であるか明言しなかった。

 夜が更けていく。一通り思い出に浸った私たちは、再びタイムカプセルを埋めなおした。これは初恋を埋葬する儀式だ。私たちが生きた平成という時代とともに。
「思いたくないよな。健と萌は今が充実してるから忘れてて、俺らは今がつまらないから昔の約束覚えてた、なんて」
 元通りに土をかぶせた後、翔が呟いた。
「あいつらだってさ、忘れてたわけじゃないんだよ。きっと、二人でこっそり連絡とってたんだよ。紗菜と翔を二人っきりにしてやろうって、無駄な気を利かせやがったんだ」
 これはきっと私のための優しい嘘だ。
「だからさ、次会うときに言ってやろうぜ。余計なおせっかいすんなよって」
 翔は吹っ切れたように笑った。笑い方は小学生の時と全く変わっていなかった。
「次に会うときは、俺が絶対健と萌のこと引きずってでも連れて来る。って、今更信じてもらえないかもしれないけどさ」
「信じるよ」
 私は即答した。根拠なんてない。それでも、信じたいから信じることにした。
「そのためにも俺たちは幸せにならないといけないんだよ。それで証明するんだ。誰より幸せになったって、それでもあの頃の思い出も約束も大切にできるって」
 決意に満ちた顔で翔が言う。
「だから、笑って生きろよ。紗菜」
 私は笑顔で頷く。そして令和という時代を笑って生きていく。たとえ苗字が変わっても、翔が好きになってくれた源紗菜であり続けるために。

 私たちは駅までの道を振り返らずに歩き続けた。手は繋がない。もう泣かない。連絡先は交換しない。
 ホームでの別れ際、私は次に会う日を確認する。
「次は、平成百年の夏かな?」
 わざわざ日付を言うなんて野暮だ。
「その時俺ら九十歳だぞ。さすがにそこまで待てねーわ。令和三十七年、今からちょうど三十年後」
「了解。萌と健に連絡よろしくね」
「OK.またな」
 それだけ言って、私たちは反対方面の新幹線に乗った。電車の発車寸前、窓の外を見るとトンボが一匹裏山の方向に飛んで行った。
 九月一日、暦の上ではもう秋だ。ここ数年は九月に入ってすぐ冷え込むようになったから、きっと今年もそうなのだろう。もうすぐ平成三十七年の夏が終わる。そして、令和七年の秋が来る。

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