景ちゃんは実家を取り壊すことと、そのための諸経費のすべてを自分が支払う旨を書類に認めて、私に突き出してきた。
 そして、淡々としたやりとりに落胆していた私に、トドメを刺すように告げたのだった。

「そういえば、君の荷物、紛れて持って来てしまったのがあるんだ。……君の実家の方に送っておくから」

 冷めた声。

(それは、つまり)

 景ちゃんの中から、私が完全にいなくなってしまうということだ。
 分かりきっていたことだと、現実を受け入れようとしているのに、私の手はスカートの裾をぐしゃりと強く握りしめていた。

(せっかく会えたのに)

 再会してから、十分も経っていない。
 私がここに来るまでにかけた時間の方が遥かに長いのだ。こんなことってない。

「待って!」

 気がつくと、去って行こうとする景ちゃんに、私は呼びかけていた。

「何?」
「私の荷物、今から行って回収させてもらえないかな? もちろん、誰かと一緒に暮らしていたら、迷惑だと思うけど。でも」
「一人だよ。僕は」
「一人……」

 あっさり告白されて、密かに安堵している私は最低だろう。

「あ……じゃあ、絶対に家には上がらないから。仕事の邪魔もしない。ただ、私の目で荷物を確認したいだけで」
「……」
「景ちゃん?」

 すっかり衆目を集めてしまった私に、彼は熟考の末に「分かった」と頷いた。

(無理やり……だったよね?)

 その時、彼がどんなつもりで、下心満載の私の提案を受け入れたのか分からなかった。
 けど、景ちゃんは私と歩調を合わせて、自宅の前まで連れて来てくれた。
 ファミレスから、徒歩十分。
 繁華街を抜けて、喧噪から離れた高台に佇む高層マンションが今の彼の住まいだった。
 エレベーターから降りて、6階の角部屋の前で、景ちゃんはポケットから鍵を取り出した。

「ここで待ってて。持ってくるから」
「うん」 

 彼は私を一瞥することなく扉を開けると、暗い室内に消えてしまった。

「……はあ」

 途端、私は脱力してしまい、ずるずると玄関扉に凭れかかってしまった。

(我ながら、思いきったことをしちゃった)

 結婚を控えた身で、初恋の人の家に押しかけてしまったのだ。
 プロポーズしてくれた彼は、良くも悪くも大らかな人で、今日私が景ちゃんと会うことも知っている。
 大切な従兄なのだから、結婚式には是非来て欲しいねと、私を笑って送り出してくれた。
 私がここまで拗らせていることを、彼は知らないのだ。

(まあ。今頃、景ちゃんと、どうにかなるなんて有り得ないだろうけど)

 ――あの日。
 景ちゃんのお父さんが亡くなって、初七日の夜。
 私は彼に迫った。
 打ちひしがれている景ちゃんを、何とかして慰めたかった。
 どう扱われても、構わなかった。
 景ちゃんが、私のことを好きでも嫌いでも、たとえ、憎んでいたとしても……。
 それでも、一時でも彼の苦痛が紛れるのなら……。

 ――でも。
 景ちゃんは私を力一杯突き飛ばしたのだ。

『君と僕は、視ている世界が違う』

 瞬間、彼の瞳に宿った嫌悪感。怒りと拒絶。
 きっと、彼は私の行為を、憐れみからの安っぽい同情と感じたのだろう。
 潔癖で真っ直ぐな人。
 絶縁されても仕方ない。
 実際、私は弱っている彼に付け込もうとしたのだ。

(今日、会えただけでも良しとしなきゃ)

 昔の感情に引き戻されて、歯止めが利かなくなる前に……。
 家まで来てしまったのは異常だ。
 荷物を受け取ったら、すぐに帰ろう。
 けど……。

 ――ガッシャン!

 突然、大きな音が室内から響いた。

(何?)

「景ちゃん!」

 私は扉の中に向かって呼びかけた。

「………」

 返事がない。
 しばらく、扉の前で待っていたが、何の応答もないので、私は彼の身が心配になってしまった。

「何かあったの?」

 不気味な静けさに、恐怖を感じる。
 私は居ても立ってもいられなくなって、扉を開け、靴を脱ぎ捨てて、室内に飛び込んだ。