自由行動が終わって宿舎に着いた私たちは、まず夕食を取った後に入浴時間がある予定だった。そしてその後、各自の部屋で消灯時間まで自由時間という流れ。私の部屋は大部屋で十人ほどの女子生徒が泊まっている。
 二人部屋や三人部屋より会話に悩むことはないが、症状が出たら大部屋はとても困る。その時丁度、お母さんから「オリエンテーションはどう?大丈夫?」と連絡が来ていることに気づいた。就寝前に一度お母さんに電話をかけようか。そうすれば、きっとお母さんも私も安心出来るだろう。
 入浴を終えた私は大部屋には戻らず、人気(ひとけ)の少ない……いや、誰もいない場所を探していた。
 宿舎の外に出れば先生に怒られるだろうが、宿舎の庭園であれば良いだろうか。街灯もあるし、宿舎が隣にあるので私自身もあまり怖くない。
 私は庭園に出た後、人目につきにくい場所を探して移動する。その時、庭園の隅でうずくまっている人影が見えた。

「わ!」

 驚いて声を上げた私にうずくまっていた人陰が動いた。

「菅谷くん!?」
「川崎さん……?」

 菅谷くんはもう顔を上げることすらやっとで、私を(おぼろ)げな視線で見ている。正直、入学式の時より調子が悪そうだった。
 私は慌てて菅谷くんに駆け寄った。

「大丈夫!?」

 その言葉を問いかけても、菅谷くんは絶対に「大丈夫」としか返さないのに。それでも、体調が悪そうな人にかける言葉なんて急に言われても「大丈夫?」しかなくて。
 菅谷くんはいつも通り無理やり笑顔を作って答えるのだ。

「全然大丈夫だよ。ちょっと疲れちゃって……川崎さんはもうお風呂終わったの?こんなところまで来て何かあった?」

 菅谷くんの質問に答えようとして、菅谷くんの質問が話題を変えるためだと気づいて胸が苦しくなった。どうしてこの人はこんなにも大丈夫なフリが上手なの?
 それでも実際、菅谷くんに頼られてもきっと私では力になれない。その事実が一番悲しかった。
 私はそっと菅谷くんの隣にしゃがんで座る。

「川崎さん……?」

 自分は隠したいことを隠して、菅谷くんには弱みを見せて貰おうなんてあまりにも都合が良すぎる。きっと私が出来ることは素直に弱みを見せることだけだ。でも、その勇気すら持てなくて。
 それでも、隣を見れば今にも倒れそうな真っ青な顔で無理やり笑顔を作っている菅谷くんがいる。


 「助けたい」と思わない方が無理だった。


「菅谷くん、私ね。『頻発性哀愁症候群』っていう病気なの。『寂しい』っていう感情に振り回される変わった病気」


 菅谷くんは私の言葉にしばらく何も言わなかった。それでも、しばらくしてポツポツと言葉を吐き出してくれる。

「川崎さんさ、入学式の日に俺に会ったこと覚えてる?」
「うん……」
「あの日、川崎さんは『最近寂しくて、おかしい』って言った俺にその病名を呟いたんだ。俺はその病気を知らなかったけど、家に帰って調べて『あ、絶対これだ。俺はこの病気なんだ』って思った」

 菅谷くんは私に向けていた視線を逸らし、下を向いてしまう。

「俺、認めたくなくて……」

 消え入りそうなその声は初めて聞いた菅谷くんの弱音だった。

「病院に行った方がいいのは分かってるのに足は動かないし、誰にも言えない。川崎さんにも相談しようって思ったけど、いざ川崎さんの顔を見るとつい無理してしまって……俺、もう癖になってるんだと思う。嘘笑いも、無理することも」

 菅谷くんは顔を上げないまま、絞り出すように声を出した。



「寂しい。死にたいくらい寂しい。俺、絶対におかしい」



 その悲痛な叫びは私の心の叫びと全く同じで。私は喉の奥がギュゥっと締まるような感覚がして、気づいたら涙が溢れていた。
 下を向いたままの菅谷くんに気づかれる前になんとか涙を拭う。



「ねぇ、川崎さん。きっと俺は寂しくて壊れるんだと思う」



 拭ったはずの涙は、もう誤魔化せないほど溢れていた。拭っても拭っても涙が溢れて止まらない。きっと私が隣で泣いていることに菅谷くんは気づいている。
 それでも、菅谷くんは下を向いたままだった。



「川崎さん、ごめん。こんな話をして。本当にごめん」



 謝る菅谷くんの言葉は震えていた。


 ねぇ私、頑張ってよ。

 何年、この病気をやっているの。

 隣で同じ症状に苦しむ人に良いアドバイスの一つもかけてあげられないの?

 なんで泣いているの。

 泣きたいのは菅谷くんの方なんだよ。

 私が泣く場合なんかじゃないんだよ。

 早く、泣き止んで。

 早く、菅谷くんを助けてあげて。

 
 かけたい言葉は沢山あっても、溢れるのは涙だけで。やっと顔を上げてくれた菅谷くんに見せることが出来たのは、涙でぐちゃぐちゃになっている私の顔だけだった。
 私のぐちゃぐちゃの顔を見て、菅谷くんが優しく微笑む。

「なんで川崎さんが泣いてるの。俺は大丈夫だから」

 先ほどまで弱音を吐いていた菅谷くんがまた「大丈夫」と言うのだ。
 それがあまりに苦しくて、私は気づいたら菅谷くんの手を掴んでいた。

「川崎さん……?」

 驚いている菅谷くんを無視して、私は菅谷くんの右手を両手で包み込むように握る。
 涙でぐちゃぐちゃでも、この言葉だけはかけてあげたい。この言葉だけが今の私たちを救ってくれる。



「菅谷くん、大丈夫。大丈夫だよ。寂しくないから。全然寂しくない」



 私が絞り出した声に返事はなくて。
 
 菅谷くんの方に視線を向けると、菅谷くんの頬に涙が伝っていた。

 そうか。菅谷くんは今まで誰にも「寂しくない」と言葉をかけられたことがないんだ。だって菅谷くんが病気を周りに明かしていない以上、菅谷くんに「大丈夫だよ」と言ってくれる人はいないだろう。
 菅谷くんは周りに心配をかけないためだけに、無理をするためだけに「大丈夫」を使ってきたのだ。
 私は菅谷くんの手を握る両手に力を込める。


「菅谷くん、大丈夫だよ」


 どうか、この「大丈夫」が菅谷くんの「安心」になりますように。それだけを願いながら、私は菅谷くんの手を握り続けた。
 
 どれくらい経っただろう。しばらくして、菅谷くんが立ち上がった。

「ありがと、川崎さん。もう大丈夫。本当に!」

 菅谷くんのその「大丈夫」は何故か信じられた。

「ねぇ、川崎さん。また俺の話聞いてくれる?」

 菅谷くんのその言葉が……菅谷くんが頼ってくれたことが嬉しくて、私はすぐに頷いてしまった。

「さ、そろそろ部屋に戻ろ」

 そう言って、私の前を歩き始める菅谷くんの後ろ姿はまだ弱々しいのに、私はそれ以上菅谷くんに何も声をかけることは出来なかった。