それからの半月くらいはとても早く感じて、いつの間にか教室で放課後に聞こえる会話が変わっていく。

「菅谷、今日も部活?」
「おう」
「マジか、土曜は遊べそう?」
「土曜も部活だわ」
「サッカー部忙し過ぎね!?」
「あはは、やべーよな」

 菅谷くんは放課後、すぐに草野くんと部室に走って行く。放課後に校庭ではサッカー部の声が響いていた。
 窓の外を見ればユニフォームに着替えた菅谷くんと草野くんが校庭を走り始めている。クラスメイトが帰って誰もいなくなった教室で私だけ文字通り取り残されたようだった。

「川崎」

 名前を呼ばれて振り返ると担任の川北先生が教室の扉の所に立っている。

「帰らないのか?もう皆んないないぞ」
「あ、すみません。すぐに帰ります」

 私は急いでスクールバッグを肩にかけようとする。

「最近どうだ?」

 川北先生は病気のことを知っている。きっと心配してくれているのだろう。

「変わらず……ですね。でも、病気にも大分慣れたので」

 「病気に慣れた」なんて悲しい言葉を吐きたくなんかないのに、その言葉は当たり前のように零れ落ちてしまう。先生はそれ以上は聞かずに「何かあったら相談してくれ。無理するなよ」と言って教室から離れていく。
 もう一度窓の外を見るとサッカー部は運動場の端に集まって顧問の先生の話を聞いている。私はすぐに窓の外から視線を外して、教室を出た。
 家に帰って玄関の扉を開けると誰もいない。両親はまだ仕事から帰ってきていないようだった。お母さんは私の病気が分かった後に、夕方ごろには家に帰れる仕事に転職した。

「前の職場にも不満があったから、ちょうど良かったわ」

 転職した日にそう話したお母さんの言葉を今でも思い出すことが出来る。どれだけ迷惑をかけているか想像するだけで泣きそうになった。それでも結局オリエンテーションの最終日は平日なのに、家に帰ってお母さんがいることに安心した。


 寂しい。


 急にその感情が顔を出したのが分かった。私は靴を脱いで、玄関のすぐ前の廊下でうずくまる。

「大丈夫。寂しくないよ」

 一体、人生で何回この言葉を言えばいいのだろう。その時、四人で遊びに行った日の夜に見た夢が頭をよぎった。

「大好きよ、奈々花。寂しくなんかないわ。お母さんとお父さんは奈々花が大好きだもの」

 あの夢の言葉を思い出すと、症状が治っていく感じがした。それでも、まだ寂しくて。
 その時、玄関の扉が開く音がして振り返るとお母さんが立っていた。

「おかえり、お母さん……」
「ただいま、奈々花。どうしたの?症状が出た?」

 お母さんはうずくまっている私に合わせて、廊下に腰を下ろした。

「大丈夫よ。お母さん、奈々花が大好き。寂しくなんかないわ」

 私の症状が出た時はいつもお母さんも「寂しくない。大丈夫」と言ってくれる。それが私が一番安心する言葉だと知っているから。
 いつもの言葉。いつもの症状を和らげるための言葉。でも、何故か同じ言葉でもあの夢の言葉の方が安心出来た。

「お母さん、本当に私のこと好き?」
「え……?」
「こんなに……こんなに、迷惑、かけてる……のに?」

 涙が溢れ、言葉が途切れる。
 ずっとずっと不安だった。本当は嫌われているんじゃないかって。
 それでも、嘘でも「大好き」と言って欲しかった。何で、夢の中の言葉が嬉しかったのか。理由は簡単だ。その言葉を純粋に信じられたんだ。
 お母さんも何故か泣きそうになりながら、うずくまる私を抱きしめる。

「どうしたの?奈々花。大好きよ、当たり前じゃない」
「こんなに迷惑をかけて、ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 呪文のように「ごめんなさい」を繰り返してしまう。


「ごめんなさい、寂しくても死なないのに。どうして、こんなに迷惑かけてるんだろう」


 お母さんは泣きながら、私をぎゅうっと抱きしめ返した。

「ねぇ、奈々花。寂しくても死なないかもしれない。それでもね、心は弱るの。お母さんね、ずっと後悔してたわ。もっともっと奈々花に『大好き』って伝えてあげれば良かったんじゃないかって。そしたら、奈々花は病気にならなかったんじゃないかって」
「っ!違う!……これは本当にただの病気だから!」
「そうね、でも、今、奈々花の心は寂しいって悲鳴をあげてる。お母さんは、奈々花の悲鳴を抑えてあげることしか出来ない」

 お母さんが私を抱きしめながら、私の背中をゆっくりと撫でた。


「奈々花、大好きよ。本当に愛しているわ。ずっとずっと寂しいって言い続けてもいい。お母さんが何度だって、奈々花に愛を伝えるから」


 声にならないほど涙が溢れていくのが分かった。

「全然、病気も良くならないっ……!」
「奈々花、大丈夫。焦らなくていいの。奈々花は奈々花なりのペースで進めばいい」

 お母さんが私の背中をトントンと優しく叩いてくれる。「私なりのペース」ってなんだろう?
 気持ちばかりが焦って何も出来ていない気がしてしまう。

「お母さん……私、少しは進んでる?」
「ええ、絶対進んでるわ。だって、笑顔が増えたもの。高校に行く時も前よりずっと嫌そうじゃなくなった」

 私は自分が気づいていないだけで、笑うことが増えていたのだろうか。
 お母さんは私が泣き止むまで私を抱きしめてくれていた。しばらくして、私は顔を上げる。

「ごめん、お母さん。もう大丈夫……」
「そう。良かった……奈々花、お母さんは心配しすぎかもしれないわね」
「え……?」
「今、奈々花に『絶対に進んでる』と言ったのは私なのに、まだ心配性が抜けなくて……」

 お母さんは恥ずかしそうに笑った。

「大丈夫だよ。本当に大丈夫」

 気の利いたことが言えなくて、私はそう返すことしかできなかった。それでもお母さんは嬉しそうに笑って、「さ、そろそろ夕飯の準備しないとね」と言って立ち上がった。
 私が自分の部屋に戻ると、スマホにメッセージが来ていた。オリエンテーションの班のグループに菅谷くんがメッセージを送っている。

「今度サッカー部の練習試合があるんだけど、川崎さんと美坂さん見に来ない?」

 いつもならすぐに出来ない返信をその日はすぐに「行く」と返していた。