稀に見る晴天に恵まれ、レイラはマーサと共に館内の窓という窓を開け広げていた。庭園には長い物干しが出され、洗い立てのシーツが心地よい風になびいている。
 いつもは屋内に閉じ籠っているアナベルも、「たまには日の光を浴びて下さいませ」と口煩い世話係に無理矢理に背を押されて、ガーデンテーブルで魔導書を片手にお茶を口にしている。

 揺れている洗濯物にじゃれ付こうと子トラ猫のセリが前脚を伸ばしてみるが、するりとシーツに逃げられて不思議そうに首を傾げている。その横では黒猫のランがバリバリと爪を立てて植木に勢いよく登っていき、枝の上から得意げな顔を見せていた。
 他の子猫や親猫達も揃って日の光を浴びに外に出ていて、思い思いの場所で昼寝に興じている。

 アヴェンの薬の支援が完全に落ち着き、薬店へ通常納品する薬と薬草茶にも手を付けられるようになり、久しぶりにゆったりとした時間が流れていた。
 手に持つティーカップを置くと、アナベルは膝の上に置いていた読みかけの魔導書のページを開き直す。パラパラと数ページ前へと戻っては、描かれた図式を確認してからまた先へと読み進む。

 眉間に皺を寄せ、かつてないほど難しい表情で書物を見ている姿に、洗濯物を取り入れに出て来たレイラとマーサが怪訝な顔をする。

「また良からぬことをお考えではありませんか?」
「あら、失礼ね」

 アナベルが読んでいたのは魔剣に関する研究書。つい先日に書店から送られてきたその物騒な書物を、食い入るように読みふけっている主に、マーサは嫌な予感しかない。

「アナベル様、魔剣をお求めになられるんですか?」
「まさか。剣術は苦手よ。調理用のナイフに魔法陣を組み込めば、切れ味が良くなるかしらと考えていただけ」

 母方の祖父や曽祖父のような鍛冶職人ではないから一から作ることは叶わないが、完成されている刃に魔法を付与するのなら、アナベルでも出来るのではと。その恐ろしい提案に、マーサは顔を青くして首を横に振っている。そして、叫んだ。

「そんな物、恐ろしくて使えませんわ!」

 余計なことをしないよう、アナベルの調理場への立ち入り禁止を宣言して、マーサは洗い立てのシーツを抱えて館の中へと戻って行く。歩いて行く後ろ姿を見る限り、かなり怒らせてしまったようだ。

「私も魔剣のようなナイフは、扱うのは怖いですね」

 マーサの背を見送りながら、レイラもぽつりと呟く。あまりに切れ味が良すぎると、勢い余って指まで落としてしまいそうで恐怖しかない。

 そういうものなのね、と残念がるアナベルを後にして、レイラも乾いた洗濯物を取り込んでいく。その働き者の弟子の姿を眺めている時、アナベルは遠くから馬が走ってくる気配を感じた。
 書物を閉じてテーブルの上に置くと、結界の入口にもなっている正門の方へと視線を送る。
 いつの間にか、猫達の姿は庭から消えていた。

 騎士の制服を身に着けた男を乗せた馬は、館の敷地に入るとゆっくりと歩を緩める。ガーデンテラスにアナベルの姿を見つけて、騎士は慌てて馬から降り、その場で一礼する。
 気付いて出て来た庭師の老人に手綱を預け、アナベルのすぐ前までやってくるとその胸に手を当て、再び頭を下げる。

「領主様より、こちらの書簡をお預かりして参りました」
「あら。叔父様から?」

 外の話し声を聞きつけて出て来たマーサが代わりに手紙を受け取ると、騎士はアナベルにまた一礼してから馬の元へと戻って行く。慌ただしい訪問に、何かしらと首を傾げ、アナベルは手渡された封書へと目をやる。緊急の伝令の時と同じ純白の封筒に朱色の封蝋。差出人は確かに叔父の名が記されている。

 外で気軽に読むものでもないのかと、建物の中へ戻ることにする。改めてソファーに腰掛け、用意して貰ったナイフで開封し、白い便箋を取り出した。そこに記されている文字を静かに目で追うと、二階でシーツの付け替えをしていたレイラのことを呼ぶ。

「叔父様から、こないだの薬の支援協力への礼と報酬の知らせが届いたわ」
「報酬、ですか?」

 驚いた顔でこちらを向く弟子に、微笑みながらアナベルが頷く。大量の薬を作ったが、その代金はすでに正当に支払われていると聞いている。それ以外に何があるのだろうか。

「ええ。リューシュカの屋敷の権利を正式に譲り受けたわ」
「え?」
「レイラの弟子入り期間中の給金と、老魔女の介護に関わる報酬、魔法使いの権限を侵害されていたことへの慰謝料として、リューシュカの家族が屋敷をあなたに譲り渡すことを決めたそうよ」

 あまりのことに茫然としている少女の様子を、アナベルは優しい瞳で見守っている。勿論、本邸側からの交渉があったとしても、一年ほどのレイラの給金などでは金額的には足りるはずはない。なので、その過不足分は今回の対アヴェンの協力報酬として領の資金で賄われたということだった。

「え、でも……」

 ソファーの向かいに座らせた少女が、いきなりのことでオロオロし出したのは当然の反応だ。まだ16の少女に与えられる報酬としては破格だ。

「作業部屋はそのままらしいから、傷薬と解熱剤作りに使えるわね」
「えっと、あの……私は、アナベル様の弟子をクビになっちゃうんでしょうか?」

 この館に来てまだ数か月しか経ってはいない。独立するには早過ぎる。ということは、破門?
 傷薬と解熱剤を作れるようになったばかりでは、薬魔女として生きていける自信はない。

「そうね。じゃあ、薬草茶の権利をレイラに譲るわね。配合はもう頭に入っているでしょう?」
「いえ、違っ。そうじゃないんです!」

 どんどん決まっていく自身の行く先に、レイラは声を荒げて制した。薬魔女としての独り立ちが嬉しくない訳じゃない。しかも作業部屋付きの屋敷まで手に入る。夢にも思わなかった条件がどんどんと提示されていく状況に、頭が追い付かない。

 ――でも、違う!

「私、まだここを出て行きたくないです!」

 自分でもビックリするくらい大きな声が出た。ホールの隅で遊んでいた子猫達が驚いて飛び跳ねているのが見える。
 そう、美味し過ぎる条件にも飛び付く気になれない理由があるのだ。

「もっと猫と一緒にいたいんです!」

 遠慮がちな控えめだった少女が、初めて見せた強い意志。ワゴンを押してお茶を運んで来たマーサは、ニコニコと微笑みながらレイラに向かって頷いている。正面に座る森の魔女も、穏やかな笑顔で弟子の要望を聞いていた。

 リューシュカの屋敷には猫はいない。猫のいない生活なんて、寂しくてしょうがない。

「あ、勿論、猫のことだけじゃなくて、アナベル様の元で薬作りの勉強をさせていただきたいですし、マーサさんからもっと家事を教わっていきたいんです」
「なら、好きなだけ居ればいいわ。リューシュカの屋敷は、そのままにしておきましょう」
「ありがとうございます!」

 はにかんだ笑顔を見せる少女の足下に、三毛の子猫が擦り寄ってくる。抱き上げて膝に乗せてやると、ゴロゴロと喉を鳴らしてレイラの顔を覗き込んでいた。

――完――