魔の森の奥深くに建つ館が、もうすぐ夜の闇に包まれようとしている時刻。風のない静かな庭園に、オオワシがゆっくりと翼音を立てながら降り立った。その鋭い爪を携えた二本の足でしっかり握りしめた綱で吊り下げているのは、一辺が一メートル以上もある大きな木箱。

 すでに結界の揺らぎによって、自身の契約獣の到来に気付いていた森の魔女は、ブリッドが着くと同時に入口扉から姿を見せる。今夜の訪れは、アナベルが呼び寄せたからではない。

「あら。何かあったのかしら?」

 主の姿を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってくるオオワシ。その頬を撫でてやりながら、運ばれて来た木箱の中を覗き込む。この時間に契約獣を使って持ち込まれたということは、翌朝の庭師の配達では間に合わないような、急ぎの要件なはず。

 木箱に入れられていたのは、最近はあまり本数を見なくなった青色と橙色の小瓶――回復薬と傷薬の薬瓶だ。そして一通の封書。
 純白の封筒を裏返してみれば、馬の意匠を施した朱色の封蝋に加えて、アナベルにとっては叔父でもある領主の署名が記されている。それを見た瞬間、アナベルは小走りで館の中へ飛び込み、夕食の支度中だった世話係を呼び出す。

「マーサ、手紙を開封するから急いでナイフを持って来て。それから、レイラはブリッドが運んで来た荷物を中へ入れてくれるかしら」

 調理場で作業していた二人は何事かと慌ててホールへ顔を出す。不思議そうにしている二人へ、アナベルは手に持つ手紙を掲げて言い放つ。

「領主の名における、緊急の伝令が届いたわ」

 マーサから手渡されたナイフで封を開け、アナベルは椅子にも掛けず、その場で手紙に目を通し始める。ブリッドを使い、領主の名を記して送られて来た封書と、大量の空の薬瓶。多くの薬を必要とする緊急の案件なのは間違いない。

 レイラを手伝って荷物を運び入れていたマーサも、心配そうに主の様子を気にしていたが、余計は口出しはしてこない。緊急時の判断ができるのは、この館の主であるアナベル以外にはいない。

「アヴェンで大規模な鉱山事故が起こったそうよ。薬の支援を求めて来たらしいから、回復薬と傷薬をあるだけ送ってくれって。粉末でも液体でも、とにかく何でも」
「んまぁ、また鉱山事故ですか? 確か、昨年も――」

 マーサは驚きと嘆きの入り混じった表情で、口に手を当てている。世話係の言う通り、前回の事故からまだ一年足らずしか経っていない。あの時もアヴェン領では薬不足に陥っていた。その際、次に同じようなことがあれば領主間で協力体制を取るという取り決めをしたと聞いている。

 魔石の掘削を主な産業とするアヴェン領にもアナベル達のような薬魔女は存在する。だが魔法使いは魔力補充の仕事に偏りがちで、魔女の高齢化が他よりも進んでいて、常に領内は薬不足の状態だった。

 グラン領内での混乱を避ける為に、薬店や他の薬魔女達への通達が必要ならば、時間をおいてから行われることになるのだろう。だが、アナベルは領主と同じグラン一族の人間であり、領主の庇護下に置かれた薬魔女。いち早く動き、グランの名に恥じぬ働きを見せるよう求められている。初動でどう動けるかにより、今後の領地間の関係性に影響を与えるだろう。

「とりあえず、作業部屋にある物を確認して先に送って。残りは今から作るわ」
「あ、在庫は私が見て来ます!」

 作業部屋へと走って向かうレイラの後ろ姿を見送ってから、アナベルは手に持っていた封書とナイフを世話係へと渡す。記されていた必要量は頭に入っている。あとは薬をただ作り続けるだけだ。

「私にも何かお手伝いできることがありましたら、お申しつけ下さいませ」
「そうね、じゃあ、作業しながら摘まめる物を作ってくれる? しばらくは籠らないといけないようだから」
「かしこまりました」

 指示を受け、マーサは軽く頭を下げてから調理場へと戻って行く。途中、足元を擦り寄って来る子猫達に躓きそうになるのをギリギリ堪えて、いつもよりは少しだけ強い口調で嗜める。

「お嬢様たちはしばらくお忙しいのだから、邪魔にならないようになさいな――あ、お夕飯はもうすぐですからね」

 お夕飯という単語に、ソファーの上で丸くなっていたティグの耳がピクリと反応する。子猫達は調理場の中までマーサに付いて行ったが、危ないからとすぐに追い出されていた。

 作業部屋に入ると、急いで必要な薬草の確認をしていく。大量の薬草茶の納品を控えていたおかげで、途中で材料が足りないということにはならなさそうだ。最近は粉末薬ばかりを卸していたので薬瓶のストックもそれなりに残っている。

「粉末化は手間が増えるから、まずは瓶がある分だけを作ることにするわ。レイラには傷薬の方を任せてもいいかしら?」
「分かりました」
「あ、魔力疲労を起こす前には休むようにすること」

 倒れるまで頑張ろうと極端に意気込んでいた弟子は、思惑がバレて少しハニかむ。緊急の伝令だけど、在庫があるからそこまで急がなくていいと宥められる。意欲を削がれて気落ちしていたが、無理までする必要はどこにもない。求められているのは出来る範囲内での最大限の協力なのだから。

 両手で抱える大きな壺に乾燥した薬草を目一杯詰め込んで、アナベルは蓋をしてからその側面に手を添え、薬草を粉砕していく。その隣ではレイラが自分専用の小さな壺に傷薬用の薬草を入れて、同じ作業を開始する。
 壺のサイズも中への詰め込み具合も圧倒的に大きかったはずだが、レイラの壺がまだカサカサと硬い音を立てている内に、森の魔女は粉になった薬草を壺から大鍋へと移し替えている。

「ゆっくりでいいのよ。レイラのペースでね」

 焦って顔を歪めている弟子に、柔らかい口調で声を掛けてくる。同じ品質の物は求めるけれど、決して同じ速さを求めている訳ではないのだから。
 レイラが粉砕した薬草を鍋いっぱいまで溜めた頃には、アナベルは大鍋で煮出し終えた物を冷却魔法で冷ましていた。張り合うには少しばかり次元が違うと気付き、以降は自分のペースを保つことに集中する。