この森の館が猫屋敷と呼んでも良いくらいに猫だらけになったキッカケは、一人の迷い人――否、その迷い人と共に現れた一匹の猫だった。
 光魔法で異なる世界へと渡っていたその猫がこちらの世界へ戻って来る際に、飼い主だという一人の少女を伴っていた。

「森の中で猫と一緒に歩いているところを見つけて、それからしばらくここで暮らしていたのよ」

 それまでは森の奥にある古い遺跡に隠れ潜んでいたティグ達も、少女が連れていた猫に導かれてこの館に住むようになった。
 だが、しばらく後に少女と猫は光魔法を使って再び元の世界に帰って行った。その時に、まだよちよち歩きだった子猫の一匹が一緒に付いていってしまったのだ。

 決して長い時を過ごしていた訳ではなかったが、この館の現状――猫が走り回る賑やかな館は異世界から来た彼女らが作り上げていった。さらには森の中で一人で閉じ籠っていた森の魔女に、再び街との関わりをもたせるキッカケさえも作った。

「その方は、異なる世界を自由に行き来されているんでしょうか?」

 ケヴィンの仮説によれば、異なる世界を渡るには環境への適応能力が必要ということだ。適応できなければ、転移した途端に命が尽きてしまう可能性もある。つまりその少女はこの世界へ順応できた上に、さらには先程聞いた話ではベルが認めるほどの魔力も持っていたらしい。

「そうね、望めばいつでも来れる状態にはあると思うんだけど……」

 そこで言葉を切ったアナベルは、少し寂しそうな瞳をしていた。戻って行ったと言っても、今後は決して会えないという訳ではなさそうなのに何故だろうとレイラは不思議な顔で師を見る。

「どうも時間の流れが違うらしいのよ。こちらの流れの方が三倍ほど早いらしくて」

 言われた意味がすぐに理解できず、レイラは首を傾げた。時間の流れが違うとは、どういうことだろう? と。

「ほう。それは初めて伺いましたが、とても興味深いですね。迷い人の世界とは時間軸が異なるということですか」

 ソファーの向かいで静かに聞いていたケヴィンが顎を撫でながら興味を示していた。研究心に火が付いたのか、少しばかり身を乗り出している。

「ええ。一度帰って来た時に言っていたわ、思っていた3分の1しか時間が経ってなかったって」
「つまり、こちらで3年過ごしても、あちらでは1年しか経過していないということになるんですか。それは――あまり自在に行き来していると大変なことになりますね」

 環境への適応は出来ても、頻繁な往来は間違いなく己の加齢にズレを生じさせてしまう。こちらに長居すればするほど、本来の世界での実年齢のギャップが広がっていくことになる。

 例えばこちらで3年の月日を過ごした後に自分の世界へと戻った時も、本来の世界はまだ1年しか経過していない。つまり、こちらで3才年齢が上がったにもかかわらず、自分の世界ではまだ1才しか増えていないことになり、暦上の年齢と身体的年齢に2才の差が出来てしまう。

 1年2年程度のズレならば誤魔化しようもあるだろうが、それが5年10年になってくると本来の世界ではそれなりに生き辛くなってくる可能性がある。異世界転移による年齢詐称問題が発生してしまう。
 だから転移の条件が揃っていても、そう簡単に行き来する訳にはいかない。こちらの世界で生きていく覚悟でもなければ、少女が戻って来て再び共に暮らすようになることはないだろう。

「またいつか、ふらりと戻って来る時を待つしかないのよね」

 ふっと視線を俯かせた森の魔女の声はかつて聞いたことがないほどに静かなものだった。いつ来ても良いように、少女の部屋はあの時のままにしてある。その部屋の清掃を欠かさない世話係もまた、同じ思いでいるのだろう。

 マーサが淹れ直してくれた温かいお茶を一口飲んでから、アナベルはふぅと息を吐いた。そして、にこりとレイラに微笑みかける。

「次に戻ってくることがあれば、自慢の新しい弟子を紹介してあげるつもりよ」

 アナベルにとって、その迷い人はどういう存在なんだろうかと尋ねてみると、森の魔女は顎に指を当てて首を傾げた。

「魔法や調薬は教えていたから、一応は弟子になるのかしら?」
「いいえ。師弟というよりは、お二人の様子はまるで姉妹のようでしたわ」

 自分で言った言葉に首を傾げているベルに、マーサがすかさず訂正を入れた。
 自分にとってはこれ以上ない研究対象だった少女を思い出して、ケヴィンもマーサの台詞に大きく頷いていた。迷い人のことを知りたいと彼に連絡してきた時のアナベルは、まさに妹を想う姉の姿そのものだった。

 姉妹と言われて、アナベルは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。血も繋がらず、ほんの数か月を一緒に居ただけの存在だが、彼女にとってはとても大切な思い出であり、これからも心の支えになり続けるのだろう。迷い人がこの世界に与える影響はとても大きかった。

 アナベルがさらりと発した自慢の弟子という言葉に顔がにやけるのを必死で堪えて、レイラは明日からは新しい調薬にも挑戦してみようと意気込んでいた。