ホールに設置されたソファーにケヴィンと向かい合って腰掛けると、世話係がすぐにお茶の準備に取り掛かる。調理場から移動させてきたワゴンには湯気の漏れるポットと、2客のティーセット。グラン家御用達の商会で買い入れた茶葉はアナベルの好む少し甘めの物を選んだ。
「先生の新説は、とても興味深かったわ」
給仕するマーサに礼を言って軽く頭を下げている研究者へ、アナベルは書籍への率直な感想を述べた。
「聖獣が居れば、誰でも気軽に別の世界へと行ける訳ではないのね」
「そうですね。やはり異なる世界ですから適応できる者と出来ない者は存在すると思います。たまたま私の祖先や、あの方は大丈夫でしたが、そうでない者は生き残れないと考えています」
聖獣の転移魔法で繋がることのできる、こことは違う世界。そこから迷い込んでくる迷い人は二極化する。適応できる者と朽ちる者と。
「それなら、あちらは魔法が存在しない世界と聞いてるから、私のような魔力の塊は真っ先に朽ちてしまいそうね」
アナベルが唯一知る迷い人は、元の世界には魔法は無かったと言っていた。魔法が存在しないということはつまり、大気中に漂う魔素が無いということ。
「そうかもしれませんが、アナベル様のように高魔力をお持ちでなくても、この世界の人間は魔力の有無にかかわらず、生まれた時から魔素に触れて生きております。なので、こちらの人間が転移するのはまず無理だと考えた方が良いのではと」
「そう。残念だわ。いつか行けたらと思っていたのだけれど」
この館には猫がいる。だから異なる世界への旅も、望めば叶うのではないかと期待していたのだが、彼の立てた新説を信じるとすれば、どうやら危険なことのようだ。
大気中に当たり前のようにある魔素と、体内魔力のバランスが崩れた時に何が起こるかは分からない。体内魔力が暴発することにでもなれば、自分だけでなく周囲にも危害を加えてしまうやもしれない。
「そうそう。書籍ではあえて梟を支持されていたのは、どうしてかしら?」
「ジーク・グラン卿が必死で隠そうとされていた存在を、私のような者が暴くことはできませんからね」
アナベルの父が冒険者時代に共にいたのは、冒険譚の中では契約獣の虎だとされている。けれど実際にはトラ猫だった可能性があるという話を以前にケヴィンの前でしたことはあった。ただし、それが事実だったと伝えたことは無かったし、まだ館の猫には合わせたことも無かった。
彼は研究者という立場ながらも、猫の存在を知った上でそれを暴くことを選ばずに、守ることを選んでくれている。そのことに気付いたからかどうかは分からないが、アナベルの足下にするりと柔らかい物が擦り寄った。
「ティグは先生を認めてくれるのね?」
「にゃーん」
ソファーテーブルの向かいに見えた茶色の縞模様の長い尻尾に、ケヴィンは目を見開いていた。見たこともない小さな獣がアナベルの足に纏わり付いているのが見えた。
「そ、それは……?」
「猫よ。この子は父の相棒だった、トラ猫のティグ」
他の猫達が出てくる気配は無いが、ティグはその姿がよく見えるようにと、長く艶やかなテーブルの上に音も立てず静かに飛び乗った。そして、ケヴィンに向かって「にゃーん」と鳴いて挨拶して見せた。
「これが、猫……やはり聖獣は実在していた……」
迷い人に関係すると分かってから、聖獣については調べ尽くしたつもりだった。けれど目の前で彼の顔を覗き込んでいる獣は、想像していたよりも遥かに小さく、とても穏やかな生き物だった。
テーブルの上で前足を揃えてちょこんと座り、驚きのあまりに言葉を失ってしまった研究者の顔を、縞模様の猫はその丸い目で不思議そうに見上げていた。
恐る恐るに伸ばされたケヴィンの手をフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ後、ティグはその指先に頬を擦り寄らせた。
「他にもいるんだけど、みんな警戒心が強いのよね」
「では、あの方が居られなくなったのは、猫の力で?」
かつてこの館で共に暮らしていた迷い人が突如居なくなった理由を、アナベルは彼には詳しい説明はしていなかった。森の魔女と研究者が出会うきっかけとなった少女は、もうここには居ない。
静かに頷き返したその表情はとても寂しげだった。
「ええ。猫の転移魔法を使って帰って行ったわ」
迷い人を研究する彼にとっては研究対象でもあり、重要な参考人でもあった存在が既にこの世界にはないことを知り、ケヴィンは愕然とした。けれど、後に続けられたベルの台詞に、すぐ目を爛々と輝かせたのだった。
「今、あの子の元には2匹いるから、またいつか顔を見せてくれるんじゃないかしら」
「それは素晴らしい! 戻って来られることがあれば、是非ともご連絡をお願いします」
「そう言えば、記念にって先生の書籍を持って行ったわ」
「何と、異世界に私の書いた物が、ですか?!」
迷い人についての研究書が迷い人の世界にあるという。これ以上ない名誉だと、ケヴィンは恍惚とした表情で天井を見上げた。
「先生の新説は、とても興味深かったわ」
給仕するマーサに礼を言って軽く頭を下げている研究者へ、アナベルは書籍への率直な感想を述べた。
「聖獣が居れば、誰でも気軽に別の世界へと行ける訳ではないのね」
「そうですね。やはり異なる世界ですから適応できる者と出来ない者は存在すると思います。たまたま私の祖先や、あの方は大丈夫でしたが、そうでない者は生き残れないと考えています」
聖獣の転移魔法で繋がることのできる、こことは違う世界。そこから迷い込んでくる迷い人は二極化する。適応できる者と朽ちる者と。
「それなら、あちらは魔法が存在しない世界と聞いてるから、私のような魔力の塊は真っ先に朽ちてしまいそうね」
アナベルが唯一知る迷い人は、元の世界には魔法は無かったと言っていた。魔法が存在しないということはつまり、大気中に漂う魔素が無いということ。
「そうかもしれませんが、アナベル様のように高魔力をお持ちでなくても、この世界の人間は魔力の有無にかかわらず、生まれた時から魔素に触れて生きております。なので、こちらの人間が転移するのはまず無理だと考えた方が良いのではと」
「そう。残念だわ。いつか行けたらと思っていたのだけれど」
この館には猫がいる。だから異なる世界への旅も、望めば叶うのではないかと期待していたのだが、彼の立てた新説を信じるとすれば、どうやら危険なことのようだ。
大気中に当たり前のようにある魔素と、体内魔力のバランスが崩れた時に何が起こるかは分からない。体内魔力が暴発することにでもなれば、自分だけでなく周囲にも危害を加えてしまうやもしれない。
「そうそう。書籍ではあえて梟を支持されていたのは、どうしてかしら?」
「ジーク・グラン卿が必死で隠そうとされていた存在を、私のような者が暴くことはできませんからね」
アナベルの父が冒険者時代に共にいたのは、冒険譚の中では契約獣の虎だとされている。けれど実際にはトラ猫だった可能性があるという話を以前にケヴィンの前でしたことはあった。ただし、それが事実だったと伝えたことは無かったし、まだ館の猫には合わせたことも無かった。
彼は研究者という立場ながらも、猫の存在を知った上でそれを暴くことを選ばずに、守ることを選んでくれている。そのことに気付いたからかどうかは分からないが、アナベルの足下にするりと柔らかい物が擦り寄った。
「ティグは先生を認めてくれるのね?」
「にゃーん」
ソファーテーブルの向かいに見えた茶色の縞模様の長い尻尾に、ケヴィンは目を見開いていた。見たこともない小さな獣がアナベルの足に纏わり付いているのが見えた。
「そ、それは……?」
「猫よ。この子は父の相棒だった、トラ猫のティグ」
他の猫達が出てくる気配は無いが、ティグはその姿がよく見えるようにと、長く艶やかなテーブルの上に音も立てず静かに飛び乗った。そして、ケヴィンに向かって「にゃーん」と鳴いて挨拶して見せた。
「これが、猫……やはり聖獣は実在していた……」
迷い人に関係すると分かってから、聖獣については調べ尽くしたつもりだった。けれど目の前で彼の顔を覗き込んでいる獣は、想像していたよりも遥かに小さく、とても穏やかな生き物だった。
テーブルの上で前足を揃えてちょこんと座り、驚きのあまりに言葉を失ってしまった研究者の顔を、縞模様の猫はその丸い目で不思議そうに見上げていた。
恐る恐るに伸ばされたケヴィンの手をフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ後、ティグはその指先に頬を擦り寄らせた。
「他にもいるんだけど、みんな警戒心が強いのよね」
「では、あの方が居られなくなったのは、猫の力で?」
かつてこの館で共に暮らしていた迷い人が突如居なくなった理由を、アナベルは彼には詳しい説明はしていなかった。森の魔女と研究者が出会うきっかけとなった少女は、もうここには居ない。
静かに頷き返したその表情はとても寂しげだった。
「ええ。猫の転移魔法を使って帰って行ったわ」
迷い人を研究する彼にとっては研究対象でもあり、重要な参考人でもあった存在が既にこの世界にはないことを知り、ケヴィンは愕然とした。けれど、後に続けられたベルの台詞に、すぐ目を爛々と輝かせたのだった。
「今、あの子の元には2匹いるから、またいつか顔を見せてくれるんじゃないかしら」
「それは素晴らしい! 戻って来られることがあれば、是非ともご連絡をお願いします」
「そう言えば、記念にって先生の書籍を持って行ったわ」
「何と、異世界に私の書いた物が、ですか?!」
迷い人についての研究書が迷い人の世界にあるという。これ以上ない名誉だと、ケヴィンは恍惚とした表情で天井を見上げた。