その日の朝、庭師のクロードが運んで来た中には、淡い橙色の布に包まれた荷物があった。昼食を食べ終わり、ソファーで寛いでいる際に世話係から手渡されたそれにはアナベルは見覚えがあった。開いてみれば思った通りに書店名の入った紙に包まれた書籍二冊が入っていた。

「二冊とも同じ物のようですが?」

 食後のお茶の給仕をしながら、ベルの手にする書物を興味深々で覗き見したレイラが訝し気に聞いてくる。書店側の納品間違いか、それともベルが薬草の時のようにまた適当にダブって注文してしまったのだろうかと疑っているようだ。
 残念ながら、そのどちらでもない。送られて来た書籍はアナベルが注文したものではなく、この著者自身が出版の知らせを兼ねて贈呈してくれた物だった。

「ええ。この先生は以前も同じ物を二冊送ってくださったのよ」

 『迷い人を誘う聖獣』と題された書物の著者名はケヴィン・サイトウ。壁面の本棚には同じ作者の研究書がいくつか並べてあるのは知っている。レイラもその内の一冊は読んだことがある。確か、以前に読んだのは『我が国における迷い人の軌跡』だった。
 聖獣が放つ光魔法には転移の力があり、その力によって異なる世界からやって来たという「迷い人」と呼ばれる人達についての研究書だったはず。

 その書籍を読むまで、レイラは迷い人の存在は全く知らなかった。学舎でも習った記憶はないし、話にも聞いたことはなかった。
 最初にその本の著者自身が異世界からの迷い人を祖先に持っていると書いているのを読んだ時は、何て胡散臭いと思ってしまった。一種の妄想か何かなんじゃないかと疑いながら読み進めた気がする。

 そう、あの時は聖獣が本当に存在することを知らなかったから。そして、光魔法の威力を見たことがなかったから。

「レイラも読んでみる?」

 手にした書物の一冊を差し出し、アナベルは弟子に休憩に入るよう促した。マーサは調理場で後片付けしているだけのようだし、特にレイラが手伝うことはないはずだ。まだ折り目も付いていない新書を受け取ると、少女はぺこりと頭を下げてから急いで休憩室へと駆けていく。

 読書家な少女が初めて触れた新書の手触りに感動している様子が微笑ましくて、ベルは思わず小さな笑い声を漏らした。
 しかし、知り合いの研究者から送られて来た書物のページを捲る森の魔女の表情は、次第に眉を寄せた険しい物へと変わっていく。

「何てこと……」

 前著でもケヴィンは経典でも扱われている聖獣の中で実在する可能性があるのは梟と猫だと記していた。そして、読み進めていく内にどうやら彼は梟の可能性の方を支持しているようだった。というのも、梟らしき鳥が飛ぶ姿への目撃談は割と多く、猫よりも現実味があると考えているようだ。

 いや、そのことはアナベルにとってはどうでも良いことだった。猫の存在を知らせるかどうかは猫達が決めることだから。

 森の魔女の顔をしかめさせたのは、これまでに発見された身元不明者の変死体の何人かは迷い人ではないかという記述だった。
 魔獣などの獣に襲われたり、不慮の事故にあったりと旅人や冒険者の遺体が見つかることは少なくはない。持ち物などから身元が分かった者は家族等の元へ引き取られて行くが、そうではない者も中にはいる。

 その過去の身元不明者の遺留品の中に、どこの国の物とも分からない物が含まれていることがあり、それをこの研究者は異なる世界の物の可能性はないだろうかと推測していた。
 確かに、見知らぬ異世界に転移してきた先が必ずしも安全な場所とは限らない。例えばこの森のように人里から離れた場所に着いてしまった場合、生き残って街に自力で辿りつける保証はない。

 だが、その身元の分からない変死体の中で、魔獣などの危険性の考えられない安全な場所で発見された物があった。それについて研究者はこう記していた。
 ――全ての迷い人が、この世界への適応力があるとは限らないのではないだろうか。

 つまり、適応できない迷い人は転移後に朽ちてしまうという、恐ろしい新説だった。世界が違えば、それを作り上げている環境も変わる。合わなければ生き続けることが出来ない者も現れるだろう、と。

 一通りを読み終えて本を閉じた森の魔女の隣で、ティグがピクリと耳を動かした。ダイニングチェアーで隠れながら寛いでいたナァーは椅子を下り、慌てたように階段を上がっていく。いつの間にか子猫達の姿もどこにも見えなくなっている。

「誰か来たのね」

 猫達からは遅れてベルが結界の揺らぎを感じ、来館者の存在を知った時には、すでにソファーにいたはずの縞模様のトラ猫の姿も消えていた。
 荷馬車を止め、入口扉を叩く音でマーサが足早に迎えに出ていく。

「ご無沙汰しております。先触れもなく訪れてしまい、申し訳ありません」

 そう言って顔を見せたのは、今までベルが手にしていた書籍の著者であり、迷い人の研究者である、ケヴィン・サイトウだった。短く整えられた黒に近い髪に、同じ色の瞳、ひょろりとした小柄な男はスーツを着た右手を胸に当てて深く頭を下げた。

「ちょうど今、先生の研究書を読ませていただいたところですわ」
「それは有難い。是非ともアナベル様のご意見を伺いたいところですね」