雨戸の隙間から差し込む朝日に気付くと、庭師の老人はゆっくりと目を開いた。何十年と見慣れた天井は己の身体と同じく色褪せ、艶も無くなってしまっている。それでも、建てる時に素材をこだわったかいあって、雨漏りのシミ一つない。

 身体を横たえたままそっと首だけを動かしてみると、隣に並んだベッドには妻の寝顔があった。半世紀近くを連れ添った女房は、微かな寝息を立てている。珍しい光景だと、しばらく横を向いて見入っていれば、もぞもぞと老女が身体を動かし始める。目を開くとすぐ、夫に見られていたことに気付き、照れたように笑う。

「あら、いやだ」
「よく眠れたようだな」

 いつもは夫が起きたと同時に目覚め、そそくさと朝の支度を始めてしまう妻だったが、夫であるクロードに寝顔を見られるほど長く眠っていたのは何十年振りだろうか。

「夜中に起きることもありませんでしたし、久しぶりによく眠れた気がしますわ」
「そうかそうか。それは良かった」

 森の別邸から譲って貰った安眠作用のあるという薬草茶を、昨晩は食後のお茶として飲んでみた妻だったが、その効果は思いの他あったようだ。
 寝入りも良くなく、浅い眠りで夜中に何度も起きてしまうと聞いていたが、昨晩はベッドに横になるとすぐに目を瞑っていたのはクロードも確認している。

「他にもいろんな種類があるみたいだから、また貰って来てやる」
「まあ、楽しみですね」

 手を合わせて嬉しそうに笑い返してくる妻の表情は、ここ最近では一番明るい。いつもよりほんの少し軽い動きで朝食の準備を始めた妻を手伝って、クロードもテーブルの上に皿とカトラリーを並べていく。

「本日も森に行かれるんですか?」
「ああ。休憩室に本棚を作ってくれと言われてな」

 本職は庭師だが、簡単な大工仕事くらいはこなす。ホールや客室に置くとなるとそれなりの物を家具職人に作らせるのだろうが、人目に付かない休憩室に置く小さな棚くらいなら彼が作る物で十分だ。

「新しい見習い魔女さんも入られて、別邸も賑やかになったんでしょうね」

 本邸勤めの日と違って、森の館に行く日の夫の機嫌はすこぶるに良い。生粋の職人気質な夫には、若い弟子への指示と監督が主になってしまう本邸の仕事はつまらないようで、自分一人で一から手を入れることができる森の仕事は良い気分転換になっているようだった。
 なので、移動の手間があるにも関わらず、別邸の仕事は誰にも譲る気はないらしい。

「ああ、一気にいろいろ増えたし、騒がし過ぎる時もあるくらいだわい」

 天気の良い日には植木や屋根に登ったり、時には花壇に穴を掘って用を足したりする獣達を思い浮かべ、思わず苦笑する。最近はどこでも爪を研ごうとするので、専用の板を用意してやったところだ。

 勿論、猫達のことは相手が妻であっても話してはいない。アナベルから口止めされているのもあるが、猫は幻獣であり聖獣だ、万が一喋ったところで信じては貰えないだろう。下手したらボケたかと思われる恐れすらある。自分の為にも、猫の為にも話さないが吉だ。

 毎朝と同じく、妻に見送られて家を出ると、まずは本邸へと顔を出す。そこで別邸宛ての荷物が積み込まれた荷馬車に乗って、街の東に位置する森の道へと馬を走らせる。馴染みの雌馬は通い慣れた道を軽快な足取りで進み、館の結界を抜けると老人が手綱を取らなくても勝手知ったると裏口近くに回り込む。

 裏戸を軽く叩いてから開き、朝食の準備に勤しむマーサとレイラに声を掛けて、積んで来た荷物を順に中へ運び入れていく。食料や日用品、調薬に必要な薬草類など、アナベルやマーサが頼んでいた物が大半だ。

 外で作業するつもりで本棚用の資材や工具を庭に降ろしていると、ちょうど朝の散歩から帰って来たらしい縞々のトラ猫がすり寄って来る。
 そして、老人が運んで来た木の板の匂いを嗅いで回っていたが、新しい木材の香りが鼻にきたのか顔をしかめて大きなクシャミを一つ。その後、縞模様の猫は何事もなかったかのように立ち去って行く。

「おいおい、汚さんでくれよな……」

 休憩室用とは言っても、それなりに良い板を選んで来たつもりだ。ティグが豪快に飛ばした鼻水を、庭師は乾いた布で慌てて拭き取った。別に腹は立たないが、なんだか釈然としない。

 休憩室の窓の下に設置するつもりで、高さを合わせて板を切断していく。すると、換気の為に開かれたホールの出窓から、小さな猫達が順に顔を出しているのに気付いた。聞き慣れないノコギリの音に耳をピクピクさせながらも、その丸い瞳には興味津々な色が隠しきれていない。

 危ないから出てくるなよと言いながらも、ついついクロードの目尻が下がってしまう。ほんの数か月前までは覚束無い足取りで母猫の後ろを追いかけていたチビ達が大きくなったものだと。
 小刻みよく動かされる工具を必死で目で追う小さな瞳達。裁断された板がガタンと音を立てて下に落ちると、揃ってビクついた兄弟猫に、庭師は吹き出しそうになるのを堪えた。