【長編版】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜

 金魚の店で答えを見つけてから数日経った日の夜、ようやく用意が整った莉亜は初更にも関わらず、蓬の元に向かっていた。いつもと違って、背中には大きなリュックサックを背負い、両手にはクーラーバッグを下げているからか、自然と歩みは遅くなってしまう。公園の山を登る時に至っては、途中で何度も足を止めて休憩を取らなければならなかった。

(最後に会ってから数日が経っちゃったけど、蓬さんはまだお店にいるよね……?)
 
 セイのおにぎり作りに必要な材料の取り寄せに思ったより時間が掛かってしまった。材料が揃っても自宅でおにぎり作りの練習をしていたので、ここに来る時間も取れなかった。料理に慣れていないせいか、慌てると分量を間違えてセイの味から遠のいてしまう。どうにかセイのおにぎりに近いものを安定して作れるようになると、取る物も取り敢えず、蓬の元に来たのだった。
 いつものように桜の木から神域に入ると、いつもより遅い時間に来たにもかかわらず出迎えてくれた牛鬼の番人が、大荷物姿の莉亜を心配そうに気遣ってくれたのだった。

「どうしたっすか? こんな時間に、そんな大荷物で……」
「ごめん。急いでいるから、また後で! これ、いつものっ!」

 訝しそうな牛鬼にコンビニエンスストアで購入した季節限定のおにぎりを押し付けるように渡すと、左右によろけながら花忍の道を急ぐ。
 早くしなければ蓬が消えてしまうかもしれないと気持ちばかり逸っていたからか、莉亜の足元はすっかりおろそかになっていたらしい。つま先を小石に引っ掛けると危うく転倒しそうになったのだった。

(うわっ……!?)
 
 いつもと違って荷物が重いからか受け身が取れず、もう少しで地面に身体がつくかという時、後ろから誰かに肘を引っ張られたのだった。

「そう慌てずとも、店主はすぐに消えたりしない。……おれがついているからな」

 忘れもしない透き通るように澄んだ低い声が近くから聞こえてくる。振り返ると、古風なデザインをした黒い学生服姿の青年が莉亜の腕を掴んでいたのだった。

「貴方は……」
 
 会った場所こそ違うものの、見間違えようがなかった。蓬によく似た声や話し方だけではなく、身長や輪郭までそっくりな姿。顔や服装こそは違うものの、蓬と並んだら似通った雰囲気から双子と思ってしまいそうな男子学生。
 蓬のただ一人の良友にして親友。そして蓬が営むおにぎり処のきっかけとなった蓬の待ち人。
 莉亜に二人の思い出の味をご馳走して、友を救って欲しいと頼んできた青年。
 自然と青年の名前を口にしていた。
 
「セイ……さん……」
「ようやく見つけたのだな。おれの……おれ()()の友を救う方法を」

 青年――セイは莉亜の目を真っ直ぐに見つめると、清々しいまでの笑みを浮かべる。これが答えだと言わんばかりに。

「これが正解かどうかは分かりません。蓬さんの話を聞いて、調べて、考えて。これしか思いつかなくて……」
「自信を持て。お前が正しいと思ったのなら、道理や法に適わなくても、きっと店主の心に届くだろう。ここは神の領域。人智を越える奇跡が起きても不思議ではない」

 荷物を持つというセイに半分任せると、店に着くまでの間、花忍が咲く道を並んで歩く。身長差があるにも関わらず、置いていかれることなく隣を歩けるのは、きっとセイが莉亜の歩幅に合わせてくれているのだろう。それとも莉亜に話す時間をくれるつもりなのか。
 聞きたいことは山ほどあった。どれから尋ねようか迷っていると、先にセイが口を開く。

「お前は料理がどうやって後世に伝わるか知っているか?」
「ええっと……。作り方を記したレシピ帳……料理本によって、でしょうか?」
「それなら味付けはどうだ? 例えば、同じ塩むすび一つとっても作り手によって味が違う。ともすれば姿形さえも。だがそれらに正解は無い。全てが正しく、誤りはない。それがどうしてか考えたことはあるか?」
「それは……」

 言われてみれば、料理に正誤は存在しない。勿論、食べる者や作り手の好みによる正しい味や、調味料の入れ間違いによる成功と失敗というのはある。それでも正解と呼ばれるものは存在しない。一応、レシピ本には模範回答としての味は載っているものの、それが必ずしも正解だと断言していない。結局のところ、個人の好み、家庭の味、地域性などで正誤は変わってしまうものだから。作り手の数だけ、多様な味が存在するとしか言えないだろう。

「考えたこと、なかったです」
「作り方は人に聞くなり、書物を読むなりすれば自ずと知れる。だが味付けについてはどうだ。同じ料理にしても全く異なる。人や書物によって調理過程は同じでも、材料は違ってくる。当然材料が違えば、味付けも変わってくる。不可思議だと思わないか。元は一つの料理がどこかで枝分かれして、それぞれの枝の先で花を咲かせ、枝葉を伸ばす。そしてそれは途切れることなく今日まで続いている。その料理を初めて口にしたものが、その味付けを正解だと思い、次の代に伝えていく。そうして料理は後の世に伝わっていくのだ……。万が一、元となる幹が枯れて、原型となった料理が失われてしまったとしても」

 時代や人、物の移り変わりによって、オリジナルとなる料理は途絶え、過去の遺物として歴史書の中に埋没する。その代わり、オリジナルから派生した料理は脈々と残り続ける。
 言い換えれば、全ての料理には原型となる料理が宿っているので、姿形が違うだけでオリジナルとなる料理が失われたわけではないということになる。
「環境に応じて独自の成長を遂げた枝が途切れることはない。そしてその枝の数だけ味付けが存在する。だからこそ味付けに間違いはないのだろう。人の数と想いが、料理を継承させる」
「つまり蓬さんがやっていることは、セイさんの塩おにぎりに込められた想いを繋げようとしているということですか?」
「そうだ。人の想いというものは、他人からしたらただの重荷だ。取り落とすだけならいいが、自ら捨てたくもなるだろう。無理に抱える必要は無い。いつか心構えができた時に拾ってもらえばいい。今の友におれの存在が負担になるのなら、おれのことなど忘れて自分の道を歩んでほしい。かつてのように泰然自若でいればいいのだと……。それをおれの代わりに伝えてくれる者をずっと探していたのだ。神の言葉を解釈する代弁者――審神者の素質を持つ者を」

 まさか最初に莉亜をここに招いたのはセイだったのだろうか。ずっと御守りを持ち去ったハルがここに案内したのだと思っていたが、それなら蓬が話していた莉亜が持つ御守りにセイの気配が残っていた理由も納得がいく。莉亜が御守りから目を離したどこかでセイが細工を施したのだろう。それを偶然ハルが見つけて、蓬の元まで道案内をした。神の代弁者たる審神者の素質を持つという莉亜を、神である蓬に引き合わせるために。
 以前、蓬もハルには何も力が無いと話していたので、ハルが御守りにセイの力を込めたと考えるよりも、セイの力に気づいてここまで連れて来たと思った方がしっくりくる。

「私に審神者の素質があるなんて考えられません。極々普通の、どこにでもいるような人間です」
「それを言うならおれも同じだ。友が消えかけたその時まで、自分が審神者だということを知らなかった。家族の中で唯一神霊を見聞き出来ていたが、それが審神者の力によるものだと微塵も思わなかった。だが考えてみれば合点もいく。神と言葉を交わせることも、神やあやかしの領域であるここに出入りしているにも関わらず無事でいられることも」
「無事、ということは危険があるんですか?」
「最初に来た時、他のあやかしや神に会うことなく店に来られただろう。あの桜の木は神域への入り口ではあるが、どの出口に出られるかは通行手形に刻まれた行き先による。だが()()手に入った通行手形を使って初めてここに来た時、当然行き先は通行手形に刻印されていない。どこの出口に通じるかは運に左右される。この店以外にも神とあやかしの領域には無数の出口が存在するからな。別の場所に出て、あやかしや神に襲われるか、永遠にこの世界を彷徨っていてもおかしくない。そうなれば、今頃無事では済まないだろうな」
 
 セイの話によると、審神者の素質を持たない只人が神やあやかしの領域――神界やかくりよに立ち入った場合、あやかしに喰われるか、神によって隠されて更なる異界に連れて行かれるという言い伝えがあるらしい。
 人間にとって、神が持つ神力やあやかしが持つ妖力は身体を蝕む毒とされている。そんな神力や妖力が満ちた神界やかくりよに長時間留まると、やがて自我や身体が崩壊してしまう。あやかしとも神とも言えない、狂人のような存在になると言われていた。また運良く人の世に戻れたとしても、迷い込んでから何年、何十年、長い時は何百年も経っており、竜宮城から戻った浦島太郎のような状態になるという。
 けれども審神者の素質を持つ者や霊能者などが持っているとされている霊力があれば、神界やかくりよに滞留しても心身が無事でいられる。元の時間に帰ることも可能であった。ただし人間が持つ霊力は、あやかしにとって自分が持つ妖力を高める恰好の餌でもあるので、只人よりも命を狙われやすいという弱点を持つらしい。
 
「そういえば、最初に来た時、蓬さんが私の御守りに力を込めてくれました。次からはこの御守りを門番に見せればいい、って。その時に刻んでくれたのでしょうか。御守りを通行手形として、行き先を蓬さんのお店に」
「力が衰えていたとしても、友にとってそれくらい造作もないだろう。最初からお前は迷わずこの地に引き寄せられ、その後、何度ここに出入りしても無事でいられる。友の力で生み出された場所とはいえ、この地にも神力や妖力が満ちている。頻繁に出入りしていて何の影響も受けないわけがない。それも全て審神者の力によって守られているからだろう」

 神と意思疎通を行う審神者には神力や妖力に対する耐性がついている。神と対話をする度に神が持つ神力に触れなければならないので、無意識のうちに身を守ろうとして免疫がつくのだろう。人でありながら最も神に近い存在であり、神にも等しい存在。それが審神者であった。
 
「今でこそ審神者はほぼ存在しないが、稀に先祖返りすることがある。特に神と近しい宮司の家系に多いとか。おれやお前のように。子供の頃のおれはひ弱な軟弱者でな。特に我が家で祀る神が御座す斎庭に立ち入った直後に熱を出して寝込むことが多かった。恐らく、斎庭を満たす神力と審神者の素質たる霊力が反発し合った反動だっだのだろう。お前には心当たりはないか? そんな過去」
「特にはありません。ただ私も子供の頃はよく体調を崩していました。神社の森で遊んだり、近くの川で遊ぶ度に。でも幼児にありがちな、物心がつく前の話です。成長して、おじいちゃんに御守りをもらってからは風邪も引かなくなりました」

 遠い昔なので薄っすらと記憶にあるだけだが、御守りをもらった時、祖父は肌身離さず持ち歩くように言っていた覚えがあった。どういう意図でくれたのかは記憶にないが、健康に良いというようなことを話していたような気がした。実際にその後の莉亜はほとんど体調を崩さなかったので、病弱な莉亜を気にして健康に関する御守りをくれたのだろうとずっと思っていた。成長して身体が丈夫になってからもなんとなく御守りを手放せずにいたが、その内に祖父が亡くなったので、思い出の品としてますます離せなくなってしまったのだった。今でこそ蓬の元に来るための通行手形の役割を持っているが、元は健康長寿以外のご利益しかない、どこにでもあるようなただの御守りであった。
「それならその護符に守られていたのかもしれないな。お前の祖父もお前の審神者の素質を見抜いていたのだろう」
「セイさんはどうやって健康になったんですか?」
「おれには友がついていた。本人は否定していたが、おれの脳裏にははっきりと焼き付いている。息も荒く寝込んでいると、迷い込んできた蛍のようにおれの枕元にやって来るのだ。『早く快復するがいい。宮司の末の嗣子。皆がお前の回復を待っている』と言って。友が額に触れると、身体が軽くなる。息苦しさだけではなく、痛みも一瞬で消え去る。友がおれの痛苦を引き受けてくれていたのだ」

 蓬は豊穣の神である自分に病気快癒の力は無いと話していた。それならセイが負っていた痛みや苦しみはどこにいったのかと考えた場合、考えられる先は一つしかない。消せない以上、誰かがその痛苦を引き受けなければならない。蓬が自らを移し身としてセイの苦痛を受けたのだろう。
 
「心配で様子を見に来るだけじゃなくて、自分が身代わりになるなんて。面倒見の良い蓬さんらしいですね」
「ああ。だからこそ不安になったのだ。友の力が弱まった原因はおれにあったのではないかと。それに気づいた時、友のために出来ることは何でもやるつもりだった。名と身体を貸したのだってそうだ。それがまさか長らく友を苦しめる原因になるとは思いもしなかった」
「セイさんに名前と姿を返す前に、セイさんがいなくなってしまったからですね……」
「友には『貸す』と言ったが、本当はどちらも『くれてやる』つもりだった。どんな形であれ、無限に近い永遠なる時間を生きる友の傍に居られるのなら、それで良かった。おれという友がいたことを思い出し、孤独に生きるアイツを慰められる存在となれるのなら。それが今はどうだ。おれとの想い出は、思い出すのも辛い悲しい記憶となっている。力を取り戻すどころか、日に日にやつれ、衰え続けている。このまま友を苦しめる存在になりたくない。友をおれから解放したい。だが今のおれの声は友には届かない! 近くに居て、触れ合っても、おれの存在に気付いてくれないっ! おれに名と身体を返却することに固執して、大事なことを見落としている! そのためにおれは代償を支払ってまで、友を生き長らえさせたわけではないっ……!」
「代償ですか?」
「おれが事故に遭った日、友は全ての力を解き放った。この地に豊かと繁栄を契り、そのまま消滅しようとした。……それは奇しくもおれの目の前で起こった出来事だった」
「もしかして、消えようとしていた蓬さんが見たセイさんの姿って……!」
「魂だけの存在となったおれの姿だろうな……」
 
 蓬も最後に力を解き放った時、セイの幻覚を見たと話していた。それは蓬の元に向かっていたセイ本人の姿だったのだ。蓬の言う通り、義理堅いセイは約束を守って蓬の元にやって来たのだ。たとえ魂だけの姿に、なったとしても――。

「友の姿は消滅し、後にはおれが残された。おれは何日、何ヶ月、何十年と数えきれない程の幾星霜もの間、友の目覚めを待ち続けた。二度と目を覚まさないと言われても奇跡を信じた。その中でとある神と出会い、取引を交わしたのだ。友を長らえさせる代償として、輪廻転生と審神者の力を失い、人の姿も封じられた」
「でも今のセイさんは人の姿ですよね……?」
「ここではな。だが友の前では人の姿になれぬ。友が神力を取り戻しておれを見つけない限り、人の姿は封印されたまま、言葉を交わすことさえ許されない。たとえ誰より友の傍にいたとしても……」

 セイは興奮した感情を落ち着かせようとしているのか、何度も深呼吸を繰り返していた。セイが落ち着いたのを見計らい、莉亜はおずおずと尋ねる。

「それなら私の役目は、審神者としてセイさんの想いを蓬さんに伝えることですか。早く力を取り戻して、セイさんを見つけて欲しいということではなく、セイさんと出会った頃の蓬さんに戻って欲しいと。でも早く蓬さんから解放されないと、セイさんは怨霊になってしまうんですよね?」
「おれのことは全く気にしなくていい。今のままで問題ない。怨霊にもならないからな。それよりも心配なのは友のことだ。おれのことで嘆き、懊悩する姿も目にしたくないが、消える姿はもっと見たくない。……自分の半身をもがれるような塗炭の苦しみをまた味わうことになるからな」
「でも……」
「それにおれの願いはもう叶っているのだ。こうしてお前と出会い、おれの想いを託せた。おむすび共々な。おれ()()の友は意地っ張りで少々強情なところもあるが根は良い奴だ。審神者になるのなら覚悟しておけ」
「まだ審神者になると決めたわけではないのですが……」
「友と言葉を交わし、同じ釜の飯を食って、水魚の交わる間柄となっただろう。やっていることは審神者と変わらないと思うぞ。神と共食できる人間など審神者以外に存在するものか。神を欺いて、仕掛けを施した茶と菓子まで食わせる者もな」
「あれは蓬さんの味覚を確かめるためであって騙すつもりは……。それよりもどうしてその話をセイさんが知っているんですか?」
「さっきも言っただろう。おれは姿を見せられず、言葉も交わせないだけで、常に友の傍にいると。お前のこともずっと見ていた。友に相応しい人物かを……。結果は問題なかったな。やはりおれの見る目は正しかったのだ」
「今度は自画自賛ですか……」
「そういうことだ」
 
 そう言って、セイは口を開けて大仰に笑う。蓬に聞いていた通りの爽やかな笑みに莉亜も小さく声を上げて笑ってしまったのだった。
 やがて店の前に辿り着くと、セイは持っていた荷物を渡してくる。荷物を受け取る際に触れ合ったセイの手は、今も生きているかのように温かく、柔らかな手であった。莉亜より遥かに遠い時代を生きていた人とは思えないくらいに。

「大切な友を頼む。……蓬のもう一人の友よ」

 その言葉を最後にセイの姿は消えてしまう。まさに立つ鳥跡を濁さずといったかのように、痕跡さえ何も残さなかった。
 セイの存在に勇気づけられた莉亜は、覚悟を決めると大きく深呼吸をする。そうしてこれまで開けられなかった店の引き戸を開けたのだった。
 蓬の心に通じる扉を――。
「蓬さんっ!!」

 引き戸を開けて店に入った莉亜は、目の前のカウンター席で呆然とした顔で座っている蓬の姿を見つけた。小さく口を開けて、驚愕した顔をしているのは、莉亜が入って来ると思わなかったからだろうか。

「こんな時間にどうした? 店は開いていないぞ」
「今日は客としてではなく、()()として来ました 。今日は私におにぎりでおもてなしをさせてください!」
「無駄だ。俺は味覚を失っているのだ。慰めたい気持ちは分かるが、しばらく一人にしてくれないか……」
「駄目ですっ! 今じゃなきゃ駄目なんです……!」
「莉亜……」

 莉亜の金切り声に驚いたのか切り火たちもぞろぞろと社から顔を出す。二人を心配してくれているのか、カウンターによじ登ろうとする切り火たちもいたのだった。

「蓬さんが消えてからじゃ意味がないんです。ようやくセイさんの味を見つけられたのに……」
「気持ちはありがたいが、本当にもう何も感じないのだ。あれから嗅覚も働かなくなった。もう匂いさえ何も感じられない。手足が動かなくなり、視覚と聴覚が機能しなくなるのも、時間の問題だろう……」
「だからって、セイさんを諦めてしまうんですか?」
「どの道、俺が消えればセイは解放される。無理に探す必要もない」
「それじゃあ、切り火ちゃんや雨降り小僧ちゃん、金魚さんたちは? 蓬さんを慕ってこの店に来ていた常連客たちはどこに行ったらいいんですか? 私にとってもここは大切な場所です。私だけじゃなく、他の常連客にとっても同じです。この場所が無くなったら行く当てがありません」
「他の場所で集まればいいだろう。店なんて探せばどこにでもある。そこを溜まり場にすればいい。弱いあやかしや神の力になりたがる店主もいるだろう」
「みんな、蓬さんが好きでここに来ているんです! 蓬さんがいなくなってしまったら、私たちもバラバラになってしまいます……。そんなことはセイさんも望んでいません」
「セイと会ったのか!? いつ、どこで!?」

 弾かれたように立ち上がった蓬に今度は莉亜が一驚を喫する番だった。脅すように詰め寄られて、及び腰になる自分を叱咤する。

「ここに来るようになってから何度か会いました。いつも蓬さんの傍にいると……。でも蓬さんが力を取り戻して見つけてくれない限り、姿を現せないと言っていました。名前と身体のことは気にしなくていいから、早く昔の蓬さんに戻って欲しいと言っていました。自分のことは心配しなくていいからとも……」
「心配しなくていい訳があるか! おれがいる以上、アイツは霊魂として彷徨っているのだぞ! まだ近くにいるのなら、他の神やあやかしの手も借りればきっと見つけられ……」
「……いいかげんにしなさいっ!」

 腹の底から出てきた莉亜の叫び声に、切り火たちまで意表を突かれたようだった。莉亜自身もまさかここまで大声が出るとは思っていなかったが、後に引けなくなってしまったので勢いのままに言葉を紡ぐ。
 
「いつまでもセイさんに囚われて、素直になれなかったことを後悔していないのっ!蓬さんにとってのセイさんはそんな存在なのっ!? セイさんは大切な友達なんでしょう!? こんな蓬さんの姿をセイさんが望んでいると思っているんですか!?」
「ああ、そうだ! セイは俺の一生の友だ。その友を苦しめているのなら、助けてやるのも友だろう!」
「だからって、セイさんを優先する余り、私たちのことはどうでもいいと思っているんですか!? みんな店主の蓬さんと蓬さんが作るおにぎりが好きで、ここに来ているんですよ! 蓬さんのことが好きだから切り火ちゃんたちだってお店を手伝ってくれるんですよ! セイさんが蓬さんの立場だったら、こんなことはしないと思います!」
「お前にセイの何が分かるっ!?」
「分かります。だって私も蓬さんの友達だから……。友達が間違っていることをしていたら、止めるのものでしょう……」
 
 今にも泣きそうな気持ちを隠すように消え入るような声で訴えかければ、蓬は虚を突かれたのか表情を隠すように顔をキッチンに向けてしまう。そうして低い声で「悪かった」と謝罪を口にしたのだった。

「つい頭に血が昇ったようだ。どうにもセイのことになると冷静さを忘れてしまう」
「いえ。私も怒鳴ったりしてすみません……」
「セイのおむすびを再現してくれるのだろう。作ってくれないか。消える前に食ってみたいのだ。……思い出の味を」
「はい。キッチンをお借りしますね」

 いつもの赤と黒のチェック柄のエプロンを身に付け、同じ柄のリボンで髪をポニーテールに結ぶと、莉亜は持参した食材と調味料を調理台に並べる。さすがにこれ以上荷物が重くなると、莉亜一人では運べなかったので、米や味噌などの食材と理器具はお店にあるものを利用させてもらうことにして、莉亜は米を研ぎ始める。気持ちを奮い立たせてどうにか調理を始めたものの緊張して喉は乾き、膝だけではなく米を洗う手まで震えていた。蓬の話からすると、残された時間はそう多くない。そして持ち込んだ食材にも限りがある。万が一にも作り間違えて、ここで食材を全て使い果たしてしまった場合、また数日かけて取り寄せたとして、それまで蓬が持つか分からない。セイは大丈夫だと言ってくれたが、いつまでもそうだとは限らない。莉亜の成功と蓬の消滅、どちらが先になるのか――失敗は許されない。
 米揚げざるに移し替えて水気を切っていると、社から出ていた切り火たちが莉亜の元に集まってくる。言葉こそ発しないものの、皆一様に何かを訴えかけているようだった。それが何か聞かなくても莉亜には分かった。

(そうだよね。心配しているのは私だけじゃない。考えていることは、切り火ちゃんたちだってきっと同じ……)

 自分だけじゃないと安心感が持てたからか、強張っていた身体から力が抜けた。その場でじっとして大きく息を吸う。切り火たちに目線を合わせるように、莉亜はその場に膝をつくと、ゆっくりと笑みを浮かべたのだった。

「切り火ちゃんたちも蓬さんが心配なんだよね」

 素直に頷く者、斜に構えているのか蓬の方を向いている者、無反応の者。それぞれ反応は違っても、莉亜の元に集まった以上、蓬に対する想いは皆同じ。莉亜よりも長い時間、蓬の姿を見てきたのだから。こんなに心強い援軍はいない。
 身も心も満たされたような気持ちとなって胸が詰まる。いつの間にか手足の震えは治まっていたのだった。

「蓬さんにセイさんが作ったおにぎりをもう一度食べさせてあげたいの。手伝ってくれる? 今、ドライフルーツを持って来るから……」

 その言葉が合図になったのか、切り火たちは我先にと争うように竈に向かって走って行く。いつものように労働の対価としてドライフルーツを渡そうとしていた莉亜は呆気に取られてしまったものの、竈を指して火を点けるように急かしてくる切り火たちに感謝の気持ちで胸が熱くなったのだった。
 そんな切り火たちに指示されるまま莉亜は棚からマッチ箱とマッチを持ち出すと竈に火を熾そうとするが、マッチが湿気っているのか、何本擦っても上手く火が点らなかった。その内に折れたマッチ棒の小さな山が出来上がり、あと数本でマッチ箱が空になるという時、後ろから「どけ」と声を掛けられたのだった。
「このままじゃ埒が明かない。ここは俺がやる」
「でも、蓬さんの力は……」
「火を熾すくらい、大したことはない」
 
 蓬はいつものように唇に指を当てて真言らしきものを唱えると、そのまま指を火に向ける。やはり力が無いからか、いつもより弱々しい火種ではあったものの、すかさず切り火たちが熾したことで、これまでと同じ大きさになったのだった。莉亜は米揚げざるの米を窯に戻して、水道を捻って水を入れると竈に持って行く。竈での米の炊き方は分からなかったが、そこは普段から米炊きを手伝っている切り火たちに任せることにした。
 キッチンに戻って来た莉亜は鍋に入れた水をコンロの火にかけると、今度は汁物の用意に取り掛かり出す。持参したクーラーバッグから取り出した大きな水筒をいくつかと食材を取り出して流し台に並べる。水筒の中身を全て鍋に開けて沸騰するのを待つ間に、大きめの皿にあらかじめ自宅で捏ねてきた小麦粉の生地を載せると室温で寝かせることにしたのだった。

「すいとんを作っているのか?」
「はい。これでも家で練習してきたんですよ。おにぎりだけじゃなくて、汁物だって」
「汁物の出汁はあまり見たことがない色をしているな。見たところ、沸騰してきているようだが」
「あっ! 本当ですね。米も炊けてきましたので、そろそろ仕上げます」

 カウンター席に座る蓬が興味深そうな視線を向けてくるので、ところどころ集中が途切れそうになるものの、窯の蓋から蒸気と共に漏れる炊き立ての米の甘い匂いと抽出してきた香ばしい出汁の匂いが、それぞれ莉亜の意識を引き戻してくれる。
 汁物に使っている莉亜の秘策ともいうべき出汁については、一晩かけて自宅の冷蔵庫で寝かせて仕上げてきたので、後は弱火にして先程の小麦粉の生地をちぎり入れるだけであった。最後に購入してきた()()()()を加えて、ちぎった小麦粉の生地に火が通ったら完成であった。
 問題はセイの味を再現した塩おにぎりの味付けであった。切り火たちに蒸らし終わったことを教えてもらうと、蓬がおにぎりを作る時と同じように釜を運んでおひつに移し替えようとする。しかし思っていたより釜が熱くなっていたことや炊き上がった米で釜が重くなっていたからか、一度釜に触れたものの、すぐに手を引っ込めてしまう。そのまま危うく取り落としそうになったのだった。

「あつっ!」
「貸してみろ」

 半分呆れたような顔で蓬は席を立ちあがると、袖を捲りながら近づいてくる。
 
「熱々なので火傷しますよ」
「……痛覚もほとんど失っているから問題ない」
 
 そうして蓬は軽々と釜を持ち上げてくれると、足元にいる切り火たちを器用に避けながら炊事場まで運んでくれる。莉亜も釜を持つ蓬の後ろをついて歩くが、蓬は慣れた手つきでおひつに米を移し替えるところまでやってくれたのだった。

「ありがとうございます」
「ここまでは俺でもセイのおむすびを再現できた。問題はここからだ。お前がどうするのか見させてもらうぞ」
「挑戦ですね。受けて立ちます!」

 期待をしているのか小さく笑みを浮かべた蓬に莉亜も冗談を返すと、リュックサックから塩が入った袋を二袋取り出す。戸棚から出した小皿にそれぞれどの塩か分かるように盛り付けておにぎり作りの用意を整えると、莉亜が触れられる温度になるまでおひつを混ぜて熱が冷めるのを待つ。その間に室温で寝かせていた小麦粉の生地を一口サイズにちぎると出汁の中に入れていく、そうして弱火にして火が通るのを待ちながら、莉亜は購入してきたとある白い固形物を溶かし入れたのだった。

「さっき鍋に入れたその白い固形物は、もしかすると酒粕か?」
「良く分かりましたね。嗅覚が戻ったんですか?」
「いや。切り火たちの様子を見ていて、もしやと思っただけだ」

 蓬が指摘する通り、流し台に置いていた白い固形物状に固まった酒粕の袋の周りに切り火たちが集まっていた。顔はないものの、視線を逸らすことなく皆一心に熱い視線を酒粕の袋に向けている姿から、どことなく切り火たちが酒粕を物欲しそうに見ているように思えてしまう。

「切り火ちゃんたちは酒粕が気になるのでしょうか?」
「神というのは酒が好きだ。それは神に連なる切り火たちも同じ。一般的な液体状の酒だと、万が一顔や身体に掛かった時に命がかかってしまうから舐めるように飲むしかないが、その点、固形状の酒粕なら身体に掛からないことを気にしなくていい。俺は分からないが、鍋の周りに充満している酒の臭いに惹かれているのだろう」
「なるほど……。それなら今日の切り火ちゃんたちのお駄賃に酒粕を渡してみますね」
 
 莉亜は酒粕の袋を開けると、適当に空いていた皿に盛りつけて切り火たちに差し出す。「今日のお礼だよ」と言えば、切り火たちは我先にと酒粕の皿に群がったのだった。

(それにしても、切り火ちゃんたちはお酒の臭いが平気なんだ。私はさっきから酔いそう……)
 
 嗅覚が利かない蓬には分からないだろうが、先程からずっとすいとんを温める鍋の周りには、濃厚な出汁と小麦粉特有の粉くさい臭い、そして酒粕から漂う酒の臭いが充満していた。出汁と小麦粉の強い香りで鼻が曲がりそうになるのを我慢しているところに、慣れない酒の臭いも混ざっているので下手をすれば酔ってしまいそうだった。
 莉亜の家族は下戸ばかりで両親は滅多に酒を飲まない。臭いだけで酩酊しそうになる莉亜もきっと下戸なのだろう。今はまだ未成年だからいいが、酒が飲める年齢になった時、歓迎会やパーティーの席での酒には気をつけた方がいいかもしれない。
 そんなことを考えている内に、ようやくおひつの中の米が火傷しない温度になったので、先程小皿に移した塩の内、全体的に粒が大きく荒い塩の皿を手に取る。取り間違えていないか念には念を入れて、軽く指につけて舐めると、ざらりとした塩の食感と塩が持つ塩辛さと海水塩特有の苦みが口の中に広がったのだった。

(この味、間違いない。こっちの塩で大丈夫……)
 
 ここで間違えてしまったら、元も子もないのでそっと安堵する。そして莉亜は味見した塩をおひつの中に回し入れたのだった。

(もう少し、塩が多かったかも……。少しずつ入れ過ぎないように、気を付けないと……)

 かつて一度だけ食べたセイのおにぎりの味を思い出しながら、莉亜は慎重に塩を足していく。失敗しても良いように炊き立ての米を何皿かに取り分けると、塩を少し足して味見をする。やはり自宅と店では同じ米でも炊き方や使用している釜が違うからか、米そのものの甘みから違ってしまう。どうしても炊飯器で炊いた米よりも釜の中の水分を吸収する分、竈で炊いた米の方が甘みを増す。でもこの甘みこそが、あの日ここで食べたセイのおにぎりと同じ炊き方だという証拠にもなる。

(これぐらいでいいかな……。()()()()()()を考えると、ここはあまり入れ過ぎない方がいいよね……)

 結局、塩を入れ過ぎて何皿か失敗してしまった。塩加減を調整して味見ばかりしていた莉亜の腹もそろそろ限界に近い。

(うん。これくらいにしよう)

 塩が乗った皿を持っていた手を降ろすと、三角形のおにぎりを握り始める。自宅で練習している時に気付いたが、山の形をした綺麗な三角形に握るというのも簡単に見えて案外コツが必要であった。米の量が多すぎるとどうしても見た目が不格好になってしまい、もし具材を入れて、海苔を巻くとするならば、食べる時に具材や米が海苔から落ちないように全体のバランスも考えなければならない。ただ握って、具材を入れて、海苔を巻けばいいわけではないことを莉亜は知ったのだった。その上で、手際よく均等に形の整ったおにぎりを作れる蓬の器用さと仕事の速さをつくづく考えさせられたのだった。
 いつも店で盛り付けに使っている桜模様の角皿を取り出すと、莉亜は握りたての塩おにぎりを並べる。その頃にはすいとんも完成したので、黒塗りの椀によそうと、黒天朱の盆に塩おにぎりの皿とすいとんの椀を載せた。
 そして()()()()()()として、持ち込んだ塩の内、粒が細かく砂のようにさらりとした塩を指でひとつまみすると、おにぎりに振りかけたのであった。
「そんなに塩を振ったら辛くて食べられるものじゃないだろう。味覚が無いからといって気を遣う必要はない」

 塩を入れ過ぎたおにぎりを想像したのか、()()()()()()()()()()()()()()()蓬に莉亜は自分の狙い通りになったと得意げな気持ちになる。莉亜の料理に憂色を濃くする蓬を安心させるように胸を張って答えたのだった。
 
「いいえ。これがセイさんのおにぎりの隠し味の一つです」
「隠し味だと……?」
「セイさんの話を聞いた時、ずっと気になっていたんです。蓬さんにおにぎりを届けに来たセイさんが、わざわざ蓬さんの目の前で塩を振りかけたのはどうしてだろうって」
「そんなのはただの仕上げだろう。俺だって塩気が足りないと思った時は最後に追加する」
「でも仕上げだけなら自宅ですればいいだけのことですよね。蓬さんだって、お客さんに料理を運んでから敢えてその場で塩をかけていませんよね。塩気が足りないと思ったら、料理を提供する前に塩を追加すればいいだけですから」

 蓬からセイが作るおにぎりの話を聞いた時、疑問に思った。どうしてセイはあえて蓬の目の前でおにぎりに塩を振ったのか。
 これがおにぎりではなく、例えば肉や魚料理だったら客の目の前で塩をかける意味も分かる。客の口だけではなく、目も楽しませようという店側のパフォーマンスなのだと。もしかしたら世の中には客を楽しませるために、目の前で調理するおにぎり屋もあるかもしれない。だがセイに限っては、そうする必要性が感じられない。おにぎりを渡す相手は不特定多数の客ではなく、自身が住まう神社で祀っている豊穣の神の蓬であり、神饌として米と塩を奉納するのは必須なのだから。それなら蓬の目の前でおにぎりに塩をかけるということに、どんな意味があったのだろうかと。
 ――もしかすると、そこには味付け以外にも意味があったのではないかと。
 金魚が働くおにぎり屋でそのことに気づいた莉亜は店を出た後、公共図書館で料理科学に関する本を読んで答えを探した。そうしてようやくその意味を知ったのだった。

「それはそうだが……。ただそれはセイが塩辛い味が好きだからそうしていただけだろう。あの時代、料理は女がするものだと考えられていた。料理とは無関係の家系でもあるセイが料理に関する知識を持っていたとは到底思えない」
「最初こそ偶然かもしれません。でも几帳面におにぎりを食べた蓬さんの反応を日記帳に書き溜めていたところから、セイさんは料理についても勉強していた可能性があります。それなら大学の授業が終わった後、早く帰宅していた理由とも辻褄が合います」
 
 数える程しかセイに会っていないので何とも言えないが、神饌としてただ蓬におにぎりを出すのではなく、蓬に「美味い」と言わせるためにセイが記録をつけていたのだとしたら、生真面目なセイは蓬の神名を探す傍らで料理についても学んでいた可能性が高い。米の炊き方から握り方、味の付け方まで。その中できっと知ったのかもしれない。味や美味しさの区別がどうやってつくのかを。

「さっき私が塩を振った時、蓬さんは塩辛い味を想像して顔を顰めましたよね。それと同じように黄色のレモンを見ただけで口の中が酸っぱくなったり、白色の生クリームを見ただけで口の中が甘くなったりするのを感じます。どうしてか知っていますか?」
「過去に食べたことで味を覚えているからだろう」
「それなら熟す前の緑色のレモンや着色料を使用した青色の生クリームを想像した時、どんな味を想像しますか?」
「当然、どちらも不味いと思うだろうな」
「私たちが最初に料理を食べる時、まず最初に味わうのは見た目、その次が匂いらしいです。その二つが分からない時、知っている食べ物でも味が分からないそうです。セイさんはそれを利用しておにぎりが塩辛いものと錯覚させたのではないでしょうか?」

 勿論、国や地域によって美味しいと思う色は異なる。青い色の生クリームが主流の国があれば、熟す前に収穫された緑色のレモンを使った料理も近年増えている。自分が知っている見た目ではないからといって、必ずしも味が悪いとは限らない。それならどうして青い色の生クリームや緑色のレモンを不味いと思ってしまうのか。それは視覚から入った情報が自分の味覚を刺激して、美味い、不味いを決めてしまっているからであった。見た目という先入観によって味の良し悪しを決めてしまっているからこそ、見た目と匂いが分からない状態では何も感じられなくなるらしい。
 
「それなら何故セイはそんなことをした? そんな意味がないことを……」
「意味はあります。早く蓬さんに力を取り戻して元気になって欲しかったからこそ、セイさんは蓬さんの目の前で仕上げをしたんです。おにぎりに食塩を振ることで、このおにぎりには神饌に使われている粗塩が含まれていると強調するために」
 
 金魚に教えてもらった通り、太陽と海の神によって作られているという粗塩は神にお供えするのに最も相応しい塩である。そんな粗塩を料理として使う際の特徴として、溶けやすさと食材との付きやすさがあった。粗塩ごとの粒の大きさにもよるが、食材に振りかけると溶けずに残ってしまうことが多く、また食材によっては手に取った時に食材から粗塩が落ちてしまうことがあるらしい。そのため振りかけるよりはスープや肉料理に向いているとされていた。
 しかし神へのお供えものに粗塩を溶かしたスープを出すわけにもいかず、どうにかしてそのままの形で粗塩を口にしてもらう必要があった。そこでセイはおにぎりに粗塩を混ぜて神饌とすることを考えたのだろう。ただおにぎりと一緒に出すことで、蓬には塩の神饌が無いと思われてしまうかもしれない。どうにかしておにぎりに粗塩が入っていると目立たせる必要があった。
 だからこそ、セイはあえて蓬の目の前で塩を振ったのだろう。粗塩だとおにぎりを食べる際に落ちてしまうので、粒が細かく食材に付着しやすいと考えられている食塩を振ることで、このおにぎりには粗塩が含まれていると主張させるために。

「蓬さんはセイさんのおにぎりについて、塩辛い中にも甘さと苦さがあった、と表現していました。その甘さというのは食塩で風味を引き立たせられた米の味、苦さが粗塩に含まれるにがりの味、そして塩辛いというのは二種類の塩本来の味に加えて、目の前で塩を振る姿を見たことでより塩辛さが増したのではないかと思ったんです」

 おそらく莉亜だけではなく蓬も、セイは神饌に使われている塩一種類だけを使っておにぎりを作っていると思い込んでいた。だからこそ別の種類の塩と組み合わせて使っている可能性を見落としてしまっていた。
 セイが生きていた時代に現在流通している塩の製塩法が全て揃ったのなら、他の塩が流通していてもおかしくない。塩漬けという料理が太古から存在していた以上、食塩も古えの時代からあっただろう。粗塩しか塩が無かったわけではない。そのことを金魚が働くおにぎり屋で塩おにぎりを食べた時に気付かされた。おのおにぎり屋では店主が自ら配合した独自の塩を使っていた。天日塩の粗塩に食塩をほんの少し組み合わせた塩らしいが、それがあの日セイに作ってもらったおにぎりの味とよく似ていたのだった。
 そこで莉亜は金魚から教えてもらった塩の種類を元に、セイの時代より前から作られている各地の粗塩を取り寄せて、食塩と組み合わせた。その中でようやくセイのおにぎりとほぼ同じ味の塩の組み合わせを見つけたのだった。
「神饌に使われている塩が粗塩だということは分かっていた。だが粗塩でおむすびを作った時はセイのおにぎりに似ていつつもどこか違っていた。甘さが足りないと言えばいいのか、あまり塩辛く言えばいいのか……。あれは食塩が入っていなかったからだったのか」
「料理としておにぎりに適しているというのは白米との相性が良い海塩らしいです。その海塩には大きく分けて二種類あります。一つはにがりといったミネラルを残した粗塩、もう一つがミネラルを除いた精製塩である食塩です。食塩にはにがりが含まれていない分、刺すような塩辛さがあるそうです。食品の甘さを引き立たせる辛さも。きっと蓬さんが最初に食べたおにぎりは、粗塩に対して食塩の割合が大きかったのかもしれません。それで粗塩の味よりも、食塩の塩辛さの方が印象に残ってしまったとか」
「つまりセイのおむすびが塩辛いという錯覚に囚われていたということか?」
「錯覚に囚われていたというよりは、そうだと信じていたんだと思います。セイさんのおにぎりは塩辛いって。記憶の中の味って印象的なものほど残りやすいそうです。最初に食べたセイさんのおにぎりの味付けがとても印象的だったことで、最後に食べたセイさんのおにぎりの味にも影響を及ぼしてしまった。それから更に長い時間が経ったので、どこかで記憶が変わってしまってもおかしくないですから」

 実際にセイのおにぎりを食べた時の莉亜も目の前でセイが塩をかけたことで、セイのおにぎりは塩辛いものだと思い込んでしまった。口にした時も塩辛い味付けだったので莉亜もそう思っていたのだが、味を感じる仕組みが分かってしまえば、セイのおにぎりはそこまで塩辛いものじゃなかったと考えが変わる。
 蓬におにぎりを運ぶようになった最初こそ塩加減が分からず、セイは塩をたくさん混ぜてしまったのかもしれない。塩辛い味が好みということもあって、蓬に出す時にも塩も振ったのだろう。そのため、蓬はセイのおにぎりが塩辛いものだと認識してしまい、それはセイのおにぎりに関する印象的な記憶としても残ってしまった。もしかしたらその後、セイのおにぎりは一般的な味をした塩おにぎりに変わったかもしれないが、蓬の記憶の中のセイのおにぎりは塩辛いものとして記憶されてしまったので、「セイのおにぎり」と言われたら、真っ先に塩辛い味のものを想像するようになったのかもしれない。

「言われてみれば……。最初にセイのおむすびを食べた時の衝撃は大きかった。力が回復したこともそうだが、見た目に反して口を刺すような塩の辛さに驚いたものだった。それがセイのおむすびとして記憶に残ってしまったのだな」
「料理は見た目や匂い、料理名といった情報が味を決めてしまっているようなものですからね。見た目と違う味だったことで特に印象に残ったのかもしれませんね。じゃあそんな料理科学のお話はこれくらいにして、冷める前におにぎりとすいとんを飲んでください。あっ! 食べる順番はすいとんからですからね!」
「味が分からないのに、どっちが先とか関係ないだろう」
「細かいところは気にしなくていいので、まずは騙されたと思って、すいとんから飲んでみてください!」
「分かった。……いただこう」

 莉亜は黒天朱の盆ごと塩おにぎりの皿とすいとんの椀を蓬に渡すと、蓬は半信半疑といったように椀から手に取ってくれる。黒塗りの箸ですいとんをかき混ぜると、鼻を近づけて匂いを嗅いだのだった。

「本当に大丈夫だろうな。味覚も嗅覚もない状態で物を食うというのはかなり命がけの行為だ。生きるためとはいえ、人間は平気で食べているが、俺たち神には恐ろしくて口もつけられん。毒を盛られていても気付かないのだからな」
「毒も何も盛っていないので大丈夫です! そもそも私が料理を作っている間、ほとんどずっと見ていましたよね?」

 もし一服盛るとしたら蓬に釜を運んでもらっている間だろうが、あの時は切り火たちの目があった。さすがに切り火たちも主人の身に危険が迫ったのなら蓬に教えるだろう。そんな状態で何かを仕込むことは不可能に近い。

「それはそうだが……。お前の料理の腕前を知らないからな。セイのように極端に変な味付けをしているかもしれないと思うとだな……」
「こう見えても、家庭科の成績はそこそこ良い方でした! 今も自宅で自炊をしています。たまにですけども……」

 いじけたように唇を尖らせたからか、ようやく蓬は観念してすいとんの椀に口を付けてくれる。するとハッとしたような顔をしたかと思うと、すいとんが入った椀を覗き込んだのだった。

「どうしましたか?」
「……これには椎茸と小麦粉の生地しか入っていないな?」
「そうです。出汁をとった椎茸をそのまま具材にして、あらかじめ家で捏ねてきた小麦粉の生地のみ一口大にして入れます」
「椎茸の出汁……。それで鍋に入れた時に珍しい濃い茶色をしていたのか……」
「ただ椎茸の出汁だけだと、きのこ独特の風味と臭いがきついので、昆布でとった出汁も加えました。後は酒粕も少々」

 練習のために干し椎茸の出汁だけですいとんを作った時は、きのこ特有の土臭さに加えて苦味や渋味が濃厚でとても飲めたものではなかった。改めて調べたところ、椎茸の出汁というのはその独特の風味や臭いから基本的に炊き込みごはんや煮物に使われることが多いそうで、汁物として使う時は昆布出汁や鰹出汁と混ぜて使うものらしい。
 また椎茸出汁に含まれているうま味成分のグアニル酸と、昆布出汁のうま味成分であるグルタミン酸には、合わせて使うことでうま味を相乗させる効果があるそうで、うま味をより強く味わえるとのことだった。

「どうして酒粕が必要になる?」
「セイさんは神饌としてお神酒が入った汁物も作っていたんでしたよね? 本当はお神酒に使われていたお酒を買いたかったんですが、未成年なので酒類は買えなくて……。そこで同じ酒造会社で作っている酒粕を買ってきたんです。調べたら、セイさんの神社があった地域でお酒を作っていた杜氏の人は、数年前からインターネット限定でのお酒の販売に切り替えたそう、その商品一覧の中に酒粕が売られていたので購入したんです。人気の商品なので届くのに時間が掛かりました」

 近年の健康ブームの中で酒粕を使った料理やダイエットが注目されているが、その中でも古くから酒を醸造している蔵というのは市販のものよりこうじ菌を多く含んでいると考えられているらしい。そのため、注文しても数週間から数か月待ちというのは珍しくないようで、莉亜が今回注文した醸造所の酒粕も入荷待ちとなっていた。今回は運良く見つけてから数日で販売再開したのを見つけられたが、タイミングが悪かったら数か月は待つことになっていたかもしれない。

「先にすいとんに口をつけた。もうおにぎりを食べていいか?」
「どうぞ。ぜひ味わってください。セイさんのおにぎりを」
「お前の気持ちだけとくと味わおう。はぁ……ずっと味覚が無いと言ってるだろうに……これも騙されたつもりになれということなのか……」

 蓬はおにぎりを手に取り、様々な角度からおにぎりを眺めては異常がないか確認した後、ようやく口にする。一口食べた瞬間、蓬は目を見開いて肩を震わせたかと思うと、声を荒げたのだった。
「なんだ! このおにぎりはっ!? 塩辛くて食べられたものじゃないぞ!?」
「蓬さん! 味が分かるんですか!?」
「……っ!」

 蓬が小さく声を漏らした時、莉亜の耳に大きな縄が斬られるような音が聞こえてくる。その後、小さな耳鳴りがしたと思うと、蓬の身体から真っ二つに斬られたしめ縄のような光輝く白い縄が落ちたのが見えた。縄は白い粒子状となってすぐに消えてしまったものの、その白い縄が今まで蓬の味覚を封じていたのではないかと莉亜は考えたのだった。
 辺りを見渡すとどうやら莉亜以外には縄が見えていないようで、蓬は貪るようにおにぎりとすいとんを口に運び、そんな主人の姿を切り火たちはどこか嬉しそうに酒粕を食べながら見ていたのだった。


「味が分かる。分かるぞっ……! これまで失うばかりで回復しなかったというのに……。どんな小細工をしたんだ?」
「細工なんてしていません。強いて言えば、料理を口にした時の相乗効果と変調効果を利用したくらいで」
「相乗効果と変調効果?」
「相乗効果というのは二つの同じ味を足したことで味が増すことを言います。丁度すいとんに入っている椎茸の出汁と昆布の出汁がそうです。同じ味であるうま味が掛け合わされたことでうま味が引き立たせられて、より味を感じられるかと思います」

 料理が美味しくなるように仕上げとして加える別の味の調味料や食材のことを「隠し味」と呼ぶが、その相互効果にはいくつか法則が存在する。
 一つが先程のすいとんの出汁で使った椎茸の出汁と昆布の出汁のように、二つの同じ味を合わせることでその味をより強める相乗効果。もう一つが食べる順番によって味が変わってしまう変調効果であった。それ以外にもコーヒーに砂糖を淹れることで苦味が弱まるように、他の味を少量加えることで元の味が抑えられる抑制効果、お汁粉に少量の塩を入れることで甘みが増したように感じられるように、他の味によって元の味が強まる対比効果がある。今回莉亜が利用したのは、その内の相乗効果と変調効果であった。
 味覚を失った蓬に普通に塩おにぎりを出しても意味がないと考えた莉亜は、少しでも味を感じてもらえるように塩味が増す方法を考えた。当然塩の量を増やすことも考えたが、それでは蓬の思い出の味というセイの味から遠ざかってしまう。どうにか塩の量を変えないで塩味だけを濃く感じられないか模索した結果辿り着いたのが、この「隠し味」の仕組みであった。
 先程の蓬の目の前で塩を振ることで塩辛いと脳を錯覚させたように、味覚を刺激して味を感じさせる方法として、味の変調効果を利用することで塩味を強く表現できないか自宅で試した。その中で椎茸の出汁から抽出されるうま味を食べた直後に塩分を摂取することで塩味が増すことを知ったのだった。
 莉亜が用意してきたすいとんの出汁は昆布から抽出した出汁を加えたものの、それ以外は全く味付けをしていないため、椎茸の臭いとうま味しか味がしないほとんどお湯も同然の出汁であった。それを飲んだ直後におにぎりを食べたことで、既に塩を振ったことで塩辛いと思い込んでいるおにぎりの塩味をますます感じられるだろうと考えたのだった。また椎茸と小麦粉には味覚の回復に役立つ亜鉛を多く含んでいるので、他の組み合わせで味の相乗効果を起こすよりも椎茸の出汁を使った方法が良いと考えたのだった。

「蓬さんは私たち人間と違って神様なので亜鉛が味覚を治すのに効くとは思っていませんでしたが、気休め程度でも味覚を治すのに役立てればと思って、椎茸出汁のすいとんを用意してきたんです。出汁を摂る際に使った水はお供え物に良いと言われている湧き水を取り寄せて使いました。セイさんも神社の湧き水を使っていたと話していましたよね。時間は掛かりましたが、なるべくセイさんが使っていた湧き水と近い味のものを使いました」
「相乗効果のことはよく分かった。で、変調効果というのは?」
「料理って食べる順番によって、味が変わったり、増したりするんです。ケーキを食べた後にフルーツを食べると酸味を感じられたり、濃い塩味のものを食べた後に水を飲むと甘く感じられたりします。二種類の違う味を続けて食べることで、後に食べる味が変化することを変調効果って言うそうです。隠し味のコツとして本に書かれていました」

 前に食べた味が残っている状態で他の味のものを食べると味が変わることがある。しょっぱいスルメを食べた後に甘い蜜柑を食べると苦く感じられるように本来の味がしなくなることを変調効果と言う。複数の料理を作りながら味見をした時と実際に料理を出した時に味が違うということがあったとしたら、それは料理を作っている際に複数の違う味の料理の味身をしたことで味の変調効果が起こったというのが原因らしい。
 その変調効果の中に酸味や濃い塩味を味わった直後に水を飲むと甘く感じられるというのがあった。蓬がセイのおにぎりを食べた時、印象に残ったという「塩辛さと甘さ」も、塩の辛さに加えて、同等の甘さをしたのではないかと考えられた。だが米本来の甘さにも限度があるので、それ以外の何かが甘さの引き立てたのだということには気付いたが、肝心の甘さを引き立てたものが何かが分からなかった。
 そこで問題になっていたセイが神饌に使っていたという清水について地域や採水方法による味の違いを調べる中で、神棚へのお供え物に適しているとされている湧き水がどの水よりも甘みを持っていることを知ったのだった。実際に莉亜も何種類かの湧き水をインターネットで取り寄せて、自分で握った塩おにぎりと共に飲食したところ、蓬が話していたセイのおにぎりの味である塩辛くて甘い味に近いものを見つけることが出来たのだった。
 そのため、蓬も清水で作られた汁物を飲んだ塩後に辛いセイのおにぎりを食べたことでおにぎりの味に変調効果が起きた。ついでにその清水の甘さが粗塩の苦味を抑える抑制効果も発生したことで、苦味を残しつつも塩辛さと甘みをより感じたのではないかと思ったのだった。
 
「セイさんのおにぎりが塩辛くて甘く感じられたのは、食材そのものの味と目の前で塩を振る姿を見たことに加えて、清水として供された湧き水の甘さが塩の辛さに変調効果をもたらしたと思ったんですよね。湧き水というのは水道の水よりも甘い味がするそうです。湧き水の甘さとおにぎりの塩の辛さがセイさんのおにぎりの味をより印象付けたのだと思います」

 莉亜の説明に蓬は呆気に取られていたものの、やがて呟いたのだった。
 
「そんなことが起こるのか……料理というのは奥深い……。いや、俺が無知なだけなのか……セイのことばかり考えて、料理のことを何も知らなかった。そこまで考えが及んでいれば、きっと味覚を失う前に見つけられたのだろうな……」
「でも味覚を取り戻したということは、神力が戻ったということですよね。きっとこれからもっと力を取り戻せますよ。そうしたらセイさんを探しに行きましょう。慌てずゆっくり……セイさんもしばらくは今のままで大丈夫だと話していました」
「そうだな。これからこの味を作れるようになればきっと神力を回復するだろうな。手当たり次第に誰かに食わせるか」
「あの、これはあくまで私の想像ですが……。蓬さんが神力を回復する仕組みが分かったような気がします」
「そんなことまで分かるのか?」

 期待するように目を輝かせたので、莉亜は腰が引けそうになる。ただこの機会しか言えないだろうと思ったので、迷った末に言ってしまうことにしたのだった。
「蓬さんの神力はおにぎりを作って誰かに食べてもらった時に回復するんですよね。作り手に関係なく。でもそれなら蓬さんが寝る間も惜しんでおにぎりを大量に作ればいいだけの話じゃないですか。誰にあげるとか関係なく、機械のように淡々と作り続ければ」
「それはそうだな。だがそれでは意味がなかった。誰かに作り、食べてもらうことで神力は回復した。自分で作って自分で食べただけでは、何も意味が無かった」
「そこがポイントなんです。誰かのために何かをする――誰かを想って料理をすること。それこそが蓬さんの神力が回復する仕組みだと思うんです。セイさんが蓬さんを想っておにぎりを作ってきたように、蓬さんも食べる人のことを想って料理を作ればいいんです。料理を美味しくする最高の隠し味は愛情って言われているくらいですから!」
「愛情……」

 良い品質の材料、優秀な料理人、見た目が華やかで食欲をそそるような料理でも、そこに愛情がなければお店で売っている料理と変わらない。食べる相手を想って作った料理こそ人の心に響く。セイも言っていたように、料理に正解は存在しない。相手を想って作った分だけ料理は枝分かれする。その先で愛情という花を咲かせて、その愛情に感動した人が同じ料理を誰かに作ることで枝は伸びてその先でまた花が芽吹く。そうして料理は脈々と続いて行く。愛のない料理ほど誰の心にも残らず、人や時代の移り変わりと共に消えてしまう。往古から残り続ける料理というのは人の心を動かし、残り続けてきた料理なのだと思う。
 神としての全てを失い、自分の姿や神名も忘れてもなお、蓬がセイのおにぎりをずっと覚えていたように――。
 
「その料理を美味しいか決めるのは味や技術、作り方ではなく、その料理にまつわる思い出らしいです。他の人が食べたら不味い料理でも、その料理や作り手との思い出次第では、どんな料理よりも美味しいものになるそうです。蓬さんもセイさんのおにぎりをしょっぱいと言いながらも、思い出の味として大切にしていますよね。セイさんに名前と姿を借りたままなのを後悔しているのと同じくらい、セイさんと過ごした時間や思い出を大切にしているから……。セイさんとの思い出が、おにぎりを美味しく感じさせるんです! 」
 
 莉亜が蓬のおにぎりを食べて郷里の母が握ってくれたおにぎりを思い出して涙を流したように、思い出と五感というには直結している。
 初めて食べた生のピーマンが苦くて嫌いになったのも、七五三のお祝いで祖父からもらった千歳飴が甘くて好きになったのも、学校の野外体験で炊いた飯盒のご飯を取り分けている時、煎餅のように固くなっている焦げ目が美味しくてこっそり食べていたら先生に怒られたのも、全て思い出と繋がっているから。
 ピーマンの苦さ、千歳飴の甘さ、米の甘さとおこげの硬さといったように、印象的な思い出ほど五感が覚えていることが多い。
 楽しい思い出、悲しい思い出、どういった内容の思い出かは関係ない。
 人や神、あやかしといった種族さえも。

「思い出って、頭が記憶しているわけじゃないんです。心が覚えているから思い出らしいです。自分の名前や姿を忘れても、蓬さんがセイさんのことを覚えていられていたのは心が覚えていたからだと思うんです。蓬さんにとって、セイさんと過ごしした時間が何よりも心に響く思い出となったから。言い換えれば、セイさんとの思い出を想起させられるこのおにぎりを作った時点で、もう蓬さんはセイさんのレシピを完成させたことになっているんです。だからこそ蓬さんの神力は回復したんです。料理を提供したい相手と、その先にいるセイさんを想って作ったから」

 蓬はセイのおにぎりのレシピにこだわり、セイのおにぎりそのものを再現できたら神力がもっと回復するだろうと考えていたのだろう。だからこそ自分が作るおにぎりではなく、セイのおにぎりに執着した。でもそれだと意味がない。
 仮に蓬がセイのおにぎりを完璧に再現できたとしても、おそらく蓬の神力は回復しない。それは食べる相手のことを考えていない、ただの独りよがりの料理だから。
 慣れないながらもセイのおにぎりをベースにしつつ、食べる人のことを想って蓬独自のおにぎりを作る。
 それこそが蓬の神力が回復する仕組みなのだろうと、莉亜は考えたのだった。

「……つまり、セイのおにぎりは何も関係なかったということなのか」
「無関係というわけではありません。セイさんのおにぎりは蓬さんにおにぎりの作り方と新しい生き方のきっかけを与えたんです。セイさんと出会っていなかったら、蓬さんは今頃どうなっていましたか。セイさんが生きていた時代に消えていたかもしれませんし、力が回復しなくて今も眠っていたかもしれません」
「それは……」
「おにぎりの作り方を知らなかったら、切り火ちゃんや雨降り小僧ちゃんたちは今も行き場を失くしていたかもしれませんし、私だってホームシックが悪化していたかもしれません。おにぎり処を開店させようなんて思わなかったですよね」

 今の莉亜が居るのは間違いなく蓬のおかげ。初めて出会った日、蓬のおにぎりは孤独を抱えて花見で賑わう公園を彷徨っていた莉亜の心を救ってくれた。
 蓬が営むおにぎり処が無ければ、莉亜の心は擦り切れて、程遠くないうちに潰れていたに違いない。

「セイさんがきっかけでも、その後のことは全て蓬さんが始めたんです。蓬さんがセイさんの想いを継いだんです。それって新しい生き方だと思いませんか。与えられてきた豊穣の神が、与える側になったんです。全て偶然かもしれませんが、セイさんとセイさんが作るおにぎりと出会えたのは、決して無駄ではなかったと思うんです」
「セイは俺と出会ったことを後悔していないだろうか。俺と関わり、名と姿を借したことで、未来が閉ざされてしまったことを……」
「セイさんも蓬さんと同じくらい、蓬さんとの思い出を大切にしていますよ。恨んでいる様子は全くありませんでした。それよりも今を大切にして欲しいと言っていました。今の蓬さんはもう一人じゃないですから。それに蓬さんは神名を忘れてなんかいません」
「どういうことだ?」
「これも私の想像になりますが……。セイさんのことを後悔して嘆いて、自分のことを憎む内に、自然と自分に関する記憶を封じてしまったんです。忘れたのではなく、思い出すのも辛い記憶として。私たち人間も思い出すのが辛い記憶や悲しい過去は封印します。そうしないと生きていけないから……」

 別れ、失敗、後悔、呼び方は色々ある。莉亜にとっては大好きな祖父との永訣がそうだった。
 始まりがあれば終わりがある。そう頭では理解していても、心が納得できるとは限らない。そのため明日も生きられるように、辛く悲しい思い出には蓋をする。本人の意思とは関係なく。
 いつか受け止められる日が来る、その日まで――。

「その中に蓬さんが隠そうとした神名についての記憶もあったんじゃないですか。そのきっかけを作ったのはセイさん。だからこそ記憶を封じてしまった」
「セイが神名を……」
「もしかしてセイさんは見つけていたんじゃないですか。そして蓬さんの神名について、何か話をしたんじゃないですか?」