ワンナイトなんて、相手に都合良く扱われた結果の悲劇でしかないのに。
 どうして、彼女はそれを美談みたいに語れるんだろう?

 深夜のファミレスに呼びだされた俺は、向かいのソファ席に座る幼馴染の瑠依(るい)の姿を眺めながら、そんなことを考えていた。

 「初対面はいい人そうだったんだけどなあ」
 「マッチングアプリなんてヤリモクの巣窟だろ」
 「そうやってなんでも決めつけるところ、未波(みなみ)の良くない癖だよ」
 「現にお前、悪い男に騙されてばっかりじゃねえか」

 さっきから、こんな不毛なやりとりばかりを繰り返している。

 瑠衣の頼んだデザートのバニラアイスクリームが配膳ロボによって運ばれてきた。
 そっと皿を持ちあげて、彼女の前に置く。

 「ありがと」

 瑠依はしばらくアイスの存在を確かめるみたいに凝視して、いきなり思いついたように席を立った。

 遠目に様子を窺ってみる。向かう先はドリンクバーで、三度目のメロンソーダを汲んでいるらしい。

 戻ってきて席に着くなり、彼女はバニラアイスをスプーンで器用にスライドさせて、持ってきたグラスの中にぽちゃんと落とした。

 泡が弾ける緑の液体に半分沈んだそれは、あまり見栄えが良いとはいえない。

 「あとはサクランボがあればな」

 瑠依が呑気な調子で言う。

 俺は彼女のそういうところが苦手だ。
 何だかやることなすこと全部が適当で、人生を無為に過ごしている雰囲気。

 行き当たりばったりは悪いことじゃないのかもしれないけれど。でも、自ら不幸を求めにいくような瑠依の姿は見ていて悲しい。

 「まあいっかー」

 瑠依は目の前の沈殿するアイスを憂鬱そうに眺めてから、ストローでぐちゃっとかき混ぜた。
 すごく不味そうに見えるそれを彼女は一口飲んで、ため息を吐いた。

 「なんで俺なの?」

 俺はたまらなくなって、思わずそう聞いた。
 どうして彼女は、いつも男に捨てられた夜に俺を呼ぶのか、という意味だった。

 瑠依にはそれが伝わらなかったようで、きょとんと首を傾げている。

 「俺じゃなくたって、瑠依なら他にもたくさんいるんだろ? 違うやつに慰めてもらえよ」

 自分で言ってて傷ついた。
 ちゃんと言葉にすると、現実を突きつけられるような感覚があって胸が痛んだ。

 二年前に戻りたい、と強く思う。

 あの頃の彼女はまだ、綺麗だった。あるいは、清純だった。こんなこと言ってると、「処女厨かよ」とか思われそうだけれど、それでも汚れてほしくはなかった。

 別々の大学に進学して早々、瑠依が「彼氏できた!」と顔を綻ばせながら報告してきた時のことを回想する。
 今思えば、あそこからもう道を踏み外していたんだろう。

 「だって未波、童貞じゃん?」

 予想外の返答に面食らった。
 瑠依は悪びれもせずに、ニタニタと笑う。

 「はあ? お前、誰のせいだと思って」

 続く言葉は声にならなかった。こんなの告白してるも同然だったからだ。

 不意に、今年卒業した先輩の声が脳内再生された。

 ――お前もさ、今のうち遊んどけよ。三年に上がると、就活とかゼミとか色々忙しくなって時間なくなるからな。

 うるせえんだよ、と思う。
 そいつは女性関係で悪名高かった先輩だったのだ。

 きっとあいつだって、十年後とかには「あの頃は若気の至りで」とか言って、散々他人を傷つけてきた過去を美談にして語るんだろうな。

 そんな想像が膨らんで、無性に苛ついて、俺は「あー!」と奇声を上げた。
 静まり返った店内に場違いな呻きが響き渡る。俺は反響する自身の声で、瞬時に冷静さを取り戻した。

 「ちょっと、なに、ごめんって。そんな童貞なこと気にしてたの?」

 瑠依が至って真剣な顔つきで(とぼ)けてくる。

 「ちげーよ!」

 またもや大声を上げてしまった。
 我ながら情けない。

 窓際の席にいるサラリーマンふうの男性が、こちらを怪訝そうに見ているのに気がついて、「すみません」という意思表示のつもりで頭を下げる。

 「俺にしとけば?」

 半ばヤケになって、俺は口を開いた。
 言ってから、その気どった台詞に恥ずかしくなった。

 向かいの瑠依は何も答えない。
 ストローで液面に弧を描くのをやめて、じっと動かずにいる。何か思索しているようでもある。

 俺はさっそく、勢いで放った言葉を後悔していた。
 今まで大事に築きあげてきた彼女との十五年間ばかりの月日が崩れていくのを知覚した。

 「いや、俺なら不用意にお前を傷つけることもないだろうし、なんだかんだ話も合うだろうし。先輩にも言われてたんだよ。そろそろ彼女の一人でもつくったらどうなんだってさ」

 焦燥に駆られて、最低な言い訳を並べる。
 早口で必死な感じが笑えるよな、と他人事みたいに思う。

 マジだと思われたくなかったのだ。ずっと昔から秘めてきた重たい感情に気がつかれたくなかったのだ。

 たちまち襲ってきた自己嫌悪に耐えられず、俺はテーブルに両肘をついた格好で顔面を覆う。

 頬に、冷えた感触があった。
 俺はおそるおそる覆っていた手をどけて、視界を開いた。

 すぐ目の前に瑠依の顔があった。どうしようもなく恋焦がれてきた顔があった。
 彼女はテーブル越しに身を乗りだして、俺の頬に両手を添えていた。

 「それって本気にしていいの?」
 「うん」
 「未波が童貞卒業したい口実じゃなくて?」
 「そんなんじゃねえよ。マジお前の貞操観念って終わってるよな」

 俺の恋心を邪な理由に結びつけられたことが悲しくて、つい嫌味ったらしい言葉が零れでる。

 けれど、そんなことよりも、彼女がこれまでの恋愛経験から、そうやって少しずつ自己肯定感を貶められてきたのだろうことの方がずっと悲しい。

 瑠依は添えていた手をぱっと離して、ソファ席に座り直し、背もたれに寄りかかってリラックスする姿勢をとった。

 そうして、天井の一点を見つめ続ける。虚ろげな表情で、魂を抜かれたような風情で。

 やがて、彼女の目から一筋の涙が伝った。

 「もう、遅いんだよ」

 掠れた声だった。この世の悲しみを凝縮させたら、こんな声音になるのだろうと思った。

 「遅いってなにが?」

 俺はできる限り気持ちを落ち着けて、冷静にそう尋ねる。

 「だって、私の身体、汚れてるじゃん」

 ああ、そうか。
 彼女は自身の性体験を、美談にせざるを得なかったんだ。そうしなければ、自分の不純さが嫌でも目につくから。

 「いいって。余計なこと言うな。俺、そういうの気にしねえし」

 精一杯の慰めのつもりだった。
 全く気にしないかと問われれば首を振るしかないのだけれど、気にしない努力をする覚悟くらいはあった。

 「そういうのってなに? 私が気にするんだよ!」
 「じゃあなんだよ。俺は振られたってわけ?」

 惨めで、悲しくて、苦しかった。

 どうして俺たちはすれ違ってしまったんだろう?
 いつからこんなに、互いの距離が遠くなってしまったんだろう?

 「本当に気にしないっていうなら、証明してみせてよ」

 瑠依が俺を睨みながら、そんな挑発をしてくる。
 何と答えていいのか分からなかった。
 この答え方次第で、俺たちの関係性はまるっきり変わってしまうだろう。

 その時、タイミングが良いのか悪いのか、深夜営業の終了を知らせる店内アナウンスが流れだして、返事は一旦保留となった。
 

 *


 もうすぐ夜明けだ。
 東の空が白みはじめて、朝の訪れを予兆する。

 俺たちは複雑に込み入った路地を延々と歩いていた。煙草の吸い殻や空き缶がそこかしこに落ちていて、どこからか異臭が漂うし、時折丸々と太ったドブネズミが横切っていく。

 同じ道を何度も過ぎて、それでも狂ったように足を動かし続けた。

 こちらを振り向きもせずに、ひたすらに前を歩いていた瑠依が、突然路上の真ん中で屈んだ。
 どうやら靴擦れを起こしたようだ。

 衣服が汚れるのもいとわず、彼女は路面に直で座り込んでから片方のメリージェーンを脱いで、思いきりそれを宙に放り投げた。

 遅れて、コトンと軽い音が鳴る。

 「なにしてんだよ」

 タガが外れたのかと不安になって、俺も瑠依に近寄って隣にしゃがむ。

 左足のくるぶしが擦れて、皮膚が剥けているようだった。街灯の灯りに照らされたその傷痕は、赤黒くて、じゅくじゅくしていて、生々しい。

 「コンビニ寄ってバンドエイド買ってくるよ」

 立ち去ろうとした俺に、「待って」と彼女が手首を掴んでくる。
 いとも簡単に振り払えそうな、その脆弱な手を、無視できるはずがなかった。

 「なにか言いたいことあるんなら言えよ」

 俺は諦念を滲ませながら言った。

 夜更けの街を徘徊する間、瑠依はずっと何かを打ち明けようとして悩んでいたんじゃないのかという気がしたからだ。

 しばしの沈黙があった。

 「写真、撮られたかも」

 ぽつり、と彼女が漏らす。

 「はあ?」
 「だから、さっきファミレスでは言えなかったんだけど、今日会った人に写真撮られたみたい。いきなりスマホを向けられて怖かったの」

 怒りを超えて、呆れてものが言えなかった。

 極度の恋愛体質である瑠依は、彼氏が頻繁に変わって、振られる度に傷心していた。たった一日で捨てられることも多かった。

 全部、彼女が簡単に身体を許してしまうからいけないのだ。それが相手から愛される方法だと、馬鹿みたいに思い違いをしているからいけないのだ。

 「今頃仲間内で回されてるのかな。それか、SNSで拡散されてデジタルタトゥー刻んで、一生恥を晒され続けるのかもね?」

 瑠依が自嘲的に笑う。
 悲しげな高笑いが辺りに木霊して、夜空に吸い込まれていく。

 「さっきの言葉、撤回させてくれ。ちゃんと気にするよ。瑠依の寂しさも苦しさも、全部ちゃんと気に留めるから」

 気にしないなんて、言うべきじゃなかった。
 もっと早く、現実をしっかりと直視して、彼女と向きあっていれば良かった。

 「寂しさ、苦しさ? 違うでしょ。私が抱えてるのはもっと卑劣で薄汚くて、身勝手な感情なんだよ」

 悲痛な叫びだった。
 それで俺は泣きたくなった。

 瑠依が震える人差し指で、通りの向こうを指し示した。視線を移すと、そこにはネオンで装飾された『HOTEL』の文字が妖しく光っていた。

 「行こうよ。未波、私のこと好きなんでしょ?」
 「でも、お前は俺のこと好きじゃないよ」
 「それが問題?」

 否定してもらえると思っていたわけじゃないけれど、胸に針が突き刺さるような痛みを覚えた。

 俺は路上に放置されていたメリージェーンを拾いあげて、瑠依の足もとに置いた。
 彼女が億劫そうに左足を差し入れるのを見計らって、細いストラップを留めてやる。

 「馬鹿なこと言ってないで、もう帰ろうぜ」
 「でも歩けないよ?」

 瑠依が真顔で、靴擦れの傷痕を指す。

 嘘だな、と分かった。
 普段なら無視して一人で帰るところだけれど、俺は渋々彼女を背にするかたちで屈む。

 「いいの?」
 「うん」

 瑠依の体重が背中に乗る。
 柔らかな体の感触に、胸が辛くなった。
 金木犀の甘ったるい香水の匂いがした。

 俺は太ももの辺りを注意深く抱えて立ちあがる。そのまま彼女の自宅に向かって歩きだす。

 途中、何の冗談のつもりなのか、瑠衣が「死ねえ」と喚きながら俺の首を絞めだした。手加減なしで、本当に死を予感するくらいの力強さで。

 この華奢な体のどこに、そんな力を隠しもっていたのか不思議だった。

 俺はされるがままに首を圧迫されて呻く。それを聞いて、彼女が可笑しそうに笑う。

 「どうせ起きれねえだろうし、今日は自主休講決めて、一緒に映画でも観ようよ」
 「ありがとう」
 「いいよ、全然」
 「違うよ」
 「ん?」

 瑠衣が俺の肩にかける手をぐっと強めた。

 「いつも私のそばにいてくれて、ありがとう」
 「あー、うん」

 首筋に、生温い水滴が伝った。それは二滴、三滴と続いて、耳もとから嗚咽が聞こえはじめた。

 たくさん泣いて、たくさん眠って。
 その後に待ち受けてる世界が、少しでも優しくなってるといいよな、と俺は思った。