最初の実験の一週間後、この日は乾燥した土の重さを測るだけで作業は終わり、事前にデータの整理も終わっていたか一時間もせずに実験が終わった。

「あの、湊さん。これ」

 荷物をまとめて帰ろうとする湊に、直前にコンビニで買ってきたチョコレートを差し出すと、不思議そうな顔が返ってきた。

「先週、データ整理してもらったから、そのお礼」

 先週の実験後、夕方には綺麗に整理されたデータが湊から送られてきた。おかげで今日も早めに実験を終えることができたわけだけど、さすがにやってもらったままというのは気が引けた。チョコ一箱で釣り合っているかというと、まだ足りない気もするけれど。
 湊は不思議そうな顔をポカンとした表情に変えて、それから目をつぶるようにしてくしゃりと笑った。

「舟木君、義理堅いんだね。九州の人だったり?」
「残念、今治」
「今治! 造船の街!」

 それまでどちらかといえば重たげな印象だった湊がグイっと身を乗り出してくる。クリッとした瞳が目の前にあって、思わず仰け反ってしまう。そんな自分の状態に気づいたのか、湊は照れたように俯いて一歩距離をとる。
 先週は事務的な表情しか見なかったから、そうやって顔をコロコロと変化させていくのはなんだか意外だった。

「ご、ごめん。急に」
「いいけど、船、好きなの?」

 出身地を話したとき、「タオルの街ね」とか「しまなみ海道行ったことある!」とか言われることはよくあったけど、造船の街と評されることは初めてだった。造船の歴史も古いのだけど、知る人ぞ知るようなところがある。

「うん。好き」

 そう答えた湊の特徴的な瞳は熱っぽくて、船の話をしているだけなのにドキリとしてしまう。

「私ね、高校まで長崎で暮らしてきて。毎日、港に出入りする船を見てきて、どこから来たのかなとか、どこに行くのかなってワクワクしてた。今でもね、そんな景色がすごい懐かしくなる」
「ふうん。湊にとっての原風景なんだ」
「難しい言葉使うね。でも、そうだね、そんな感じ」

 湊は頬のところに人差し指を当てるとどこか遠くを眺める。もしかしたら、その視線の先に地元の海のことを思い出しているのかもしれない。

「港町って私にとってはすごいワクワクする場所で。だから、私も港を作りたいって思ってこの学科を選んだの」

 港をつくる。俺が知ってる港といえば地元の今治と、大学に入ってから一人でぷらりと遊びに行った神戸の港だった。それが湊の語る長崎の港町とイメージが合うかはわからなかったけど、神戸のどこか異国情緒を纏う街並みは非日常な感じで確かにワクワクした。

「舟木君は? どうしてこの学科を選んだの?」

 首をかしげる湊に対し、ぱっと言葉が出てこなかった。進路を選ぶときにそれなりに色々と考えていたつもりだったけど、湊の熱意の前だとどれも適当な感じがしてしまう。

「地球環境工学科って名前に惹かれて。なんか環境って大事だよなって、それくらいで選んだんだけど」

 結局、変に格好つけても仕方ない気がして正直に話した。
 別に環境にそれほどの入れ込みがあったわけではないけど、機械工学とか情報工学に比べればピンときたとか、その程度。

「じゃあ、環境系の分野に進むの?」

 一年生の終わりに学科の中でも建設や造船、環境、資源などの五分野から専門を選ぶことになる。四年生で研究室配属されるときは当然専門分野の中の研究室から選ぶことになるし、その後の就職にも関わってくる軽くはない選択だ

「うーん。それは、悩み中。本気で環境系に進みたいって連中見てると、その中に俺が混ざっていいのかなって」

 俺みたいななんとなくではなく、真剣に環境系の研究や仕事を選びたくて今の学科に進んだ同級生を見ていると、その中に混ざってやっていける自信はなかった。
 だからといって他に関心がある分野があるわけでもない。漠然とした未来をつかみ損ねていた――というか、将来の自分の姿を思い描くことがまるでできなかった。

「まあ、うちの学科って地球環境とか言いながら、環境以外も建設とか造船までなんでもござれって感じだし、ゆっくり悩めばいいんじゃないかな?」
「ゆっくりって、あと四か月しかないけど」
「四か月も、あるんだよ」
「いいよな。自分の希望がもう決まってるやつは」

 拗ねたように言ってみせると、湊は口元に手を当ててクスッと笑う。
 湊がこんな風に笑うって、他の人は知ってるんだろうか。無意識にそんなことを考えて、頭を振る。ちょっと話し込んだくらいで何考えてんだよ。

「ね、舟木君。来週からの実験も一緒にやろうよ」

 無自覚なんだろうけど、変な考えを頭から追い払おうとしている俺に追い打ちをかけてくる。

「俺でいいの?」
「うん。舟木君、静かな人かなって思ってたけど、話してみたら面白いし」

 そう言って微笑む湊の顔を、しばらく忘れることができなかった。