「寂しかった?」
「そりゃそうじゃん」
「ごめんね」

 彼は夜風の様に柔らかくそう言って、私の頭を撫でる。また久しぶりのその手。彼が私を撫でる時は、落ち着きたい時。言わないだけで分かっている。貴方の癖。
 
 だから思うの。寂しげで、虚ろで、儚い、彼の謝罪が嫌だ。また消えてしまいそうで、嫌だった。謝らせてしまった事も、彼の心が波立っていることも。全部。今の言葉の全部が嫌だった。

 こんな声も、こんな言葉も聞きたくなかった。怖い。私だけ置いていかれてしまいそうで、怖い。分かっているのに。時が来れば取り残される事も、戻らない事も全部分かっているのに、情けないな。それも怖くて。それも情けない。
 何百回目かの落胆がそこにはあった。

「謝んないでよ」
「僕が悪いのは変わらないでしょ」

 こんな夜は嫌い。彼の右手から逃れて、その上の瞳と、私の瞳を合わせる。

「変わる。みづきは悪くないもん」
「でも」
「うるさい。私がそう言うならそうなの。紛いなりにも私、みづきの恋人なんだよ。彼女の言う事だしさ、何も考えずに全肯定したって良いじゃん」
「分かった。……そうかもね」

 彼が何も納得していないのはすぐに分かった。しかし、彼の諦めた様な笑顔は、少し明るく見えた。それで良い。ちょっと違う顔が見えるだけで良い。

 そもそも私の方が悪いから。自分の思考を言語化できないし、理由があるのかも分からないけど、でも、私が悪いのは分かる。盲目的かもしれないけれど、私のが有罪。

「明日、何する?」

 それを言ったら平行線の話が続くだけだから、思い切って話題を変えてみる。彼の表情を見ないまま、私は桜に向き直った。驚いた様に小さく息を吸う音だけが聞こえる。その後すぐに、衣擦れの音と手すりが軋む音が耳に届いた。

「何しようね。……朝はやっぱ、二人で散歩でもする? ていうか悠は最近してるの?」
「んー、してない」
「だと思った。健康的な生活を心掛けて下さいね」

 日課だったそれは、三年前にルーティーンから外された。無論、一回もしなかった訳では無い。ただ、一人は寂しかった。私はいつまで経っても自立しない。

 早朝の薄靄(うすもや)の中、澄んだ空気を吸いながら散歩をする。そんな光景を想像したら、辺りの空気が美味しく、少し寒く感じた。どうやら脳は単純らしい。

 私は適当に返事してから、『彼の恋人』という役を演じてみる。
 
「はいはい。……ねぇ、朝ご飯はみづきが作ってよ。最近菓子パンばっかだから、そろそろ飽きちゃったな。あたし、君のお味噌汁が飲みたいなぁ」
「分かりましたよ。精一杯作らせていただきますね。ちなみに洗い物ぐらいはしてくれても良いんだよ?」
「もちろんそのぐらいするよ。心配しないで」
「どうだか」

 彼はそう小さくボヤいた。私また呆れられてる。そんな生活力が無いと思われてるのか。二十六にもなって疑われるのは心外だ。まぁ、そんなちょっぴり過保護な性格も愛しいのに変わりは無い。

「仕事終わったらさ、飲みに行こうよ」
「私はみづきのご飯が食べたいです」
「なんで?」
「なんでも。誕生日だし。甘やかして欲しいなぁ」

 上目遣いで『愛くるしい子』を演じてみせる。無理をして語尾を上げてみるが、自分の滑稽な姿に笑いが漏れる。そんな性格とは無縁な私だから、この分野に置いて三文役者である事は誰の目から見ても明らかだった。

「二十六にもなって駄々こねないで」
「二十六になったら甘えたくなるの」
「それは無いでしょ」
「二十三に言われたくないし」

 その言葉は、誰に拾われる事もなく、三階から地表まで落ちていった。口を尖らせて言ったその言葉が、自分で言った筈なのにどうにも虚しく心に残る。

「心は二十六だよ」
「見た目は二十三。頭脳も二十三。みづきは何も変わってないじゃん」
「嫌味だよね?」
「違うよ。嘆きだよ」

 そう、嘆き。時間が経ったらすぐに変わっていく私と、時間が経っても何も変わらない彼。その違いに私は嘆いている。

「一応僕の方が一ヶ月先輩だけどね」
「そんなのただの数字に過ぎないじゃん。変わらん変わらん」
「じゃあ年齢も数字だから誤差だね」

 私がなんと言おうと歯が立たないくらい、完璧に論破されてしまった。私よりも彼の方が一枚上手なのも、変わらない。下唇を噛みながら、負けを噛み締めた。

「まぁ、夜ご飯はさ、また明日考えよ」
「はーい。また明日、ね」
「うん。明日」

 確認し合う様に言葉を紡いだ。神様に頼み込む様に言葉に重みを持たせた。それが来ないと言う事を知りながら。必死に言葉を重ねた。だから、私たちが言う明日が今日な事は、誰も気づかなかった。
 
 絶対に無い二人での明日を考えるドラマ。わざとらしく進むシナリオの無い演劇は、こんなセリフで終演を迎える。

「また明日、僕が生きてたら何歳になるんだろうね」

 なんか、どうしようもなく悲しいな。自分でも言っていた筈なのに、どうしてだろうか、ただ単純に、そのセリフが悲しかった。三年の空白が、埋める事の出来ない喪失感が、身体を蝕んでいく。何かが溜まった筈の胸郭から、また何かが抜け落ちていく。

 桜の枝が風に吹かれて揺れている。一片(ひとひら)の花が枝から手を離した。彼女ははらはらと舞い踊りながら、短い旅をする。春の夜は、幻の様に美しかった。

「分かんない。もう分かんないよ」

 この感情も、足りない何かも、今までも、これからも、私の事も、彼の事も、彼がもう居ないと言う事も。何も分かんない。全部全部分かんないよ。
 心の中で、何かが決壊したようで、私は目を腫らしながら彼の方へ向き直った。

「なんで先に行っちゃうの。なんで置いてったの。私、どうすれば良かった? これからどうやって生きれば良いのよ? みづきの居ない世界に色なんて無いんだよ。音も光も。心も! 全部ぜんぶ! なんも無いの!」

 自分が何を言っているのかも、どんな顔をしているのかも分からない。彼がどんな顔をしているのかも、視界が歪んで分からない。何も聞こえない。耳が詰まっている様で、キーンと高い音が鳴っている様で。一番聞きたい彼の声が聞こえない。

 三年間、心はずっと泣いていた。濁った景色を見ていた。三回の春は、全部同じ様に見えていた。世界にはノイズが掛かっていたし、希望は無かったし、見えなかった。心だけがすっぽりと抜け落ちていた。
 そんな私がずっと秘めていた言葉は。

「……私、みづきが居ないと壊れちゃうよ」

 驚く程に弱々しい声がした。それが自分の声だと気付くのには、時間が掛かった。首の座らない人形の様に、項垂れる。冷たいような暖かいような、そんな曖昧な空気に私は包まれている。

 二人の間を抜けていくのは、微かな夜風。知らぬ間に頬を伝っていた雨。どうやっても抑えきれなかったは、涙の防波堤。あ、雨じゃなかった。私いま、泣いているらしい。 

「ごめんね。ごめん。ごめん、悠」

 涙声で呼ばれる私の名前に、棘がまた増える。静まり返った夜に、彼の不規則な呼吸が響いた。それに私の泣き声が重なる。私達は哀しい哀しいノクターンを奏でている。