青白い月光。乳白色の街灯。スポットライトの下の桜花。
🌕
時計の針が上を向いた。たった今、明日が過ぎ去った。月明かりと街灯の光だけが差し込む、極端に薄暗い部屋の真ん中。暗順応した目には、無機質で、白く丸い時計が中央に映っている。
また惰性で、映画の様な現実を見ていた。
眠くは無いし眠れない。何も考えてはいなくて、考える事が出来ない。そんな私はきっと、蝋人形と同じだ。ずっと同じ姿勢で、何時間もそこに居る。ずっと虚無を眺めている。
微睡んでいるのかもしれない。それすらも分からない。リアルな夢を見ている様な、色褪せた絵画の中に入ってしまった様な。そんな気分だ。
開け放たれた窓から、暖かな微風が侵入してくる。それに吹かれて、レースカーテンがふっくらと膨らむ。その光景は例えるに、いつか憧れた純白のドレスの様で、チクリと胸の奥が痛んだ。
霧掛かった脳に一つだけ鮮烈な憧れが浮かぶ。
重厚な装飾で満たされるチャペルで、真っ白な私の心を染め上げる貴方。眩しいとさえ思える様な白に包まれながら、頬を赤らめる。そして未来に思いを馳せる。
そんな幸せな憧れ。
それが訪れる事の無い幸せだとしても、憧れてしまうのは無いものねだりなのだろうか。いや、そうに違いない。私にそんな美しい世界が訪れる事は無い。だって私は一途だから。
春の甘い空気が胸を通り過ぎていく。胸郭が空っぽになっている様な、そんな感覚がずっとしている。風穴が空いている。ささやかな風が吹き抜けていく。生きている心地がしないのは、いつもの事だ。
「二十六か」
虚ろに、そして蔑む様に吐息の中に含ませた数字は、部屋の中に溶けていった。どうやら日付感覚は残っていた様で、今日が三月の二十六日である事も、二分前にまた一つ、歳を重ねた事も、容易に分かった。
気付いたらもう二十六年も生きている。三年前までは濃密に感じられた一年が、いつの間にか一瞬で過ぎていく様になった。そんな寂しいひとりぼっちの誕生日は、これで三回目。
「もう二十六か」
意味も無く、先程と同じように声を出した。少しだけ語尾が掠れたのは、何かを堪えたからだと思う。
また一人だけ歳をとった。私の生きた年数は、独り歩きで昨日と今日の境界線を越える。三年も彼を置きざりにしたまま。
私、一人のまま老いていく。
何となく思い立ち、溜息一つ、重い腰を持ち上げる。軽く伸びをしてから、床に放置された大ぶりなヘアクリップを拾った。肩甲骨の辺りまで伸びた後ろ髪を、透明なそれを用いて雑に纏める。また何となく部屋の中を見回し、その惨状にまた溜息を吐いた。
首を動かす度に下に垂れた毛束がうなじを擽り、それが煩わしくて髪を解く。癖を直す様に軽く頭を振り、今度は先程よりもちょっとだけ丁寧に髪を上げた。首筋を掠めて行く夜風が心地好くて、頭に掛かった霧が多少晴れた。
ベランダの方を見て細く息を吐く。カーテンの隙間から見える夜桜が何とも艶やかで、また少し憧れた。
それを見てから考える。自分への誕生日プレザントはアルコールかニコチンか。最後まで迷いつつも、私は冷蔵庫へ向かった。今日は欲張りに行こう。二十六歳の私に乾杯を。
静寂の中には、服が擦れる音と足音だけが響いた。写真やマグネットが大量に貼られた冷蔵庫を開けようとする。その行為にいつもより力がいった気がした。
扉が開いてオレンジ色の光が漏れる。それに軽く目を細めた瞬間、案の定足元でガサガサカツンと軽い音と硬い音が聞こえた。深夜、ましてや壁の薄いアパートだと言うのに、かなり耳につく音を立ててしなった。
「懐かしいな」
その場に屈みこんで三枚の写真を順に見ていく。無意識に呟いた声は、悲嘆に塗れていた。写真の中の私は、今では考えられない程幸せそうな顔をしていたから。
水族館、クラゲの水槽に燥ぐ彼。少年の様な姿が好きだった。テーマパーク、お城の前、彼と私。ロマンチックな展開を期待していた。この空間、ベランダでコーヒーを飲む彼。一番好きな貴方の姿と顔。
メリーゴーラウンドの様に、過去の思い出が脳内でループする。一生止まらない白馬の上に、王子様は居なかった。
ああ、三年間彼に取り残された『行ってきます』は、いつ回収されるのだろうか。一生置き去りにされたそれは、胸を切り裂くのに容易かった。
「あ」
扉を開けっ放しにしていた様で、冷蔵庫に軽く怒られる。下唇を噛み意を決して立ち上がる。扉を閉めてから、写真とマグネットを元の位置に戻した。
たった一面、私の惚気。たった一面だけでも、溢れんばかりの記憶の欠片に飲まれそうだ。温かくて冷たい部屋に身を置いている様な感覚になった。
もう一度冷蔵庫を開けて中を見渡す。調味料と卵。作り置きのポテトサラダ。目立った物と言えばそれだけ。
「これしか無いか」
ぼやけた視界には、到底祝杯と呼ばれる様な酒は見えなかった。しかし、一缶だけ『ちと酔う』があった為、それを手に取った。明日も仕事だからこれぐらいにしておこうか。
「おめでとう私」
冷蔵庫の中に手と酒を残したまま、そう呟く。そして、ケーキの蝋燭を消すのと同じ気持ちで、タブを上げた。カシュッと小気味良い音が聞こえ、まだ何もしていないのに、少しだけ胸が満たされた。
右手で冷蔵庫を締めながら一口目を口にする。喉を流れていく冷たい液体に誘われて、頭が冴えていく。そうしてまた実感するのは、ひとりぼっちの夜は、寂しい。という事だった。
この二十六年。数え切れない程のひとりぼっちの夜を過ごしてきたが、ここ三年はずっと虚しくて寂しい。そして何故か今日は一段と寂しさを実感した。
桃の味が舌に絡んでいる。全然酔えないアルコールを部屋を歩きながら飲んだ。どうやら喉は乾いていた様で、早いペースで缶が軽くなって行く。これだけしか無いから大切に飲もうと思っていたのに。
ローテーブルに乱雑に置かれた煙草とライターを空いている手で持つ。そのまま真っ直ぐにベランダへと向かった。カーテン越しに外を見て、夜がいつもより少し明るい事に気がついた。
「綺麗……」
部屋と外を仕切る白い膜を不器用に捲りながら、そう零した。
濃紺の天井から伸びる青白い月光。薄桃色に包まれた乳白色の街灯。そんなスポットライトの下の桜花。ドラマにするにはピッタリなその光景は、私たちが一番好きだったものだ。
アルミサッシの向こう側にある二足のサンダル。犬のキャラクターが描かれたお揃いのサンダル。仲良く並んだそれの、小さい方に足を通した。
室外機の上の灰皿の横、煙草とライターを置いて、声帯を揺らしながら伸びをした。物をねだる子供の様な声だな。と我ながら思ってしまった。
目を擦りながら不意に灰皿を見てみると、もういつのものかも分からない吸殻がかなりあった。いつか掃除しなきゃな。そのいつかは当分来ない事を知りながら、そう思った。
手すりに肘を掛けて、そこに体重を預け、桜を眺めながらアルコールを摂取していく。一口ごとに溜息を吐きながら。
「いらない」
何も考えず、吐息と共に飛び出た言葉は、花弁の様にはらはらと散った。それは多分、きっと、その言葉が嘘だから。でも真実になってほしい。
ドラマなんていらない。
一人このままで良い。ドラマの様な展開なんて望んでいない。必要ない。そう言葉を積み重ねる事で自分を騙そうとしている。普段なら上手く行くはずのそれだが、今日は調子が悪い様だ。
風のよく当たる右側を気にしてしまう。
返しの付いた棘が、皮膚の深くに刺さっている。もがけばもがく程傷が深くなって、時間が経てば経つほど膿んで行く。それが全身に刺さっている私は、壊れそうになる程の痛みと暮らしている。
今日はいつにも増して溜息が多いな。そう思いながら、早々に空になった缶を眺めた。それを緩慢な動きで室外機の上に置き、ふぅと息を吐きながら煙草とライターを手に取った。
室外機の前で屈んだまま、煙草を取り出して口に咥える。親指に力を入れるのと同時に鳴った、カチリと言う軽い音を合図に、ほうっと火が生まれた。煙草の先端にそれを翳し火を付けた。
久々の様に感じる一服だ。肺まで流していた煙を吐き出す。その間、メンソールが鼻の奥をツンと刺していた。お陰様で、ぼやけた脳内の瞬く間に一掃された。
その場で数口吸ってから灰を落として、また緩慢な動きで元の場所に戻った。隣には貴方が居る。筈だった。隣からは芳醇な香りが漂っている。筈だった。ひとりぼっちの夜は裏切られているばっかりだ。
「何だかなぁ」
曖昧な言葉が口をついた。彼が居なくなってから独り言の回数が増えた気がする。無論それは、その言葉を拾う人はいなければ、話し相手もいないからだろうけど。誰かが居るから成り立つ言葉は、その誰かが居ないから独り歩きするのだ。
また思い溜息を吐く。今日が始まってまだ一時間も経っていないのに、溜息の数だけは片手で数え切れなくなっていた。鮮明になった脳味噌で考える。私は今生きているのか。……結論は出なかった。
私、心と一緒に頭も弱くなったみたい。自分の不甲斐なさにまた溜息を重ね、煙草を咥える。別に美味しくは無い煙を楽しんだ。
それから吐き出した煙の行先を追っていく。あの煙は、彼の居る所まで届くのだろうか。届くのならば、私も煙になりたい。
その時、不思議な風が吹いた。桜の様に可憐で、月の様に淑やかな風が頬を舐む。柔らかな夜風。それが私を包む。
その時、懐かしい香りが鼻についた。芳醇なコーヒーの香りが鼻腔を満たした。ハッとして風の来た道を見る。こちら側に膨れ上がったレースカーテンの向こう側。一つの人影。慌てた私は煙草の火を消す。
直感で理解した。そこに貴方が居る。
ヴェールが上げられる。これ、夢だ。瞬時にそう理解した。だって、月明かりがこんな明るい訳が無い。だって、桜がこんな彩度を持っている綺麗な訳が無い。
私きっと、きっと夢を見ているんだ。
「夢じゃないよ」
思考が読まれていたんだとと錯覚するほど、彼はタイミングよくそう言った。その後に軽く鼻を触る。夢じゃないと信じたい。それは嘘の合図だけれど。
耳障りの良い声に、思考が止まる。
私の右隣。優しい彼はそこに居る。
ずっと待っていた。私の恋人。
「ただいま」
はにかむ様に、屈託の無い笑顔でそう言う彼が眩しかった。その表情が懐かしくて、胸がいっぱいに満たされた。三年間待ち焦がれていた言葉に返すのは、やっぱりこれ。
「おかえり。みづき。待ってたよ」
🌕
時計の針が上を向いた。たった今、明日が過ぎ去った。月明かりと街灯の光だけが差し込む、極端に薄暗い部屋の真ん中。暗順応した目には、無機質で、白く丸い時計が中央に映っている。
また惰性で、映画の様な現実を見ていた。
眠くは無いし眠れない。何も考えてはいなくて、考える事が出来ない。そんな私はきっと、蝋人形と同じだ。ずっと同じ姿勢で、何時間もそこに居る。ずっと虚無を眺めている。
微睡んでいるのかもしれない。それすらも分からない。リアルな夢を見ている様な、色褪せた絵画の中に入ってしまった様な。そんな気分だ。
開け放たれた窓から、暖かな微風が侵入してくる。それに吹かれて、レースカーテンがふっくらと膨らむ。その光景は例えるに、いつか憧れた純白のドレスの様で、チクリと胸の奥が痛んだ。
霧掛かった脳に一つだけ鮮烈な憧れが浮かぶ。
重厚な装飾で満たされるチャペルで、真っ白な私の心を染め上げる貴方。眩しいとさえ思える様な白に包まれながら、頬を赤らめる。そして未来に思いを馳せる。
そんな幸せな憧れ。
それが訪れる事の無い幸せだとしても、憧れてしまうのは無いものねだりなのだろうか。いや、そうに違いない。私にそんな美しい世界が訪れる事は無い。だって私は一途だから。
春の甘い空気が胸を通り過ぎていく。胸郭が空っぽになっている様な、そんな感覚がずっとしている。風穴が空いている。ささやかな風が吹き抜けていく。生きている心地がしないのは、いつもの事だ。
「二十六か」
虚ろに、そして蔑む様に吐息の中に含ませた数字は、部屋の中に溶けていった。どうやら日付感覚は残っていた様で、今日が三月の二十六日である事も、二分前にまた一つ、歳を重ねた事も、容易に分かった。
気付いたらもう二十六年も生きている。三年前までは濃密に感じられた一年が、いつの間にか一瞬で過ぎていく様になった。そんな寂しいひとりぼっちの誕生日は、これで三回目。
「もう二十六か」
意味も無く、先程と同じように声を出した。少しだけ語尾が掠れたのは、何かを堪えたからだと思う。
また一人だけ歳をとった。私の生きた年数は、独り歩きで昨日と今日の境界線を越える。三年も彼を置きざりにしたまま。
私、一人のまま老いていく。
何となく思い立ち、溜息一つ、重い腰を持ち上げる。軽く伸びをしてから、床に放置された大ぶりなヘアクリップを拾った。肩甲骨の辺りまで伸びた後ろ髪を、透明なそれを用いて雑に纏める。また何となく部屋の中を見回し、その惨状にまた溜息を吐いた。
首を動かす度に下に垂れた毛束がうなじを擽り、それが煩わしくて髪を解く。癖を直す様に軽く頭を振り、今度は先程よりもちょっとだけ丁寧に髪を上げた。首筋を掠めて行く夜風が心地好くて、頭に掛かった霧が多少晴れた。
ベランダの方を見て細く息を吐く。カーテンの隙間から見える夜桜が何とも艶やかで、また少し憧れた。
それを見てから考える。自分への誕生日プレザントはアルコールかニコチンか。最後まで迷いつつも、私は冷蔵庫へ向かった。今日は欲張りに行こう。二十六歳の私に乾杯を。
静寂の中には、服が擦れる音と足音だけが響いた。写真やマグネットが大量に貼られた冷蔵庫を開けようとする。その行為にいつもより力がいった気がした。
扉が開いてオレンジ色の光が漏れる。それに軽く目を細めた瞬間、案の定足元でガサガサカツンと軽い音と硬い音が聞こえた。深夜、ましてや壁の薄いアパートだと言うのに、かなり耳につく音を立ててしなった。
「懐かしいな」
その場に屈みこんで三枚の写真を順に見ていく。無意識に呟いた声は、悲嘆に塗れていた。写真の中の私は、今では考えられない程幸せそうな顔をしていたから。
水族館、クラゲの水槽に燥ぐ彼。少年の様な姿が好きだった。テーマパーク、お城の前、彼と私。ロマンチックな展開を期待していた。この空間、ベランダでコーヒーを飲む彼。一番好きな貴方の姿と顔。
メリーゴーラウンドの様に、過去の思い出が脳内でループする。一生止まらない白馬の上に、王子様は居なかった。
ああ、三年間彼に取り残された『行ってきます』は、いつ回収されるのだろうか。一生置き去りにされたそれは、胸を切り裂くのに容易かった。
「あ」
扉を開けっ放しにしていた様で、冷蔵庫に軽く怒られる。下唇を噛み意を決して立ち上がる。扉を閉めてから、写真とマグネットを元の位置に戻した。
たった一面、私の惚気。たった一面だけでも、溢れんばかりの記憶の欠片に飲まれそうだ。温かくて冷たい部屋に身を置いている様な感覚になった。
もう一度冷蔵庫を開けて中を見渡す。調味料と卵。作り置きのポテトサラダ。目立った物と言えばそれだけ。
「これしか無いか」
ぼやけた視界には、到底祝杯と呼ばれる様な酒は見えなかった。しかし、一缶だけ『ちと酔う』があった為、それを手に取った。明日も仕事だからこれぐらいにしておこうか。
「おめでとう私」
冷蔵庫の中に手と酒を残したまま、そう呟く。そして、ケーキの蝋燭を消すのと同じ気持ちで、タブを上げた。カシュッと小気味良い音が聞こえ、まだ何もしていないのに、少しだけ胸が満たされた。
右手で冷蔵庫を締めながら一口目を口にする。喉を流れていく冷たい液体に誘われて、頭が冴えていく。そうしてまた実感するのは、ひとりぼっちの夜は、寂しい。という事だった。
この二十六年。数え切れない程のひとりぼっちの夜を過ごしてきたが、ここ三年はずっと虚しくて寂しい。そして何故か今日は一段と寂しさを実感した。
桃の味が舌に絡んでいる。全然酔えないアルコールを部屋を歩きながら飲んだ。どうやら喉は乾いていた様で、早いペースで缶が軽くなって行く。これだけしか無いから大切に飲もうと思っていたのに。
ローテーブルに乱雑に置かれた煙草とライターを空いている手で持つ。そのまま真っ直ぐにベランダへと向かった。カーテン越しに外を見て、夜がいつもより少し明るい事に気がついた。
「綺麗……」
部屋と外を仕切る白い膜を不器用に捲りながら、そう零した。
濃紺の天井から伸びる青白い月光。薄桃色に包まれた乳白色の街灯。そんなスポットライトの下の桜花。ドラマにするにはピッタリなその光景は、私たちが一番好きだったものだ。
アルミサッシの向こう側にある二足のサンダル。犬のキャラクターが描かれたお揃いのサンダル。仲良く並んだそれの、小さい方に足を通した。
室外機の上の灰皿の横、煙草とライターを置いて、声帯を揺らしながら伸びをした。物をねだる子供の様な声だな。と我ながら思ってしまった。
目を擦りながら不意に灰皿を見てみると、もういつのものかも分からない吸殻がかなりあった。いつか掃除しなきゃな。そのいつかは当分来ない事を知りながら、そう思った。
手すりに肘を掛けて、そこに体重を預け、桜を眺めながらアルコールを摂取していく。一口ごとに溜息を吐きながら。
「いらない」
何も考えず、吐息と共に飛び出た言葉は、花弁の様にはらはらと散った。それは多分、きっと、その言葉が嘘だから。でも真実になってほしい。
ドラマなんていらない。
一人このままで良い。ドラマの様な展開なんて望んでいない。必要ない。そう言葉を積み重ねる事で自分を騙そうとしている。普段なら上手く行くはずのそれだが、今日は調子が悪い様だ。
風のよく当たる右側を気にしてしまう。
返しの付いた棘が、皮膚の深くに刺さっている。もがけばもがく程傷が深くなって、時間が経てば経つほど膿んで行く。それが全身に刺さっている私は、壊れそうになる程の痛みと暮らしている。
今日はいつにも増して溜息が多いな。そう思いながら、早々に空になった缶を眺めた。それを緩慢な動きで室外機の上に置き、ふぅと息を吐きながら煙草とライターを手に取った。
室外機の前で屈んだまま、煙草を取り出して口に咥える。親指に力を入れるのと同時に鳴った、カチリと言う軽い音を合図に、ほうっと火が生まれた。煙草の先端にそれを翳し火を付けた。
久々の様に感じる一服だ。肺まで流していた煙を吐き出す。その間、メンソールが鼻の奥をツンと刺していた。お陰様で、ぼやけた脳内の瞬く間に一掃された。
その場で数口吸ってから灰を落として、また緩慢な動きで元の場所に戻った。隣には貴方が居る。筈だった。隣からは芳醇な香りが漂っている。筈だった。ひとりぼっちの夜は裏切られているばっかりだ。
「何だかなぁ」
曖昧な言葉が口をついた。彼が居なくなってから独り言の回数が増えた気がする。無論それは、その言葉を拾う人はいなければ、話し相手もいないからだろうけど。誰かが居るから成り立つ言葉は、その誰かが居ないから独り歩きするのだ。
また思い溜息を吐く。今日が始まってまだ一時間も経っていないのに、溜息の数だけは片手で数え切れなくなっていた。鮮明になった脳味噌で考える。私は今生きているのか。……結論は出なかった。
私、心と一緒に頭も弱くなったみたい。自分の不甲斐なさにまた溜息を重ね、煙草を咥える。別に美味しくは無い煙を楽しんだ。
それから吐き出した煙の行先を追っていく。あの煙は、彼の居る所まで届くのだろうか。届くのならば、私も煙になりたい。
その時、不思議な風が吹いた。桜の様に可憐で、月の様に淑やかな風が頬を舐む。柔らかな夜風。それが私を包む。
その時、懐かしい香りが鼻についた。芳醇なコーヒーの香りが鼻腔を満たした。ハッとして風の来た道を見る。こちら側に膨れ上がったレースカーテンの向こう側。一つの人影。慌てた私は煙草の火を消す。
直感で理解した。そこに貴方が居る。
ヴェールが上げられる。これ、夢だ。瞬時にそう理解した。だって、月明かりがこんな明るい訳が無い。だって、桜がこんな彩度を持っている綺麗な訳が無い。
私きっと、きっと夢を見ているんだ。
「夢じゃないよ」
思考が読まれていたんだとと錯覚するほど、彼はタイミングよくそう言った。その後に軽く鼻を触る。夢じゃないと信じたい。それは嘘の合図だけれど。
耳障りの良い声に、思考が止まる。
私の右隣。優しい彼はそこに居る。
ずっと待っていた。私の恋人。
「ただいま」
はにかむ様に、屈託の無い笑顔でそう言う彼が眩しかった。その表情が懐かしくて、胸がいっぱいに満たされた。三年間待ち焦がれていた言葉に返すのは、やっぱりこれ。
「おかえり。みづき。待ってたよ」